04
初勤務の朝。
施設での起き抜け、俺は今日もメモを取っていた。
もうニ週間ほど同じような夢を見ている。今日は少しだけ進展があった。だが、その進展した原因は知っている。
海の中から『青白い光を見た』という錯覚と、管理人の娘が言った地域や宗教の話が頭の中で掻き混ぜられたからだ。
縁に立ち、覗く深淵の奥底に、青白い光が見える。
それは蜘蛛の複眼のように配置され、生き物の目のように見えた。縁に作られた階段を下りていく男は、祈るような言葉を繰り返す。『畏れ』や『無力感』がその言葉から感じられる。
そして…… やはりその男は急に姿を消した。
引き込まれた。『何か』に。
どうしてもその『何か』は『見えなかった』。
男が消えた直後、俺は目を覚ましていた。
起きよう、起きようという意識が、夢の中で強く働いた。
時計を見ると、設定したアラームが鳴りだした。
手を置くようにしてアラームを止めると、俺は新しい職場に行くための準備をした。髪を整え、髭を剃った。食堂に行って食事をとって戻ると、歯を磨き、ネクタイをした。
施設の外には、研修に行くときのバスが待っていた。
挨拶して乗り込むと、すぐに出発した。
俺はすこし大きな声でドライバーにたずねた。
「俺一人なんですか?」
「はぁ?」
「乗せていくのは、俺一人なんですか?」
「いや」
バスの中には俺一人しか乗っていない。
もしかして、原発に入る前にどこかに止まるのだろうか。
坂を下ると、昨日、海を見ていた防波堤が見えた。
波は相変わらずだったが、満潮なのか、だいぶ防波堤側に波が上がってきていた。
海沿いの道が終わり、少し登った辺りで何件かの家があった。その奥に、小さな小学校風の敷地が見えた。バスは道を外れてその小学校のような敷地の脇に止まった。
「時間が早いから、少し待ってくれ」
ドライバーはそう言うと、エンジンを掛けたまま外にタバコを吸いに出た。
小学校のような敷地をよく見ると、校舎や体育館のような建物はなく、敷地の端に、プレハブの建物が立っているだけだった。つまり、小学校とかではなく佇まいが小学校に似ているだけのようだ。
そのプレハブの方から、一人、二人と人が出てくる。
人は、次々に出てきて、全員がこのバスに向かってきているようだった。タバコを吸っているドライバーに向かって、手を振る者もいた。ドライバーと同じところで、タバコを吸い始める者もいた。
ドライバーがいち早くバスに戻ってきて席についた。
十五、六人はいるだろうか。
一人、また一人、とバスの中に入って来た。
俺の顔を見ると、軽く会釈をしたり、目が合っているのに、あさっての方向に視線をそらしたりして黙って席に座る者もいた。
俺の近くまで来て座る者がいたので、思い切ってこちらから挨拶した。
「おはようございます」
見た目だけで言うと外国籍の者のように見えた。
その男は会釈だけして、椅子に座ってしまった。
俺が挨拶すると、片言の日本語で返してくる者もいた。
俺は思わずその人にたずねた。
「外国の方ですか?」
「ガイコク、ちゃいまんねん」
瞬間、車内で笑いが起こった。
その後、知らない言語の言葉が激しくやり取りされ、車内は静まった。
ドライバーが何か察したように、俺に向かって言った。
「奥のあんた。日本語で挨拶しないでいいよ。こっちには、そういう習慣ないから」
「えっ」
「じゃあ、出発します」
音がしてバスのドアが閉まった。
挨拶がない国があるか。いや、日本なのだからこっちに合わせるべきではないのか、様々なことを考えていた。俺は思った。それは後で考えよう。今はドライバーの忠告を守るべきだ。ここでもめ事を起こしたら、自分が職を失うこともそうだが、俺を原発勤務に出した元の職場にも傷がつく。
原発までの道のりは、十分ほどだったが、俺にはとても長く感じた。原発内に入ると、バスは先に管理棟についた。俺は彼らの間を抜けて前方の扉から出なければならない。何か報復されるのではないかと、俺は少し緊張していた。
何事もなくバスから降りると、バスはさらに奥へと進んだ。
俺は管理棟の出入り口に向かうと、管理棟からスーツの上に作業着を羽織った男性が俺に向かって進んできた。
「清水さん?」
「はい。そうです」
顔を見るが、その人が誰かを思い出せなかった。
「今日からよろしくね」
「えっと……」
その人は首からぶら下げているIDカードを持って見せるようにして言った。
「あ、私は、総務の若月です」
「よろしくお願いします」
「今日、発電長が来るのは午後だから、午後、ちょっと時間をつくってくれるかな」
「はい」
若月さんの後について、管理棟を案内してもらった。
その中で、彼らのことを聞いた。
「若月さん、質問してもいいですか?」
「何かな」
「私が朝乗って来たバスを覚えてますか?」
「ああ」
「外国の方がたくさん乗ってました。あの方々は何をされるんですか?」
若月さんは、廊下の壁に張ってあった原子力発電所の案内図を見つけると、手招きした。
「彼らは今、ここにある核燃料保管庫の改築作業をしているんだ」
その場所は炉心に一番近い場所にあった。
「防護服を着るエリアですか」
「そうだね。わざと外国の人を集めた訳じゃないんだよ。誤解がないようにね。あまりやりたがる人がいないから、いつの間にかあんな構成になっていたってだけ」
苦笑いして見せた。
「もう少し聞いていいですか?」
「……話せることなら」
「彼らの住んでいる場所ですが」
「ああ、あまりいい場所ではないな。わかるだろう? 僕からは、そこまでしか言えない。場所的にはここも同じだ。正直、いい場所ではないから、原子力発電所が作れたんだよ」
いい場所ではない、か。表現はあいまいだが、管理人の娘の言い方も考えると、彼らが住んでいた場所やこの原発の場所はおそらく『被差別部落』なのではないか。だから原発も作れたし、原発作業者の住まいも作れた。
「それとも、同じバスに乗りたくない、とかそういうこと?」
「いえ、そういう訳じゃないです」
その後もしばらく案内をしてもらってから、俺は更衣室に入って、警備員の制服に着替えた。
警備の場所はバスが入って来た最初の正門警備室の警備と、この管理棟の中での監視業務に分かれていた。
正門の警備室では原子力発電所の外周についているカメラを監視し、管理棟側は内部の建物、大きく、発電棟、管理棟、燃料保管庫の内部の通路などを監視しているカメラをモニタし、不正入場や滞在時間オーバーなどがないか確認し、異常が発生した場合に警告し、通報や不審者の確保なども行う、というのが業務内容だ。警備員は警察ではないので、確保といっても一般の人間にゆるされる程度までだ。逮捕が出来る訳ではない。逮捕は通報した警察が来て行う。
建物内部側は、放射線管理区域が含まれ、より厳重に立ち入りを規制する。テロリストに侵入され、核のコントロールを奪われてはいけない。IDカードと静脈認証装置によるアクセスコントロールと、カメラ監視、顔認証システムを補助につかって、不審者の侵入、許可区画以外への立ち入りを防ぎ、かついち早く検出するようになっている。
俺は管理棟内の警備室へ入ると、警備室長へ挨拶した。
警備室の朝礼で、自己紹介した。
俺は定年退職した管理棟担当部長の代わりに入ることになっていた。最初のひと月が部長代理で、ひと月の勤務の結果で問題なければ『代理』が取れて部長になる。
あてがわれた席に着き、担当となる業務を改めて確認する。
基本的には業務は同じだ。しかし、場所が原子力発電所ということで、厳重であること、放射線管理区域の立ち入り時には防護服が必要なこと、月の勤務時間が管理されていて、一定時間以上入れないなど違いも多かった。
俺は時刻を確認すると昼食の時間になっていて驚いた。
警備員なので、基本的には昼食を交代で取るのだが、事務的な業務が多い管理職は一斉に取る場合もあった。この原発では一斉に取るタイプのようだった。
「清水くん。昼食にしよう」
俺は室長から声を掛けられた。
「初めての原子力発電所は、緊張するだろ」
「そうですね」
「電力の職員たちが利用している社食が使えるから、そこで食べよう」
「はい」
管理棟を出ると、少し歩いて、施設の端にある電力社員用の食堂についた。IDカードで支払いが出来るようだった。室長と同じように昼の定食を頼んで、席についた。
「ここの食堂は、一流店で修業していたコックらしくて、この値段では考えられないほど美味しいんだ」
「そうなんですか。太っちゃいそうですね」
「それは俺の腹を見て言ったのか?」
腹を突き出し、手で叩くと表情がこわばった。
俺は慌てて手を振る。
「いえいえ、こっちに引っ越してきてから、あまり歩くこともなかったので、太るかなと考えていたところだっただけです」
室長は一転して笑った。
「冗談だよ」
「まあ、こっちは水がいいから米もおいしいし、海が近くて魚も美味い。自制しないでいると、すぐ太ってしまうのは間違いない。この腹が保証する」
俺も室長に合わせるように笑った。
食事をとりながら、外を見ていると、所内を走ったり、キャッチボールをしたりする人がいた。
俺は規定を読んでいて、疑問を感じた。持ち込みするものが制限されているはずなのだ。
「室長、ここで、あんなこと出来るんでしょうか?」
「ああ。だが、こっちの食堂のあるエリアだけだ。もう知っていると思うが、管理棟のある区域にボールとかグローブは持ち込めないぞ」
逆に規制の対象外のエリアについては、持ち込めるということか。俺はそう考えた。
「そうだ。午後の発電長に挨拶したら、警備車両を運転して、発電所の外周を回ろうか。実務が始まったら余り現場を見る機会もないだろうからな」
食事を終えると、しばらく一人で休憩を取って、管理棟に戻った。
総務の若月さんに案内され、発電長の部屋に行き、挨拶を終えた。
俺は一人で警備室に戻ると、警備室長から声を掛けてきた。一緒に管理棟を出て、車に乗って発電所を出発した。
ぐるっと一周する中で、室長の指示がある度に車を止め、外周のカメラの位置について説明を受け、どういうリスクが考えられるかを確認した。
原発は、俺が思っているよりかなり海に近かったが、住んでいる施設の近くの海とは違って、ここの波は穏やかだった。
「ここは小さいが湾状になっていて、見ればわかるが防波堤も伸びているからな」
波は穏やかなのだが、この海から漠然とした不安感を感じていた。原子力発電所側の壁が低いせいかもしれない。俺は思った。先の震災で津波を受けて非常用電源を失った原子力発電所は、メルトダウンした。壁が自分の思ったものより低いということがそう考えさせているに違いない。
だが、現実には、再稼働の為の基準を満たしているのだから、新基準より壁が低い訳ではないのだ。俺の勝手な杞憂にすぎない。
それとも、海から感じるのは『地震』、『津波』という問題ではなく、全く別の次元の不安……
「どうした? ここの説明は終わった。エンジンを掛けて、先に進もう」
室長は、助手席から指をさしてそう言った。
「すみません。すこし考え事をしていて」
車で原子力発電所の外周を回り、地図上の原子力発電所と実際の様子が頭の中でリンクし、よりリアルに認識された。
原子力発電所内に車を戻すと、管理棟の入り口で警備室長を下ろし、俺は車を駐車位置に戻すために走らせた。
一人で歩いて、管理棟に戻る道を歩いていると、発電棟側から奇妙な声が聞こえた。だが人の姿は見えない。
奇妙な声。
なんだろう。聞いたことがある気がする。俺は考えた。畏れを含んだ、宗教の祈りのような声。抑揚もリズムも知らない外国語のような言葉。そうだ、あれだ。
夢で聞こえてくる声。
俺は声が聞こえる方向へ走っていた。
どこからか聞こえてくるものではなく、初めてリアルに聞く声なのに何度も聞いたことがあるという矛盾。
声の出所は分からない。
もっと発電棟の近くにいかないと分からない。俺は仕事のことを忘れ、耳に入る音に集中した。
右か…… いや、左気味だが、もっと前に進まないと。
「!」
警報音が鳴り響いた。
俺は警報音の意味を理解した。
発電棟を覆うフェンスに一定間隔で付いているカメラは、人を認識して近づくと警報を出すように設定していた。俺はそれを管理する側の人間なのに、自らがその警報を出してしまった。
俺は慌てて発電棟から離れた。
おそらくカメラ映像を見て、俺が発電棟に近づいたことが警備室で確認されているだろう。俺は何か理由を考えておかないといけないと思った。
そして、気付くと、例の声は聞こえなくなっている。
警報音を聞いて声を止めたとすれば、この警報音が聞こえる位置で声を出していたことになる。とすればやはり発電棟か、燃料保管庫しかない。管理棟のこちら側には窓がない。警報音が建屋の中に伝わるとは思えないのだ。
俺は携帯を取り出して、管理棟の警備室に電話した。
「清水です。すみません。警報出しちゃったみたいで」
電話の先では、監視カメラをモニタしている警備員がキレ気味に話し始める。
「そこのフェンスに近づくと警報が出るって書いて……」
「ええ。読みました。どこまで近づくとなるか興味があって。先に連絡しておけばよかったですね」
「そういうことなら、先に言ってください。場所記号を言っていただければ『解除』しときますから」
「『解除』してる時は、近づいた場合に何か知る方法はあるの?」
テストをするつもりはなかったが、誤魔化す為に必死だった。
それを聞いている間に、この場所の場所記号を確認した。
「カメラをよく見ると信号機のように青、黄、赤が並んだLEDがあるんですよ。人を認識して青、近づくと黄色、警告が出る時は赤がつきます」
聞きながら、カメラをじっと見つめる。確かに防水用なのかゴツいハウジングに入ったカメラ右側面に青色が点灯している。カメラが人の姿を認識したということだ。
「じゃあ、D5のカメラを解除してくれるかな」
「D5ですね。5分だけですよ」
「ああ、分かった。頼む」
そう言って通話を切った。
俺は発電棟と燃料保管庫のある方へ近づいていく。
青、青、青、黄色、赤。
フェンスから二メートル、いや三メートル程度はあるか。これくらいまで近づくと警報がでるということか。
その時、息が漏れるようなうめき声が聞こえてきた。
同時に、金属を一定間隔で叩く音がなる。僧侶が錫杖を鳴らす様にも聞こえる。
俺は何か見えないかと思い、フェンスに近づく。
燃料保管庫の改築の為に、足場が組んであり、足場の外側はビニールシートで覆ってある。だが、ところどころ紐の縛り方が甘く、風で大きく開いた。
「!」
こっちを見ている。
改築作業者が、こっちに気付いた。
この音を出している者だろうか。音を出している様子が見えないか、体を動かして確認しようとした。
「そろそろ時間です」
スピーカーから警備室の呼びかけが聞こえてきた。
すると燃料保管庫から聞こえていた『うめき声』は止まった。
「ああ、ありがとう」
錫杖をならすような、金属音は一定のリズムで繰り返されている。だが、うめき声がなければこの音は改修工事の作業の音にしか聞こえなかった。
うめき声のように聞こえたが、実はそうではなく、彼らの普通の会話のなかで聞こえやすい音だけがここに届いたのかもしれない。
いずれにせよここに長居は出来ない。
俺は横目で燃料保管庫を見ながら、管理棟へと戻った。