もう「一人称」・「三人称」の呪縛から解き放たれないか?
「一人称」・「三人称」がブレブレ
「人称がなってない」
貴方はこんな指摘を受けて、そしてどうしたらいいか茫然としませんでしたか?
実は国語教育でそういう教育は受けません。厳密に言うと「読解」は鍛えられるけど「執筆」訓練なんて受けませんから、出来るわけが無いのです。それどころか日本人は成人の読書量が絶望的にゼロに近いので大学入試と同時に瞬間蒸発します。マジですよ。
(※本当に本気で小説家になりたい人は師匠に弟子入りして鍛えられるので執筆能力なんてもんは学校で鍛えられるわけが無い特殊能力なのです。昭和三十年代まではそうだったのです)
実は
「三人称」=カメラ視点
これ二十世紀、早くて十九世紀後半の新しい文芸手法でそれ以前は『「一人称」・「三人称」がブレブレ』で当たり前なんです。
だってそうでしょう?カメラというものがなく三人称と言う概念が無かったのですから。つまりカメラという概念が無かったのです。
ええ!?嘘?本当!?
本当です。じゃあ過去の名作でも「一人称」・「三人称」で書かれてると思ったあなた。
それは単に二十世紀の訳者が勝手にそう書いたからにすぎないのです。
もっと言うと「自然主義文学」というのはぶっちゃけ写真カメラのような視点で書かれたもんなんです。当時の写真機に驚愕して西洋がブームだからそれを日本でも取り入れないかと言うことで始まり、そしてお堅い文学=文学という図式が成立し文学が戦後に見捨てられていく要因を作りました。
だって、写実絵見て面白いか? そういう事だよね?
(※写実主義→自然主義の流れだよね)
貴方は「平成文学」とか平成期に「~主義文学」が誕生したとか文芸で新しいムーブメントを聞いたことがありますか。そうなんです。日本だけ無いんです。日本だけ文学が死んだ、あるいは一九八〇年代で時が止まったのです。「平成文学」に関しては別のエッセイで語りましょう。
話を戻しましょう。
一八九五年に「キネストコープ」というものが誕生し、初めて動画を撮影することが出来るようになったのです。映画そのものの発明はエジソンですが持ち運び動画機器の発明は一八九五年です。
始めてこの時人類は三人称で動く表現を手に入れたのです。それまでは「神視点」の大河ドラマだったり戯曲だったりと三人称文学と言うものはなく、視点がぶれようが全く関係ない。
それどころか主人公=自分と言う概念すらありませんでした。主人公が自分のアバター、アバターというのは「化身」という概念ですが西洋人が「アバター」という概念を手に入れるのは二十世紀なんです。
つまりたかだか百三十年の歴史でしかない。近代文学=「一人称」・「三人称」というのは明治後期から始まった幻想なんです。
僕は洞窟の奥へ進んだ ←これが一人称
らんたは洞窟の奥へ進んだ ←これが三人称
らんたは声が聞こえたかのように洞窟の奥へ進んだ ←これが三人称一元視点
つまり「一人称」・「三人称」と言うのは主語の書き換えで済む話じゃない。それだったら誰も苦労しないね? 「三人称一元視点」と言う映画のカメラのような表現とされたんだ。
「三人称一元視点」というのはナレーション付き一人称視点だと思ってくれ。出演者の心内を執筆者が代弁すると言う手法だ。
神視点というのは「一人称」・「三人称」どちらでもない。作者介入視点と言う。
ここだ。これがぶれる原因なんだ。でもぶれるのは人類の歴史・伝統に沿うもので当たり前なんだ。
この「カメラ」=「三人称」という視点は明らかに映画の時代、そして戦後はTVの時代となった時の常識なんだ。決して人類の歴史から見て「当たり前」の常識ではない。もう一回言う。二十世紀の常識なんだ。
君はカメラマンか?
君は映画が嘘っぽく見えないか?
いい加減にTV脳から脱しないか?
十九世紀前半以前の文芸に戻らないか。
「主人公=自分」と言う発想はもう辞めないか。
二一世紀は二一世紀にふさわしい文学を作らないか。
視点がぶれる?酔う?
それは主人公=自分にしてるからだ。もういい加減に辞めないか。そういう概念。
そういうのはもうTV、映画、漫画、アニメ、ゲーム「だけ」にしてくれないか。おなかいっぱいだよ。
小説は小説で別手法で表現しないか?
二一世紀はもうビッグデータの時代で神視点の時代に戻る時代だ。そうだろ?もうITってのは限りなく神に近い存在にまでなってる。
だったら文芸も神視点表現に戻る時代になるべきじゃないのか。
たかが約百三十年の伝統。もう「一人称」・「三人称」という常識は「二十世紀」と言うゴミ箱に捨てないか?
【「〇〇side」ってバカっぽいから辞めて】
本当にそう思わない?
つまりだな、ラノベに限っていうとここ20年は「漫画脳」なんだ。約20年前のラノベの章を見てほしい。間違っても「〇〇side」なんてない。
もっというと、これ「乙女ゲーム」の手法だよな。
あんまり男性作家でこれ使ってるの見たことが無い。
つまりいちいち一人称・三人称が変わりましたよ、とお知らせする漫画脳なんだ。
バカじゃないか、こんなのが流行る時点で。群像劇って知らないのかな?
『~外伝』(本作ではなく別作である)ってやるべきとこを安っぽく見せてるんだね。完全に「人称真理教」の影響なんだ。これ取っ払っていいんだよ。それで人称ぶれてもいいんだよ。
『そもそもメイン以外のキャラクター達の物語は、本編に本当に必要でしょうか?』
これ考えたことないですよね? つまり全登場人物を攻略したいという「乙女ゲーム」の手法なんです。
〈side in〉・〈side out〉を繰り返すのが十八世紀までの小説で十九世紀後半からが「異常」ということなんだね。つまりそこに人称はないんだ。神視点≠三人称ではなく神は細部に宿るから主人公に憑依してもよいし浮遊して見つめてもいいんだ。だから神視点ってのは人称がぶれるんだ。
(「神は細部に宿る」の意味が分からない人はスピノザという哲学者が言ってるから参考にしてね)
悪には悪の理由がある。闇堕ちする。分かります。魅力的ですね。正義と称した邪悪なキャラが居る。でもそれは外伝でやるべきなんです。メインストリームで出してはダメなんです。
だから勇気出して言うけど……。
「『〇〇side』ってバカっぽいから辞めて」
【国語は道徳教育の道具じゃない】
そう、これが「人称問題」のもう一つの癌だ!
そうだろう?
よく「主人公はこの時どう思ったのでしょうか」というこの問い。
いや、知らんがな。
そして「読者に答えを委ねます」という本来の近代文学の大原則を壊して答えを求める行為。そしてそれを「道徳的」文学にぶち込む行為。
これが文学嫌いを増やす原因なんだ。
『道徳的な感想』を一人称視点で「お願い」と称して強要する行為。
これが最悪の教育だろうと私は思うんだよね。
私とあなたは違う。当たり前ですね。
私とあなたの思ってる感想は違う。当たり前ですね。
道徳的と分かっていても悪いことやる奴は世の中にたくさんいる。確信犯って奴。当たり前ですね。
もっというと『教育勅語』(道徳の前身)を受けた大人たち・子供たちが終戦直後にに強盗・窃盗・闇市……果ては強姦に及んだ事実を考えると道徳教育に意味はないって事は証明済みなんだ。そういうのはね、家庭教育とか宗教教育の世界で学校が踏み込んでいい世界じゃないんだ。
でも儒教的発想というのは家父長制で思想を上から抑え込む教育なんだ。みんな同じ発想にさせる。「マンセー!」って国民全体が言ってる全体主義国家が道徳主義の行きつく先なんだ。そこには絶望しかない。異論は許されない。人の心や良心に踏み込む教育ってそういうことなんだ。
よく考えて見て?日本になぜディベート教育が無いのか。
そういうのは戦後には消えたはずだって?消えてないよ。消えてないから国語に出る文学はつまらないんだ。
そしてこれが「一人称アバター」になってない文学を「クソ」と思い込む原因なんだ。
よく考えてみ?
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別に国語教育のすべてを否定しないしむしろ論説文で「筆者の主張で正しいものを挙げよ」と言った教育や漢字教育は極めて重要だし古今東西の文学に触れることは重要だ。でも主人公や登場人物がどう思ったかなんてのは押し付けないでくれ。
【最後に 読書感想文教育を辞めろ】
これに尽きると思う。
そもそも「国語」には論説文、まして「論文」という科学的根拠にのっとって注釈や参考文献を付けて既存の常識をひっくり返す分野もある。そういう教育や手法をわざと国語教育というのは遠ざけてるんだ。
読書感想文教育辞めたら少しは「人称が~」とか毒者は言わなくなると思うし、感想を強要されることもなくなると思う。どうだろう?