出発前に
真珠様が指定したのは二日後の夜でしたが、私達は翌日、大蛇騒動について改めて調査をするために、再び学術都市―リゲルへ向かうことにしました。
都合の良いことに、街は目的地の途中です。
大蛇を取り逃がした探偵が戻ってきたと難癖つけられる恐れはありますが、それなりに大きな街です。
顔を見られたのはごく一部でしょう。
宿泊することを前提に、家を出ます。
「クルミちゃん、おはようございます」
馬車をつないだ栗毛の馬、クルミちゃんに挨拶すると、小さく嘶いて応えてくれました。
名前の通り、胡桃色のたてがみをした牝馬は、顔を撫でると穏やかに目を細めます。
クルミちゃんの背には籠が取り付けられており、中には山高帽にスーツとマントの、外出用の出で立ちをした人形が一体、収まっていました。
「今日は陸号さんがお供なんですね」
陸号の横に、御者と追加されたお面でこちらを見下ろし、人形はこっくりと頷きました。
馬車は、御者台が座席の後ろにある、いわゆる辻馬車スタイルですが、座席からも手綱が握れるようにしたり、御者台の背もたれを高くして折りたたみ式の幌を付けたと、色々使いやすいよう改造しています。
ご主人は馬車の座席を覗き込み、
「こら、キビ。お前はいつまで寝ぼけているんだ」
呆れた口調で小さな獣を抱き上げました。
ご主人の右手に前脚をかけ、左手に尻を乗せるのは、ふさふさの尻尾をした胴長短足の小動物です。
一見すると小型のイタチですが、耳は大きく、目は綺麗なアーモンド型と、犬と猫を足したような顔つきです。
毛色は、背は薄い黄色で、腹は白。
耳の間に長毛が逆立ち、長い首回りはふわふわ、これまた長い胴体はつやつや、長い尻尾は前述の通りと大変可愛らしい姿ですが、四肢は骨太で逞しく、体は引き締まってどこか強靱な印象があります。
霊獣という、妖精や精霊に近しい、とても神聖な生き物だそうです。
その証拠に、額には鱗のような形に硬質化した部分があります。
体毛と同じ色をしているので見逃しがちですが、丸く膨らんだそれは、霊性と知性の証だそうです。
くしゅんっ、と霊験あらたかな霊獣がくしゃみをしました。
「あー」とでも言いたそうに目を閉じ、口を半開きにしています。
人間は物事を理想交じりに評価しがちです。
「ほれみろ、こんなところで居眠りするから」
「まだ眠いんですよ。今朝はいつもより早いですし、昨日はクルミちゃんと一緒に、一日中放牧場でしたから」
広い草原をはしゃぎ回っていた姿が想像出来ます。
昨夜、厩の様子を確認した際、キビちゃんは来客にも気付かず、寝床にしている魚籠の中で、後ろ足の肉球を空に向けて熟睡していましたから。
私は外出用のエプロンのポケットから、小さく折りたたんだ布を取り出しました。
「寒いようでしたら、これを――あ」
布を広げて掲げた途端、キビちゃんは目を見開き、主人の腕からするりと抜け出すと、泳ぐように宙を飛び、陸号さんの籠の中へ入ってしまいました。
「ああー……」
私は肩を落としました。
この通り、私はキビちゃんにあまり懐かれていません。
「何故でしょう……」
「そいつのせいだろう」
キビちゃんにあつらえたフード付きベストを、ご主人は指摘します。
私は深々と嘆息です。
「フードにもフリルを付けてみたのですが、やはりデザインから見直すべきでした……」
前回、見向きもされなかった衣装に、簡単に手を入れただけだと見抜かれてしまったようです。
「ああ、うん。 ――さて、行こうか」
ご主人は微妙な顔で言うと、馬車に乗り込みました。
私もご主人の隣、少し座面を高くした席に座り、手綱を取ります。
「次はレースを試してみようと思います」
「……まあ、ほどほどにな」
ご主人は苦笑いをされていますが、私の決意は揺るぎません。
「では、行ってきます」
窓から手を振る漆号さんと捌号さんに手を振り返しながら、出発です。
山を下り、麓の街の、大家さんのお店へ外泊の報告を入れた後、お一人で売店へ向かったご主人は、小脇に新聞を挟み、片手には体長一メートル強の、真っ黒い鮫のような物の喉を掴み上げて戻ってきました。
のっぺりとした体には、光で作られた短い矢が何本も突き刺さっています。
しゃっくりするように痙攣する魚を、ご主人は釣果を誇るように掲げ、
「首尾良く罠に掛かっていたよ」
「大物ですね」
座席で新聞を受け取り、私は黒い魚、魔物に目を向けます。
大気には、魔素と呼ばれる希少気体が含まれています。
非常に重いこの気体は、生物の死骸に堆積すると、死骸を化け物に変化させるという、何とも厄介な性質を持っています。
魔素と死骸からなる化け物は、黒影のようなその姿から魔物と呼ばれてきました。
常人には見えざるこの不思議な存在は、案外気質は大人しいのですが、生態は害悪の極み。
よって見かければ、即、駆除です。
捕縛された魔物は、弱点である陽光に晒され白煙を上げながらも、逃れようと身を捩っていますが、ご主人の術の方が勝っています。
と、クルミちゃんが短く嘶きました。耳を立て、こちらを気にしています。
籠の中では、陸号さんは恐れをなしたように、キビちゃんは厳しい顔でこちらを見ています。
「ご主人、皆嫌がってます」
大抵の人は魔物を視認出来ませんが、勘の良い動物は魔物の存在に敏感です。
そして霊獣にとっては天敵の一つ。
キビちゃんの尻尾が微妙に膨らんでいます。
「おお、すまんな」
ご主人は、魔物を掴む手に力を込めます。
呼応するように矢が白熱、放電し、魔物が空気を入れられたように膨らんだかと思うと、一瞬でご主人の手の内に向かって収縮しました。
「――こんな物か」
手を開き、魔物だった物を朝日にかざします。
回し見るそれは、黒を内包した曇りガラスのような小石でした。
黒い内容物は凝固した魔物―魔石と呼ばれていますが、それを覆うガラス質はご主人の術です。
裸の魔石は、表面を煤に覆われた炭素系鉱物のような形状をしています。
物質化しているので常人にも視認出来、稀に山野や河川に転がっているのを標本用に採集されたりしますが、それが魔物の成れの果てだと知らなくても、昔から危険な毒鉱物として鉱物愛好家の間では有名です。
よって取り扱いは厳重注意。
このように術で封入して、安全に保管します。
ご主人の郷里では、こうして処理された魔石を魔封石と呼んでいるそうです。
「お見事です」
私は素直に賞賛しました。
簡単にみえて、熟練度を要する仕事です。
ご主人は粗悪なキラの他にも、魔物が人の居住区に入り込まないよう、罠を仕掛けて駆除しています。
魔導術に関わる者の義務だとご主人は仰いますが、無給の慈善活動ではございません。
魔石は魔封石として封印した後、適切に処理すれば稼ぎに繋がりますので、仕事として成立しています。
魔導術が完全に廃れなかった理由は、ここにあるみたいです。
「昼には使えるようになるだろう」
円柱の容器に魔封石を入れ、行商箪笥の引き出しにしまうと「騒がせたな」ご主人はクルミちゃん達に軽く詫びを入れ、馬車に乗り込みました。
魔物を視認出来なかったのでしょう、売店の売り子が店の中から不審そうに私達の様子を眺めていましたが、やがて興味をなくしたように、手元の新聞をめくりました。