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短編集 〜 カレッジノート〜 

雨宿りスケートボード

作者: 星川ぽるか

短編100チャレンジをしています。すでに息切れ直前でありますが、いえ嘘です。バリバリのギャンギャンです。読んでもらえれば嬉しすぎぴえん(涙)……です ーーダブルピースーーしてますV

 昨日は大変だった。山陽電車に乗った藤野さんが江井ヶ島駅で降り、海岸めがけてスケートボードを蹴ったのだ。

 彼女は至る場所でスケートボードを蹴る。雑踏の隙間を駆け抜ける猫のように自由自在に兵庫のストリートをヘッドフォンをして滑る。

 僕は彼女を何度も追いかけたが、後ろを気にしない藤野さんに追いつくことは容易ではない。また何者も彼女を捕まえることはできない。大学教授も彼女が書き上げた「カラスを手懐けるブレイクダンス術」というダンスサークル屈指の不朽の論考にご執心である。もちろん、教授がどれだけ単位をチラつかせても彼女を捕まえることはできていない。何せ日夜彼女を追いかける僕でさえ、月に手を伸ばすほど困難を極める偉業なのだ。そこいらの凡人では彼女に挨拶することもできない。スケートボードの車輪の音を呆然と聞くのが関の山だ。だから僕は彼女を追い越すことだけを考え、スケートボードを蹴り続ける。藤野さんと親睦を深めるためにお茶に誘う。お茶に誘うために声をかける。声をかけるには彼女に追いつかねばならない。彼女とまともに話せたのは、雨宿りをしている時間だけだった。

「やあ、藤野さん。相変わらず滑ってるようだね」

たから先輩は今日もボロボロですね。先輩と会う時って、いつもボロボロですけど何やってるんですか?」

「大したことない。修行だよ」

 彼女は常に道なき道を滑落するのでスケートボード素人の僕はいつも命懸けだった。角が削れた花壇、幅のある高さのない公園の階段。垂水区の迷路のような坂道を臆せず進んでいた。

「嘘吐かないでください。先輩が修行なんてあり得ません。いつもぐうたら坊主じゃないですか。外に出たと思ったらあてもなく街を歩いて煙草を吸って」

「以前まではそうだったけど、今は違う。本当に修行してるんだ」

「……まあなんでもいいですけど。雨止んだんで私行きますね」

 雨宿りの日は決まって多くは話せない。天は僕に一滴の蜜しか垂らしてくれず、雨が降る空はいつも晴れる。晴れ間はいつくたばるのだろうか。豪雨では藤野さんも外へ出ない。彼女と過ごせない時間の方が多く、鬱屈する心はさらに鬱屈を重ねてもはや四次元立方体に達した。塵も積もれば山となるというが、こんな塵は無用だ。欲しいなら誰にだってくれてやるのに、僕の友人たちはいらないと言うんだろう。何故なら友人たちもまた片思いの塵によって生き埋め状態だった。

 僕は大学へ向かった。藤野さんの心を知るために心理学の講義を受けに行ったのだが、これといって役立つものは何も見つからず、教授に人心掌握のすべを尋ねたら「悪用しようとする君には教えられない」と門前払いをくらった。こちらは悶々と孤独に片思いという難儀な衝動と睨めっこをしているだけなのにふところの狭い教授である。やることがなくなった僕は大学構内に孤高にそびえる一つの城へ向かう。その城の名は「恋慕城れんぼじょう」。その周囲は恋の嵐によって舞い上がる片思いの塵の壁によって閉ざされた高貴な城である。壁を越えることができるのは、日常を想い人で忙殺された落涙必定の片思いに苛む学生のみだ。淡い桃色をした塵の嵐の壁をくぐり抜けて、僕は恋慕城の門を叩いた。中にはいつものように恋慕を一人で抱え切れなくなった友人たちが煙草を吸いながらそれぞれが悩みを打ち明けていた。

「宝、今日も冴えない顔をしてるじゃないか」

 友人の横水が煙草を咥えて昼間からレモンチューハイを飲んでいる。他にも変わらない顔ぶれの男たちがソファや椅子に座っており、文化遺産レベルの古風な扇風機がカタカタと首を回していた。

「横水、その目の下のクマはどうした? 前より酷くなってるぞ」

 出会った頃の横水は清潔感に溢れたどこにでもいる腐れ大学生だったのが、ここ最近はスケルトンのごとき見事な不健康体に変わっていた。

「へへ、じつはこの前早瀬さんがどこぞの馬の骨と付き合ったらしくてな。なんでも同じ研究室の男らしいが、目が曇ったとしか思えないよ」

 憔悴する横水に僕は途方に暮れ、周囲の友人たちは涙を流した。横水は世界史の講義で一緒になった早瀬さんに一目惚れをし、それから彼女が受ける講義を調査して偶然をよそおった必然を己で生み出し、日々目的のためにえっさほっさと外堀を埋めていた。純愛を胸に迂遠うえんなやり方しかできない自分を呪いながら、それでもひたむきに恋の匍匐ほふく前進をし続けた報いがこれである。僕たちは過酷な戦いに身を投じていた。過去にこの城にいた内村も総合館の屋上で、万全の準備をして大量の赤い風船を飛ばしたロマンティックシュチュエーションを作り上げた中で告白するも、「狙いすぎて逆に冷める」と言われて心の傷を癒しに京都の寺へ修行しに行った。後輩の古崎は惚れた相手が女装する男子にめっぽう弱い風変わりな女性らしく、彼女の前で何度も女装をしすぎたせいで自分が男か女なのか判別がつかなくなった。思わぬ魔改造をしてしまった古崎は東京に彼女と女装をして遊びに行き、そこで謎のモデルスカウトをされてから連絡が途絶えた。

 僕たちもいつどうなるかわかったものではない。片思いとはすなわち希望の皮を被った呪いである。一縷の望みを抱いて日々相手を陥落させるため、忙しく駆けずり回るだけしかできない。その間にも募る思いは火を吹き続け、不眠不休で消化活動をしなくてはならない。意中の人と準備もせず、ばったり出会った日には後日、焼死体で見つかることだろう。それほど凶悪な怪物と僕たちは暮らしている。その気高き戦いは決して外の世界に知られることはなく、僕たちのような戦士は日に日に孤独になっていくのだ。これを天災と言わずしてなんと言おう。

 今日は横水の傷心をつまみに酒を飲んだ。これが片思いの失恋を癒す最適な治療行為であり、これをやっておかなければ偉大な同志である横水も兵庫から逃げてしまう。これは人生の問題だ。彼は蛙が好きだからアマゾンに行くなどと極端なことを言い出しかねない。失恋の魔力は人をあらぬ方向へと追いやる。僕たちが助けずして誰が彼を助けよう。ただでさえ、彼は早瀬さんに慰めてもらいたいだろうに。それが恋煩こいわずらい中の冴えない男どもだ。世界よ、慈悲はないのか。さっさと起きて慈悲の津波を起こせ。そして横水を解放しろ。

 みんな酔い潰れた後、僕と横水は静かにウィスキーを飲んだ。

「どうして俺ではダメなんだろう。こんなにも彼女のことが好きなのに。怖かったサメ映画だって早瀬さんが好きだからあんなに観れたんだ。いつか彼女とジョーズの話をしたかったし、ディープブルーは1と2どっちが好きなのかとかも聞きたかった。僕は1なんだって言いたかった。それでも彼女は夏に海に行くんだからこんな魅力的な人はそうそういないよ。彼女の両親は偉大だ。早瀬さんをこの世に生み、サメ映画を観せたんだから。早瀬さんが幸せならそれでいいと思えば気持ちも楽になるけど、俺の幸せはどこにあるんだろうか」

「お前の幸せは早瀬さんが持って行ってしまったんだよ」

「そいつはもう取り返せないなー」

 横水はここ数日、常闇麻雀界に入り浸って夜な夜な男臭い男どもと緑色の卓を囲んでいる。先週の的形まとがた杯は大学五回生の浄蓮寺先輩が勝利したらしい。先輩はあらゆる大学制度を駆使して前人未到の八回生を目指している大学側としてはありがた迷惑な男であり、社会にビビる学生にとっては夢のような人物だった。彼に弟子入りしたら最後、六畳のアパートで世界の果てを見せられるらしく、恋の忙殺から解放されるともっぱらの噂だ。片思いの重積に屈した学生は彼の下宿先のアパートの門を叩く。

 もちろん僕はこの逆境を独り乗り切る心構えだが、いい加減叶うかわからない藤野さんの夢を断ち切ってもいいのではと思う時がある。そんな悪魔が忍び寄ってきた時、決まって僕はスケートボードを蹴った。メルカリで二千円の板を購入し、藤野さんにならってブランドロゴや謎のステッカーを貼りまくった。藤野さんが貼るステッカーはすべて名前の知らないアーティストのものであったが、あいみょんが大好きな彼女はそのステッカーだけボードの中心に目立つように貼ってある。最近は和田あき子らしいが、とにかく僕に進展はない。窓の外をふと見やると、土砂降りの雨が降っていた。梅雨が明けたばかりであったが、ここ最近はずっと雨が降り続けていた。

 僕と横水はそれからむにゃむにゃと恋人ができた時の妄想を紳士的に弄んだ。ウィスキーが進むにつれて妄想は飛躍する。もはや僕たちでは手に負えなくなってきて「何の話してたっけ?」となっていた頃、恋慕城の門が叩かれた。

 また一人じゃ押しつぶされそうな恋の岩を背負った若者が来たのかと思った僕は門を開けた。驚くべきことに、そこにいたのは雨水を滴らせた藤野さんだった。ダボダボのパーカーが湿っており、綺麗な黒髪ショートカットがわずかに濡れている。手には削れたスケートボード。首にはヘッドフォンをかけている。

「藤野さん?」

「宝先輩、こんなところで何してるんですか?」

「それはこっちのセリフだ。何しにここへ? いや、どうやって来れたんだ?」

「普通に来ましたよ? 大学でスケボーを蹴っていたら雨が降ってきたので雨宿り場所を探してたんですけど、ちょうどいいお城が見えたので」

 何人なんびとも拒む塵の嵐の壁をスケボーひとつで越えられてはたまったものではないが、藤野さんならどこへだって侵入できそうな気がした。

「大学は開いてないのか?」

「今日は日曜日ですよ? 研究室以外どこも閉まってます。私はまだ二回生なので研究室の配属はまだですし」

「ブレイクダンスサークルの部屋は?」

「今日は休みです。鍵を借りるのも手間だったので。それより、ここで雨宿りをしても大丈夫ですか? ちょっと寒いんです」

 僕はすぐにソファで眠る同志を壁の隅に追いやり、毛布で彼らの裸体を隠して恋慕城へ彼女を招いた。彼女をソファへ案内した後、型落ちのドライヤーを棚から持って来てタオルと一緒に彼女へ手渡した。

「ありがとうございます」

 微笑んで受け取った彼女は髪を乾かした。首を少し上げて髪を乾かす仕草が彼女の日常の一コマを垣間見た気がして、僕の酔いは瞬く間に吹き飛んだ。ここは彼女が決して近づけない僕にとっては安息の城であった。ここでなら片思いに忙殺される日常から一時避難できる唯一の場所。塵の嵐を越えられないと高を括っていたのだ。いつもの穏やかなホームが翻って戦場と化した。ドライヤーで運ばれる彼女の微かな香りで、危うく死にかけた。鼻をこすると少し血が出てきていた。そんな僕の劣勢を悟ったのか、ウィスキーで半死半生の横水が藤野さんに声をかけた。

「君が宝が言っていた藤野さん?」

「そうですけど、先輩が何か言っていたんですか?」

「スケートボードが上手いって聞いてる。それに俺も見かけたことがあった」

「そうだったんですね。初めまして……」

「横水だよ」

「横水先輩ですか。覚えました。私は藤野です」

 二人は互いにお辞儀をして初々しい挨拶を交わす。その時間で僕は平静さを何とか取り戻した。ここで小粋なエピソードで藤野さんと少しでも距離を縮めようと画策した時だった。

「ところで君も片思いの悪魔にやられちまったんだね」

「おい!」と僕は叫んだ。

 横水はウィスキーのせいでまともな理性がアルコールで蒸発していやがった。僕があえて考えないようにしていた地雷を踏み抜き、せっかくの平静さが走り去ってしまった。

 僕は藤野さんの顔を見た。彼女は至って平然としていた。ただのスケートボードで塵の嵐の壁を越えて来た彼女は、恋慕城始まって以来の特異体質者。藤野さんであるならすべて納得がいく。誰よりも何ものにも囚われない彼女が恋慕城なんぞの鉄則に縛られるはずがない。あってたまるか!

 静かに耳を澄ませた僕は彼女の動く口を見つめた。

「はい。じつは私も片思いをしているんです」

 僕は膝から崩れ落ちそうになった体を必死に耐えた。おそらく、人生で一番耐えた瞬間だった。

 横水は馬鹿みたいに笑った。久しぶりに人を殴りたいと思った。僕はこの時ほどドラえもんの素晴らしさとここにいない瞬間を嘆いたことはない。

「そうかい! じゃないとこの城には入れないからね。ここはそんな悪魔を少しでも宥める憩いの城さ。存分に吐き出してくれ」

 横水が無駄な気を回し始めた。僕は己の脆弱な魂を断固として守るべく、話の舵を切った。

「無理に話すことはない。ただ酒を飲みに来るヤツもいるんだ。横水みたいにね」

「確かに。ぐでんぐでんですね」

 藤野さんは横水の真っ赤な顔を見て納得したように頷いた。

「藤野さん、ウィスキーは好き?」と僕は言った。

「はい。お酒でウィスキーと焼酎が一番好きです」

 僕はすぐにお酒を注ぎ、横水を黙らせるために空いたグラスに酒を注いだ。一刻も早い陥落のためロックではなくストレートにした。案の定、横水は潰れた。これで邪魔者はいない。僕はようやく藤野さんと正面から向き合えるようになった。だが、さっきの片思い発言が魚の骨のように喉に刺さって気になった。そして一度刺さった骨は取り出さねば気が済まない。僕は乾いた口をゆっくり開いた。

「……それで本当に今は片思い中なのかい?」

 恐怖を押し殺したせいで脇汗は見事なほどびっしょりに濡れた。

「私のことなんかより、先輩もおられるんですよね? そっちの方が意外です」

 彼女のキラキラとした黒い目が僕の心臓を穴だらけにした。

「まあ、そうなんだよ」

「いつもぐうたらしてるのに、恋には大忙しなんですね」

「まさにこの宝、一生の不覚だよ。夜も眠れない程にね」

 僕がそう言うと、藤野さんは「ああ」と神妙な声を出した。

「それでスケボーを始めたんですね」

 唖然とした。まさにその通りだった。まさか僕の淡く屈折した恋心が届いていたのか。

「おかしいなーって思ってたんですよ。だって怠け者の中の怠け者の宝先輩がスケボーなんて似合わないですもん」

「……そんなにおかしかった?」

「はい。蛙が蛇を食べるくらいおかしいです。でも先輩が好きになる人って想像がつきませんね。やっぱり先輩と同じでロクでもない人なんですか?」

「そんなことはない。本当に素敵な人さ」

 ここで「君のことだよ」と男前に言える男でありたかったと、僕は内心で苦渋の涙を流した。頭の中で何度も己を叩いた。情けないことこの上ない。今まで軽蔑していた三宮のナンパ野郎の無鉄砲さが羨ましく思えた。

「ふーん……けっこう好きなんですね」

 僕は静かにその言葉に頷くと、彼女はグラスに入ったウィスキーをぐいっと飲んでスケートボードを持って外へ出ようとした。

「ご馳走様です。私はもう行きます」

 僕はすぐに立ち上がり、窓の外を眺めた。雨はすっかり弱くなっていたが、まだ小雨が降っていた。

「まだ雨が降ってる。濡れてしまうよ」

「このぐらいならへっちゃらです」

 彼女はヘッドフォンをして、これ以上話すことはないとばかりに恋慕城の外へ出て行ってしまった。僕は一度ひるんだ足を無理やり動かして、大学で練習用に置いていたドンキのスケートボードを持って彼女の背中を追った。


 芝生は柔らかくすそに泥が跳ねた。芝生を過ぎてコンクリートの階段を降りる藤野さんを見つける。僕はすぐに駆け出したが、凹凸のない綺麗なコンクリートはスケートボードのフィールドとして最適だった。彼女はすぐにボードを前の方へ倒し、助走のついたスケートボードに乗って力を殺さず一気に加速する。僕もすぐにスケートボードに乗ったが、彼女はすでに五十メートルも先だった。地面を蹴り、慣れた重心移動で右へ左へと華麗に歴代学長の銅像を避けていく。あっという間に裏門に通じる坂道が見えて、彼女は勢いに任せて緩やかな坂道を下って行った。いくら整然とした路面であっても雨で濡れていては横転するかもしれなかった。しかし彼女に追いつくためには、そんな身の危険なんて考慮してる暇はない。ここでボードから降りてしまっては、藤野さんとの距離はますます開いてしまう。

 僕は地面を強く蹴った。石が転がるよりも滑らかに坂道を下って行く。わずかに彼女の白いパーカーが見えた。湾曲するこのコースは重心の移動が肝心である。僕はかすかに見える藤野さんのように体をやや左へ傾ける。ぐんぐん加速して行くスケートボード。車輪が小石を踏んでわずかに重心がブレて、溝に突っ込んで行きそうなところを右に倒れてギリギリで回避する。スピードが乗りすぎた今では、ブレーキ手段は飛び降りるしかない。慎重に、けれど情熱的に藤野さんを追う。

 坂道を終えると車通りの少ない車道に出た。白線の内側をまっすぐに彼女は進んで行き、僕も彼女を追おうとしたが、段差で躓いてしまい前から倒れてしまった。肘を擦りむいたが、気にせずすぐに起き上がって再び彼女を追う。距離はさらに開いてしまったが、まだ見失っていない。彼女は南に向かって走っていた。

 それから藤野さんを追い続けた。

 コンビニを通り過ぎ、横を通り過ぎるワゴン車の車窓から子どもが僕を凝視していた。車がひっきりなしに走る車道へ出ると、彼女は歩道へ上がり人の隙間を縫って走る。僕は人とぶつかりそうになって途中で降りたりしながら遠くへ行ってしまう彼女を視界に収め続けた。人通りのない脇道へ入ると住宅街へ出た。住宅街で開けた道に出た彼女はさらに加速して行く。住宅街から緑に煌めく並木道へと出る。道なりに進んで行き、山陽電車の踏切を渡ってしばらく地面を蹴り続けると、視界が一気に開けてきた。気がつけば、僕と藤野さんは瀬戸内海が一望できる江井ヶ島海岸へ出ていた。夕暮れで赤く染まる海をスケートボードを蹴って眺めている。水平線にギラギラと煌めく銀色の海を見て、僕は雨が止んでいたことに気がついた。汗と小雨で服は湿っており、髪も濡れている。吹きつける海風が少し肌寒かった。自然と彼女のスピードも緩やかに落ちていた。僕はすぐに地面を何度も蹴り続けてようやく、彼女の隣へ出れた。

「藤野さん!」

 僕の声に彼女は振り向いて目を大きく開いた。

「先輩、ついて来ていたんですか?」

「まあね。にしてもなんてコースを行くんだ。危うく死にかけた」

「すいません。もっと上手くなりたくて。いつもより難しいルートを選んでいたんです」

「プロにでもなるの?」

「そういうわけではないんですけど……」

 悄然とする彼女に僕はポケットにあったグミを渡した。

「食べるといい。元気が出る」

「あっ、ありがとうございます」

 モギュモギュとグミを噛む彼女が猫のように可愛かった。その姿を見て僕は、彼女に追いつけたことを初めて実感した。ずっと追いつけない影法師のように思っていた片思いが案外、呆気なく思えた。恋慕城にいた時、そうでない時も余計な枷に囚われて、ついつい噴火する恋の火山を見張っていたあの贅肉ぜいにくとも呼べる苛みが地面を蹴ってたどり着いた今ではすっぱり削げ落ちていた。海風がまた吹く。藤野さんの髪がゆらゆらと揺れた。

「スケートボードは良いものだね」

 ぽつりと僕がつぶやくと、藤野さんは僕の顔を見つめた。

「なんで急に始めたんですか?」

「何が?」

「スケボーです。先輩には無縁なものじゃないですか」

「きっかけがあっただけだよ。始めなくちゃいけないきっかけが」

「好きな人ですか?」

 僕は頷いた。

 雨雲が晴れた空が普段より眩しく、燃えるような夕日が煌々と赤い輝きを放っていた。雨のない時間で彼女と話すことがひどく不思議だった。いつも晴れそうになる空を見て駆り立てられるあの忙しさなが今はない。

「その好きな人はスケボーがとてもお上手なんでしょうね」

「どうしてそう思う?」

「だって、先輩があまりにも必死に練習してたのを見たことがあったんです。明らかに上級者向きの技を何回もやってて、怖いくらいでした。それで馬鹿だなって思ってたんです」

 僕はスケートボードを始めるにあたって、確かに上級者向けの技を何度も練習した。初心者向けのものをやっていては到底彼女に追いつけないと思っていたからだ。恋慕城でも「うかうかしてたらあっという間に思い人はいなくなる」と過去の戦士たちが失恋という形で示してきた。僕はとにかく急いだ。そして自身に隠れたあるかもわからない才能を信じて邁進まいしんした。もちろん隠れた才能はなく、むしろ鬱陶しいくらい転げる才能が隠れていた。

「馬鹿とは失礼な。僕は真剣にやったよ。大学の講義よりも真剣にね」

「だから私もそれを見て、負けられないなーって思ったんです。先輩が好きな人、プロ並みに上手いに決まってます」

「藤野さんはもう充分に上手いじゃないか。あの宙に浮かぶヤツだってできるし」

「あんなの初心者の技ですよ。十四回くらいければできるようになりますよ」

「そうなの?」

「そうです。よければ教えましょうか?」

 たったその一言が、僕はとんでもなく嬉しかった。

「ぜひ頼むよ。一人でやってたら人生が終わってしまう」

「ストリートは過酷ですからね。それに日々の鍛錬が欠かせません。できるだけ毎日やりましょう」

 僕は頷いて、胸を小さく張った。

「すぐに追い越してやろう」

「その頃には私は神レベルで上手くなってるので。先輩では無理ですよ。ずっと私の後を追いかけててください」

 にこりと彼女は微笑んだ。

 僕は彼女のあらゆる要素に惹かれている。こんな意地を張ってくる姿も僕はたいへん好きだった。自分でも妙なところに惚れたもんだと思う。惚れたら負けというが、その点では僕にも彼女に勝っている部分がある。何度ちぎられても彼女を追いかけ続けるという稀有な才能を有していることだ。藤野さんに忙殺され続けた僕だが、今日より先は悪くない忙しさになるかもしれない。そんな煩わしくもほどほどに幸せな片思いを胸に、スケートボードを蹴り出した藤野さんの背中を見て僕は再度、硬い地面を蹴った。


7「忙殺」


最近、ベランダによくカラスが来ます。名前はデミアンにしました。めちゃくちゃデカいからたぶんこの辺りのボスだと睨んでます。

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