女主人と侍従
私は優秀な侍従です。
失敗は猛省しますし、しつこく引きずって次の仕事に障るような愚かな真似もいたしません。
板戸一枚隔てた向こうに大蛇がいようとも、怯むはずなどございません。
こほんと咳払いを一つ、
「どちら様でしょうか?」
ご主人の言葉を信じるなら大蛇様でしょうが、型通りに誰何して、私は静かにドアノブを回しました。
ええ、私の胸部の動力源、立体庭園はバックバクと高鳴っておりますとも。
ですが、恐怖で竦み上がっているわけではございません。
書いて字の如く鋼の心臓、打ち鳴らすのは、好奇し……、もとい知的欲求でございます。
実は件の大蛇退治の折、ご主人の言いつけで高台より監視業務に専念していた私は、大蛇の姿を直接見ることが出来なかったのです。
しかも屋根に上った直後、同じように見物に上がった野次馬のお一人が足を滑らせ、落っこちそうになっていました。
しかも悪いことに、同じ野次馬の皆さんは遠くの大蛇騒動に夢中で、尾根を挟んだ反対側の端っこにぶら下がるその方に誰も気付きもしなかったのですから、さあ大変。
私一人で何とか引き上げ、事なきを得ましたが、その頃には騒ぎは収集して、全長十メートルはあろうかと言われた大蛇の姿を視認することが出来なかったのです。
惜しいことしました。
街を去り際、すれ違う住民達が、荒れ狂う大蛇の様子を興奮冷めやらぬ顔で話すのを耳にして心底がっかりしたものです。
ですがその大蛇、何と今、扉の向こうにおいでです。
こんなドッキドキ体験、ありましょうか!
ええ、怖くはありませんよ、怖くなどっ!
………………。
右手でドアノブを掴んだまま、胸元で握った左の拳を解き、私はふっと短く呼吸をしました。
大蛇という希有な存在を観察することにより、単調な日々を送る思考回路に刺激を与え、より円滑な演算を行える事を期待しているだけであって、好奇心も恐怖もございません。
ええ、好奇心旺盛なのは主人の方で、それを諫める冷静な侍従が私なのです。
――さて。
気を取り直し、私はゆっくりと戸を開きました。
ドアを開くまでの時間、およそ三秒。
この僅かな時間における私の思考は以上のようなものでした。
開け放った戸の向こう、夜の帳を背に立っていたのは、少なくとも私には二人の人間、男女に見えました。
ひどく具合の悪そうな女性と、彼女を支える男性です。
女性は踝まで隠れるドレスの上に、頭からフードローブを被り、肩に羽織ったショールを胸元で握り締めています。
服地は皺や乱れはあるものの、一目で高級品と分かります。
肩口から純白の髪が流れ落ちていますが、白髪ではなさそうです。
目深に引き下ろされたフードのから覗く華奢な顎や艶のある唇から、妙齢の女性と判断出来ますが、首や片頬に撒かれた包帯と、半開きになった唇から浅い呼吸が繰り返し漏れる様子から、荒んだ印象を受けます。
男性は、少々時代遅れの礼服を着用していて、彼女の侍従と判断出来ました。
鋭利な刃物を思わせる端正な顔立ちの若い男性です。
主人を支えることにのみ全神経を集中しているようでした。
彼の頭にも包帯が巻かれ、シャツの下にも包帯が覗いています。
警戒するような視線を一瞬こちらに走らせた後は、気遣わしげに主人を見つめています。
客人は大層難儀しながら口を開きました。
「――夜分遅くに失礼。こちらは探偵、シキビ殿のお住まいとお伺いした。かの御仁はご在宅だろうか。どうしても依頼したい事がある」
ひどく枯れた声ですが、目測通り、若い女性のものでした。それも威厳のある語調です。
私はごく平坦に、
「主人はおりますが、本業は解術師、探偵は副業にございます。それでよろしいのであれば、お通しするよう仰せつかっております」
「解術師……」客人は口の中で呟き、
「それはどういった職業だろうか」
「術を解く事を本領とした魔導師の下位職でございます」
「……おお」客人は震えるように感嘆を漏らしました。
「構わない。むしろ好都合だ」
「では、どうぞお入り下さい」
私は脇へ下がり、客人を招き入れました。
客人はゆっくり、前のめりになりながら室内へ足を踏み入れます。
ひどく歩きづらそうですが、侍従が背後から彼女の両肩をしっかり挟んで支えているので、転倒の心配はなさそうです。
椅子を勧め、お茶の用意をしようと一礼した私は、ふと、侍従の腰に、奇妙な物が下がっているのに気付きました。
一輪挿しの花瓶に似た卓上ランプ、その木製の胴体部分に紐を結んで腰に吊り下げているのです。
室内用の灯火器を持ち歩くなど随分変わっていますが、見たところ富裕層のようですし、こういった趣向が流行っているのかもしれません。
じろじろと詮索するのは失礼です。
私が踵を返すと、入れ替わるように着替え終えたご主人が扉から出てきました。
円卓の脇に立ち、優雅に一礼、
「探偵にして解術師、シキビと申す。ようこそおいで下さいました。歓迎しますぞ」
目を炯々と光らせ、口の端に妖しげな笑みを浮かべる姿は、我が主ながら小癪でした。