第1章 旅立ちの朝
夜明け前の静寂を破って、古い床板がきしむ音が響いた。エイデン・フリーマンは息を殺し、家族を起こさないよう注意深く身支度を整えていた。粗末な木箱に詰め込まれた僅かな衣服、母からもらった小さな銀のペンダント、そして三年間の農作業で稼いだ銀貨三枚と銅貨十数枚。十六年の人生で築き上げた全財産は、小さな布の袋に収まってしまった。
薄闇の中で、エイデンは手製のノートを手に取った。廃材で作った表紙は既にぼろぼろだったが、中には彼が独学で覚えた文字がびっしりと書き込まれている。読み書きを教えてくれる学校など、この土地にはなかった。農園主の子供たちが通う学校の窓の外で、こっそりと授業を盗み聞きして覚えた知識の結晶だった。
「この土地にいては、永遠に『元奴隷の息子』としてしか見られない」
エイデンは心の中でつぶやいた。母のマーサが大農園で奴隷として働いていたことは、村の誰もが知っている事実だった。奴隷制度が廃止されて既に十六年。法的には自由になったはずだが、現実は何も変わっていなかった。左肩に刻まれた農園の印-三つの麦穂を組み合わせたマーク-は、彼の出自を永遠に証明し続ける。幼い頃に入れられたその刺青は、服で隠すことはできても、決して消えることはない烙印だった。
隣の部屋から微かな気配が聞こえてきた。母が目を覚ましたのだろう。エイデンは荷物を肩にかけ、そっと扉に向かった。
「エイデン?」
振り返ると、母のマーサが薄暗がりの中に立っていた。四十代前半の彼女の顔には、長年の苦労が刻まれている。しかし、その目には息子への深い愛情と、そして諦めにも似た理解の光があった。
「お母さん、起こしてしまって…」
「いいのよ。今日は早いと思っていたから」マーサは小さく微笑んだ。「本当に行くのね」
「ここにいても未来はない。僕には、僕にしかできないことがあるはずなんだ」
マーサは黙って頷いた。息子の中に燃える炎を、彼女は幼い頃から感じ取っていた。エイデンは他の子供たちとは違っていた。差別を受けても、屈辱を味わっても、決して希望を失わなかった。むしろ、困難に直面するたびに、より強い意志を見せるのだった。
「待って」
マーサは奥の部屋に向かい、すぐに小さな包みを持って戻ってきた。
「お弁当よ。それと…」
包みの中から、小さな写真が出てきた。家族四人が写った唯一の写真だった。エイデンの父は彼が幼い頃に亡くなっていたが、母と二人の弟妹との写真は、彼にとって何よりも大切な宝物だった。
「持っていきなさい。どこにいても、あなたには家族がいることを忘れないで」
エイデンは写真を胸に押し当てた。涙が頬を伝った。
「お母さん、僕は必ず…」
「何も約束しなくていい」マーサは息子の頬に手を当てた。「ただ、あなたらしく生きて。あなたには可能性があるの。私にはなかった可能性が」
その時、弟のルーカスと妹のリディアも起きてきた。十二歳のルーカスは兄の旅立ちを理解していたが、八歳のリディアはまだ状況を飲み込めずにいた。
「兄ちゃん、本当にどこか遠くに行っちゃうの?」リディアの声は震えていた。
「そうだよ、リディア。でも必ず手紙を書くから。それに、立派になって帰ってくるから」
ルーカスは何も言わずに兄を抱きしめた。「僕も後で追いかけるから」
「ああ、でもその前に勉強をしっかりするんだ。君たちには僕以上の可能性があるんだから」
家族との別れを終えると、エイデンは村の中心部に向かった。朝の七時を回っていたが、既に多くの人々が活動を始めている。しかし、エイデンが道を歩いていても、誰も挨拶をしてくれる人はいなかった。見えない壁が、彼と他の住民の間に厚く立ちはだかっていた。
雑貨店で旅の準備品を買おうと店に入ったが、店主のミラー氏は露骨にエイデンを無視した。
「すみません、パンと水筒を買いたいのですが」
ミラー氏は新聞を読み続け、まるでエイデンが存在しないかのように振る舞った。店の奥から店主の妻が出てきて、夫に何かを囁いた。エイデンには聞こえなかったが、おそらく「あの子は例の…」という内容だったのだろう。
「売り切れだ」ミラー氏は新聞から顔を上げずに言った。
しかし、エイデンの後から入ってきた上流階級の客には、同じパンを売っているのが見えた。エイデンは何も言わずに店を出た。怒りで拳を握りしめたが、ここで問題を起こしても何の意味もない。
駅に向かう途中、馬車の停留所で待っていると、御者が近づいてきた。
「乗車したいのですが」
「満席だ」
しかし馬車には明らかに空席があった。その後、三人の白人客が乗り込んでも、御者は「満席だ」という言葉を取り消さなかった。
エイデンは歩いて駅に向かうことにした。泥だらけの道を踏みしめながら、彼は遠くに立ち上る汽車の煙を見つめた。
「あの煙の向こうに、きっと違う世界がある」
同じ年頃の農園主の息子が、家族に見送られて気軽に馬車に乗り込む姿が目に入った。彼らには選択肢があった。大学に進学し、家業を継ぎ、自由に将来を設計できる選択肢が。
しかし、エイデンは羨望ではなく、決意を胸に刻んだ。「いつか見返してやる。この世界の常識を変えてやる」
駅に到着すると、そこには見慣れた光景が広がっていた。「上等客専用」と「一般客専用」に分けられた待合室。エイデンは後者の粗末な部屋に向かった。
切符売り場で、駅員は露骨に嫌な顔をした。
「どこまで行く?」
「北の工業地帯に向かいたいのですが、どこか仕事がありそうな町はありませんか?」
駅員は面倒そうに地図を指差した。「ニューフォード州のアイアンマウント炭鉱なら、人手不足だろう。ただし、きつい仕事だがな」
わざと遠い目的地を勧められているのは明らかだったが、エイデンは素直に切符を購入した。貴重な銀貨一枚が消えたが、これが新しい人生への投資だと思った。
待合室で待っていると、一人の老人が隣に座った。六十代ぐらいの男性で、品のある身なりをしている。
「北に向かうのかい、若いの?」
「はい。仕事を探しに」
老人は優しく微笑んだ。「わしはジョサイア。孫に会いに行くところだ。お前さんのような年の孫がニューフォードにいるのでね」
ジョサイアは元奴隷だったが、解放後に商売を始めて成功した人物だった。差別を受けながらも、決して品位を失わない姿にエイデンは感銘を受けた。
「若いの、一つ忠告させてもらおう」ジョサイアは静かに言った。「怒りを力に変えることを覚えなさい。恨みは人を小さくするが、正義への情熱は人を大きくする」
汽車が到着すると、エイデンは最後尾の貨物車両に近い席を指定された。車内は狭く、汚れていたが、窓から見える景色だけは皆に平等だった。
汽車が動き出すと、故郷の風景がゆっくりと後方に流れていった。十六年間過ごした土地が、次第に小さくなっていく。しかし、エイデンの心は軽やかだった。
車窓から見える広大な大地を眺めながら、彼は心の中で誓った。
「この旅で、人間の真の価値とは何か、それを世界に示してみせる。出自で人を判断する世界を、必ず変えてやる」
汽車は北に向かって力強く走り続けた。煙突から立ち上る白い煙が、まるでエイデンの決意を天に届けるかのように、青空高く舞い上がっていった。新しい人生の始まりを告げる汽笛が、アルセニアの大地に響き渡った。