第5章 商業都市への旅立ち
汽車がリバータウン駅に滑り込んだ瞬間、エイデンは目を見張った。アイアンマウントの煤煙に包まれた景色とは全く異なる世界が広がっていた。駅舎は大理石で装飾され、高い天井には美しいステンドグラスがはめ込まれている。プラットフォームには様々な身なりの人々が行き交い、活気に満ちた商業都市の雰囲気を醸し出していた。
「これが商業の中心地か」
エイデンは感嘆の声を漏らした。炭鉱町では見ることのできなかった洗練された建物群が街に並び、馬車や荷車が絶え間なく往来している。人々の服装も格段に上品で、話し方にも教養の深さが感じられた。
駅を出て街の中心部に向かうと、そこには巨大な商業建築が建ち並んでいた。銀行、商社、百貨店、証券取引所。看板には聞いたことのない会社名が連なり、それぞれが重要なビジネスを扱っているのが分かった。
「ハートフォード商会はこの辺りのはずだが…」
エイデンは推薦状を握りしめながら、グレイ会長から教えられた住所を探した。しばらく歩くと、重厚な石造りの建物に「HARTFORD TRADING COMPANY」の文字が見えた。
建物に足を踏み入れると、そこは炭鉱町とは別世界だった。磨き上げられた大理石の床、高い天井、そして忙しそうに行き交うスーツ姿の人々。受付の女性は丁寧だが、明らかにエイデンの質素な服装を値踏みするような視線を向けた。
「ハートフォード商会の採用担当者にお会いしたいのですが」
「お約束はございますか?」
「グレイ会長からの推薦状をお持ちしました」
推薦状を見た受付嬢の態度が一変した。
「グレイ会長からでしたら…少々お待ちください」
やがて、五十代の紳士が現れた。ヘンリー・ウィリアム・ハートフォード三世、この会社の専務取締役だった。父である社長と同名のため、社員たちからはミドルネームで「ウィリアム」と呼ばれている。
「君がエイデン・フリーマンか。グレイから君の話は聞いている。なかなか興味深い経歴の持ち主だそうだな」
ウィリアムは推薦状に目を通しながら言った。
「炭鉱で一年半、労働者のリーダーとして活躍したと書いてある。商業の経験はないようだが、グレイは君の人物を高く評価している」
「はい、商業については全くの素人ですが、一から学ばせていただきたいと思います」
「よろしい。我が社では、誠実で学習意欲のある人材を求めている。ただし、ここは炭鉱とは違う。頭脳労働が中心で、複雑な人間関係もある。適応できるかな?」
「必ずやり遂げます」
エイデンの真摯な態度に、ウィリアムは満足そうに頷いた。
「では、見習いとして採用しよう。最初は倉庫管理から始めてもらう。そこで基礎を学んでから、徐々に商談や営業に携わってもらう予定だ」
こうして、エイデンの商業界での新生活が始まった。
最初の数週間は、商品の管理と帳簿の作成から始まった。ハートフォード商会は、アルセニア各地の農産物や工業製品を扱う総合商社だった。穀物、織物、金属製品、機械部品。様々な商品が巨大な倉庫に保管され、日々全国各地に送り出されていく。
「エイデン、この帳簿を見てくれ。数字が合わないんだ」
同僚のチャールズ・ウィルソンが困った顔で相談してきた。彼は大学を出たばかりの青年で、理論は知っているが実務経験は浅かった。
エイデンは帳簿を詳しく調べた。炭鉱での細かい作業記録の経験が役に立った。
「ここに誤記がありますね。おそらく、この取引の数量を間違えて記載したのでしょう」
「本当だ!よく気がついたな。君は数字に強いんだね」
エイデンの観察力と正確性は、すぐに周囲の注目を集めた。しかし、全てが順調だったわけではない。
ある日、昼食時に同僚たちとの会話で、エイデンは微妙な空気を感じ取った。
「エイデンは炭鉱出身だそうだな」年上の社員ロバート・ハッチンスが言った。「随分と…変わった経歴だ」
「ええ、労働者として一年半働いていました」
「我々とは育ちが違うということか。この業界は、やはり教養や家柄も重要だからな」
ハッチンスの言葉には、明らかに軽蔑の響きがあった。大学教育を受け、裕福な家庭で育った彼らにとって、エイデンのような出身の人間は場違いな存在だったのだ。
しかし、エイデンは動じなかった。炭鉱で学んだ忍耐力と、人間関係を築く技術が彼を支えた。
数ヶ月後、エイデンに大きなチャンスが訪れた。北部の農業組合との重要な取引で、担当者が急病になったのだ。
「エイデン、君にこの交渉を任せたい」ウィリアムが直接指示した。「相手は頑固な農民たちだ。大学出の理屈では通じない。君の実直さが必要だ」
「ありがとうございます。必ず成功させます」
交渉当日、エイデンは農業組合の事務所を訪れた。相手は五十代の農民リーダー、トーマス・マクブライドだった。彼は最初、若いエイデンを見て明らかに不満そうな表情を見せた。
「ハートフォードは、こんな若造を寄こしたのか?我々をなめているのではないか」
「マクブライドさん、お時間をいただき、ありがとうございます。私は確かに若輩者ですが、農業の大変さは理解しているつもりです」
エイデンは炭鉱での経験を交えながら、労働の厳しさと誇りについて語った。自分もまた、汗と土にまみれて働いてきたことを率直に話した。
「ほう、君も現場を知っているのか」マクブライドの表情が和らいだ。「最近の商社の連中は、数字ばかりで現実を知らない者が多い」
エイデンは、農業組合の抱える問題を丁寧に聞き取った。単に安く買い叩くのではなく、長期的な関係を築くことの重要性を説いた。
「私たちは、短期的な利益ではなく、持続可能な取引関係を求めています。農民の皆さんが安定した収入を得られれば、我々も安定した商品供給を受けられる。双方にとって利益のある関係を築きましょう」
交渉は成功に終わった。それまでの取引量を20%上回る契約を獲得し、さらに長期契約も結ぶことができた。
「エイデン、素晴らしい成果だ」ウィリアムは満足そうに言った。「君には商才がある。人との関係を築く能力は、この業界で最も重要な資質だ」
この成功により、エイデンの社内での地位は大きく向上した。以前は軽蔑的だったハッチンスも、今では一目置くようになっていた。
夕方、エイデンは一人でリバータウンの街を歩いた。高層建築群を見上げながら、炭鉱町でのジェイコブとの会話を思い出していた。
「師の教えは、ここでも通用している」
エイデンは懐から、ジェイコブにもらった石を取り出した。小さな石だったが、彼の原点と誇りを思い出させてくれる大切な宝物だった。
「人間の真の価値は、出身や学歴ではなく、その人の行動と心にある」
エイデンは確信を深めていた。商業界でも、誠実さと努力があれば道は開ける。そして、ここで得た経験と人脈が、いつか更に大きな目標への足がかりになるのだ。
翌日、エイデンは新しい取引先開拓の企画書を作成していた。彼の視野は既に、リバータウンを超えて全国に向けられていた。
十八歳の青年は、商業の世界でも着実に成長を続けていた。次なる挑戦に向けて、新たな一歩を踏み出そうとしていた。