1:Introduction
暗い。
暗闇の完全なる支配を拒むかのように弱々しい灯りが淡い光を放っているが、その部屋に足を踏み入れた者のほとんどがまず最初にそう感じるであろう。そして机の上だけに止まらず、床にまで散乱した書物や紙切れ。正常に稼動しているのかどうかわからない様々な機器の電子音と、使用されたまま放置された道具たち。
しかし、これらが“この部屋”のいつもの姿であり、部屋主いわく「部屋が散らかり具合と研究の順調さは比例する」らしい。
そんな部屋主は、もう何日、いや週や月といった単位で表したほうがいいであろう期間、着続けているその服に付けられた名称とは程遠い色になってしまっている白衣のポケットから煙草を取り出し、手馴れた仕草で火を点けると部屋の片隅に置かれた水槽のような大きい円柱形の装置
の前までゆっくりと移動し、大きく煙を吐き出す。存在をアピールするかのような乱雑に長く伸びたブラウンの髪、少しフレームが歪んでいる眼鏡、それらが本来整った顔立ちを台無しにし、三十歳という彼の年齢を大幅に押し上げて見せた。彼はクロセルという名前を持っていたが、最後にそう呼ばれたのがいつであったかは思い出せない。
控えめなライトに照らされたその物体は、そう低くはないクロセルの身長よりさらに大きい物であり、何かの溶液で満たされた中身では静かに気泡が下から上へと行列を作っていた。
そして彼の視線は溶液でも気泡にでもなく、中央で揺らめくモノに向けられている。金色の髪が流れに逆らわず持ち上げられ、百三十センチ程しかないであろう体を大きく見せる。目を閉じ無表情ではあったが、決して生気は失われていない顔。
そう、そこには誰が見ても同じ結論に達するであろう、十三、四歳くらいの少女が存在していた。
「この“八重乃”で五体目か。既に目的は達せられている。が、更なる高みを目指して何が悪いのだ。生み出した物が新たな可能性を示し、私を導き続ける。ヴァンパイアたちは真祖でさえ、私の出発点と言える“瑞希”に勝てないではないか」
目の前の少女へ語りかけるかのようにそうつぶやく。その言葉は自分自身へ向けられていることは十分に理解していたが、それでもなおそうしなければ自分を正当化できない葛藤が、クロセルにあることは事実であった。
再び大きく息を吐き、少女が入っている装置の下部に収められた、手のひら二つ分ほどの黒いケースを取り出す。中央に金色で十字架が描かれ、その下に剣と狼をモチーフにした紋章が入っているそのケースを開け、中から乾ききってはいたが鋭さと威圧感は全く失われていない牙を一本、指でつまみ上げると少女の姿を隠すような顔の前の位置へかざす。
「死教ルクレイツも生まれ変わる。瑞希、彼は真祖たる名に恥じぬ存在だったか」
壁際で彫刻のように身動き一つせず、気配さえ感じさせぬほど自分を消し去っていた黒髪の青年は、直立不動のままその問いに対し静かに口を開く。上下共に黒いスーツを身にまとったその姿は、闇に同化しているのではないだろうかという錯覚さえ与える。
「はい、無力化するにあたり腕、脚ともに一本ずつ失いました」
両足で立ち、真っ直ぐに伸びた両手はその報告と食い違うものであったが、お互いにそのことについては触れる様子もなく、クロセルは満足そうに一度頷くと牙をケースに戻し、再び視線を少女に戻す。
「明日には動けるようになるだろう。楽しみが一つ減ってしまうような寂しい気がするが、そんなものはまた作ればいいだけのことだ。お前はどんな可能性を私に見せてくれるのか期待してるよ、八重乃」
彼の名はクロセル。現在では彼が何を研究し、何を成し得たか、そしてその結末はどうであったかを知る者はいない。それが事実と異なっていようが、大多数の者には真実であり関係の無いことなのだから。