08
頬にバツ印のような傷を持つ男が立っていた。
傷は右頬、左頬、に同じようにつけられている。
男は頭から紐でつられた人形のように、意思とは別の何かに動かされているようだった。
男が向かう先が見えてくる。黒い霧が立ち込める窪地。
夢だ。俺にはそういう意識があった。
男を引き留めなければ、と思って、必死に走った。
男の腕を掴むが、男は俺以上の強い力で黒い霧、窪地の奥底へ動いていく。俺は腕を掴んだまま、どんどん窪地に近づいていく。
黒い霧が吹き上がるように男の体に向かってくる。
その霧の中にある何かを感じ取り、俺は腕を離してしまった。
まるで逆回転するフィルムの映像を見ているように、黒い霧が窪地の奥へ戻っていく。男はその霧に引きこまれるように、落ちていった。
俺は背後に人の気配を感じて振り返った。
大勢の外国人が膝立ちし、両手を上に上げ、そのまま頭と一緒に手を下げていく。原発で見た儀式だ、と俺は思った。
祈り。
違う、祈りではない。絶対的な存在に対してひれ伏しているだけだ。恐怖に精神がマヒしているのだ。その存在は、言葉も通じない超生命体なのだから。
クトゥルフ。
クトゥルフは『クトゥルー』、『クルウルウ』や『クスルー』などとも発音される。
小説中でも発音できないような音と記述されていて、どれが本当かはわからない。
異星の生命体。
いや、そんなものはいない。これはただの夢で、黒い闇が見えているだけだ。
遠くでアラームが鳴っている。
起きなければ。
今日も警備の仕事がある。
俺はベッドの上で手を伸ばし、目を開け、覚醒した。
時間を確認し、見えるのが自分の部屋であって、ここには窪地や黒い霧がないことが分かった。
夢の中のことを思い出しながらスマフォでメモを取る。
小説の中の空想の存在と現実が交わりながら、夢の中で結びついて出てきてしまった。
原発のなかで儀式をしていた連中や、頬を傷つけられた男、男が『クスルー』と口にしたこと。その『クスルー』を引き金に、小説の為に作られた架空の宇宙生物までが夢に登場した。正確に言えばクスルーの姿が現れたわけではない。黒い霧という形で、人を引き込んだに過ぎないが。
俺は、着替えて食堂で朝食をとった後、もう一度考えた。
冷静になれ。どんなことが原因として確率が高いのか。
一般の人に説明して、信じるのはどちらか。
震度。
二つ目は、男が『クスルー』と口にしたこと。
原発で起きた地震の震度。この重要な事実を国家が隠蔽し、怪我をした男は本当に『クスルー』からのテレパシーを受けてそう口にした、と言ったら誰が信じるだろうか。逆に、震度も『クスルー』と言ったことも、どちらも俺の幻覚、幻聴だと説明ししたら。
十人が十人、後者を信じるだろうし、後者の確率が高いと感じるだろう。
大体、俺に本当の震度を見せたくない理由がどこにある。俺はただの警備員だ。外国の男の発言だって、百歩譲って『クスルー』と言ったとしても、本当に『クスルー』といったのではなく、男の国の言葉で、何か別のことを言ったにすぎず、幻聴ではなくとも、その知らない言語を、『クスルー』と聞き間違えた可能性もあり得る。
つまり、事実は小説より奇なり、などということはない。
事実は非常に平凡だ。
俺が慣れない原発勤務に伴う様々な出来事で冷静にものを見聞き出来ないでいる為に、普通のことが普通のこととして感じられなくなっている。俺の心が、真実を歪めてしまっているのだ。
まさか俺が実は病床に伏せていて、すべてが夢なのかもしれない。そこまでいくと、さすがにバカバカしくなってしまう。
口だけが笑ったように歪んだ。
施設の外に出て、バスを待った。
バスに乗り込むと、俺が乗るまで客席は無人のはずなのに、一人窓際に座っている男がいた。俺は席につかず、その男の顔を見ていると、ドライバーが言った。
「ああ。なんか経産省の方が原発に用があるとかで」
「なんの用とかは聞いて……」
俺の言うことを遮るようにドライバーが言う。
「たまにあるんだけど目的は話してくれないよ」
俺は奥に行かず、ドライバーの真後ろに座った。
バスは走りだし、海沿いの道を抜け、少し上ると、小さな村のような場所に入る。
小学校のような空き地とプレハブのある場所に来ると、バスは止まった。
ドライバーはエンジンを掛けたまま外に出ると、タバコを吸った。
プレハブの中から燃料保管庫の改修作業者たちが出てくるはずだった。
しかし、今日は一人として外に出ていない。
ドライバーは平然とした顔で、タバコを吸い続けている。
俺は背後に人の気配を感じた。
「振り返るな」
言葉の緊張感のせいで、頭に銃でも突きつけているかのような錯覚を覚える。
「お前、原発の警備員だろ? 昨日、怪我をした改修作業員がいたはずだ。何か知っていることを話せ」
「……」
知っているけが人は二人。どちらの話しをすべきなのか、それ以前に、原発内の出来事を部外者に話していいのか。俺には警備員という立場があり、原発の電力会社や改築を行っている建築会社に迷惑をかけることになってはまずい。
「お前が言ったとか、そういうことは公開しない。だから知っている事実を話せ」
いや、だめだ。俺は経産省としかわからない相手に、昨日の出来事を話すことは出来なかった。
「……」
「昨日の地震の後、このプレハブに住んでる連中、燃料保管庫の改修作業者たちが騒ぎだしたろう」
俺は黙ることしかできなかった。
ようやく、ドライバーがタバコを二本吸い終わって、バスに戻って来た。
それを見て、経産省の男は静かに元の席に戻って行った。
ドライバーは運転席に着く前に、大きな声で言った。
「今日は改修工事が休みらしいから、このまま出発するよ」
バスが原発につき、俺はバスを降りた。経産省の男もバスを降り、正門の受付に入った。
俺はいつものように管理棟に歩いて行き、着替えてから警備室に入った。
室長がいきなり立ち上がって俺に言った。
「清水。さっそくで悪いが、さっき正門から連絡があって、金属探知機が壊れたらしい。ここにある機械を持って確かめてきてくれないか」
俺は警備室からハンディタイプの金属探知機を持った。軽く動作を確かめ、それを持って正門へ戻った。
正門の受付の建物に入ると、一緒のバスに乗っていた経産省の男が、金属探知ゲートに背を持たれるように立っていた。
「あんたが警備の責任者?」
「ゲートについては」
「そう」
男は指で鍵束をつまみ、ジャラジャラと音を立ててから、ゲートを抜けた。
「何も警報が鳴らない」
「……」
俺はゲートの装置の電源が入っていることを確かめ、装置の操作部を確認した。
「もう一度お願いします」
「なんどやっても同じだよ」
そう言いながら、経産省の男はゲートを通過する。
音が鳴らないどころか、操作部の表示をみると、検知すらしていない。
俺は、持ってきたハンディタイプの金属探知機を用意した。
「ちょっとその鍵を調べさせてください」
俺は持っていた鍵に、金属探知機を当てると、大きな警報音が鳴った。
「そっちは正常らしいな」
「至急調査します」
「調査はやってもらう。運用を至急変えて、このハンディ・タイプのもので金属探知するように」
「それはすぐ行います」
俺は正門の警備員にハンディタイプの金属探知機を渡し、ゲート型の金属探知機に『調整中』という張り紙をして、通れないよう、ゲートを閉じるように指示した。
「経産省の田村だ」
経産省の男が名刺を差し出してきた。俺も名刺を用意して交換する。
「警備の清水と申します」
「すぐにでも発電棟に入って調査したいんだが」
俺は正門の警備員に振り返る。
「田村様の受付は済んでいるか?」
ここでの受付は済ませているようだ。
「発電棟への入場申請は?」
「ありません」
経産省の田村は、俺の肩をグイと引っ張ってくる。
「おい。そんな悠長なことはしてられないんだ。経産省の調査なんだから入場申請なんていらない」
俺は体の向きを警備員の方に正してから、
「ちょっとマニュアルを再確認してくれ。俺は電力会社側に特例があるか確認する」
「俺が言ってるんだぞ」
俺は無視して警備室に電話をする。室長も経産省の調査の例は知らないと言った。そのまま電力会社側の総務の若月さんに電話が回る。
『若月さん……』
若月さんが発電長に確認をして折り返すと言った。
俺は正門の警備員のマニュアルチェックの結果をたずねる。
「特に経産省の調査のような特例は乗っていません。入場申請が必要と考えます」
「ありがとう」
俺は経産省の田村に向き直った。
「そんなマニュアルにいちいち特例について書いてあるわけないだろう。そんな内容まで書いてたら何ページになると思っているんだ」
「セキュリティを保つには……」
「俺の指示を聞けないのか? いいか、お前は電力会社の社員でもない。お前が俺に逆らったせいで原発の運転が停止となった場合、電力会社からお前の小さな警備会社に請求される損害賠償をどう処理するつもりだ? お前がクビになるだけじゃない。警備会社自体潰れてなくなってしまう。何人の社員が路頭にまようか。そんな責任取れないだろう」
「しかし、規定外の入場をここで認める訳には行きません」
「……」
経産省の田村は黙ったまま正門警備室の窓ガラスに背を持たれていたが、警備員の一人が椅子を運んでくるとそれに座った。
俺はひたすら電話を待っていたが、正門警備室にノックの音が響いた。
通用口の扉を開けると、電力会社の若月さんが入って来た。
姿を見て俺は思わず声に出した。
「若月さん」
若月さんは会釈だけして、警備室を通り、経産省の田村の所まで来た。
「経産省の田村様ですか」
「ああ」
田村は椅子に座ったままそう言った。
若月さんは椅子に座っている田村より低く頭を下げた。
「申し訳ございませんでした。発電棟の入場申請がありました。こちらで見落としておりまして」
「そうだろう」
「ただいま申請を受理いたしましたので、すぐ発電棟へご入場できます」
俺は端末で申請を確認させた。
発電長のOKまで入っている申請書が登録されていた。おそらく若月さんが発電長の指示を受け特急で作ったものに違いない。
「入場申請がありました」
「じゃあ、行こうか」
「……」
若月さんは頭を下げて、先導する為に歩き出した。
俺は黙って見送るつもりでその場で立っていると、経産省の田村が言う。
「お前もくるんだ」
「私は勤務が……」
若月さんが慌てて警備室の電話を使い、誰かと話しを始めた。電話を切ると、言った。
「今警備室長にも話を付けたから、大丈夫だよ」
「……」
若月さんが先頭に立ち、経産省の田村が歩いて行く。俺は一番後ろからついていった。
若月さんは、電力会社の車を出してきて、ドライバーが若月さんで、経産省の田村がその後ろに、俺は助手席にすわった。
田村は、発電棟に入る門でも、車のゲートの機構や、金属探知機について確認した。幸い、こちらの金属探知機は正常に動作していた。
「機械は正常なのはわかったが…… 出入りする人間は全員このゲートを通ってるんだろうな」
「……」
俺たち警備員は通らない。警備の装備が全部引っかかるからだ。だが、改修作業員がここを毎朝通過しているのだろうか。
知らないことをさも知っているかのように話すことが出来ず、俺は黙っていた。
「燃料保管庫の作業員が通るのはいつだ」
田村は監視カメラ映像を見ることが出来る端末の前に来ると、警備員にそうたずねた。大まかに三交代であることを言ってから、食事なども含めて出入りする時間帯を告げた。
「昨日の…… この時間帯か」
そう言うとモニタで監視カメラ映像の再生が始まった。
全員、金属のものを警備員に見せ、金属探知機のゲートを通って、金属のものを受け取るということを繰り返している。
作業者の通過する人数に比較して、この場所の警備員の数が少なすぎる。
三人、四人が通過した後、全く前後の間隔がない状態で作業員が通過していく。
何度もゲート式の金属探知機の警報ランプが光る。光る度に金属のものを確認して、通過した作業員に渡すということを繰り返す。
「ほら、みろ」
田村は再生を止めた。
ゲートの警報ランプが光っているが、何がひっかかったのかを見せずに、強引に先に進んでいた。
「こいつは金属のものをお前たちに見せないまま、中に入ってる」
「……」
俺には反論が出来ない。映像の通りだったからだ。
「何人こういう奴がいるか、調べろ」
俺は経産省の田村に言って、調べる時間をもらった。
そこにいる警備員に、映像から何人こういった抜けがあるのか数えて、報告をもらうことにした。
昨日一日分の状況を確認し、総通過人数に対しての見落としの割合や平均が計算できるように時間ごとにまとめてもらうように指示する。
「警備会社を変える必要があるかもな」
「……」
俺には何も言えなかった。
若月さんが言った。
「昨日、燃料保管庫の改修作業者が騒ぎを起こした時も警備の方が素早く対応してくれたおかげで助かったんです。悪いところは改善してもらう様にしますので」
俺は心の中で若月さんに感謝しながら、頭を下げた。
「改善いたしますので」
「改善の話は、打ち合わせの時にまとめて聞く」
経産省の田村はどうでもいい、と言った調子で、発電棟区域の中へ進んでいった。
若月さんが慌ててそれを追いかけると、俺はまた一番後から二人を追った。