02
その日の午後、施設への引っ越しが終わった。
想像していたものとは違っていたが、月の家賃が一般的なワンルームの十分の一程度で済む訳だから、文句は言えない。その上、施設内の食堂の料金はコンビニ飯より安上がりだし、給料は職務手当てと役職が上がったことにより都心で勤めていた時よりアップしている。嫌になれば、引っ越してしまえばいい。
今日のところは最低限のものだけ開梱し、整理をした。
開けた段ボール箱の中から位牌を見つけ、改めて父母の死を思い出した。
この土地に来て初めて両親の事を思い出した。
こうやって、親の死を忘れていくのだろう、と思った。
生きている時は、忘れていることも多かった父母のことを、死んだ途端に毎日のように考えるなんて、思ってもみなかった。
だがそれが重かったのも確かだった。
親の呪縛から逃れられる。それがこの転勤を承諾した理由だ。
本当なら、俺は原発勤務してはいけない。
俺には兄弟もいないし、子供もいないから、俺が父母の世話をしなければならないからだ。だが、父母は死んだ。
父母が死んで、俺が死んだら家系は途絶える。正確には、父母それぞれに兄弟がいたろうからそれが引き継いでいると言えるが、少なくとも父母の血は途絶えることになる。
俺が今から結婚して子供を設ければいいのかもしれないが、年齢と原発勤務を考えると、子孫を作るのは無理だろう。
生物として、何も引き継ぐものがいないことは漠然とした不安と焦燥を感じる。俺一人子供を作らなくても、人類はちっとも困らないのだが……
そういう人生に対しての諦めのようなものも理由だった。
荷物は残っていたが、開梱した分の荷物整理を早々にすませ、施設の外を散歩に出た。
荷物を開けていると、また両親のことを思い出して気が滅入ってしまう。
施設の管理人に声を掛けると、笑いながら『何もないよ。海が見えるだけさ』と言われた。実際、海を見るだけでも良かった。
生まれた土地は海が見えなかったし、華やかな街でもなかった。美しい山も、澄んだ空気もない。田舎過ぎず、かといって都心ではない。平凡な地方に生まれ、育ってきた。
ここは海が見える。
それは俺にとって、とても特別な事に思えた。
しばらく林の中の道を抜けると、道が曲がって急に下り坂になった。すると、坂の下に海が見えた。
思わず足を止めた。
どんよりと曇った空。
潮の香り。
暗く、重い青色をした海。
じっと見ていると、波のうねりが、襲ってくるかのような錯覚に陥る。繰り返し繰り返し、寄せては返す波。
坂を下って行けば、磯に出れるかもしれない。
俺は坂を下り、防波堤の階段を上がった。
消波ブロックと、その隙間から見えるゴツゴツした岩が広がる磯。
激しく波がぶつかり、白くしぶきが広がって、波が消える。
引いた波が戻ってきて、またぶつかって、消える。
海とはこんなにも荒々しいものだったのか。俺は、朝見た海難事故のニュースを思い出した。曇ってはいるものの穏やかな天候に思えるのに、波はこんなに力強い。天候が悪ければ、あっという間に海の底に引き込まれてしまうだろう。
急に寒気を感じ、俺は施設に戻ることにした。
時計を見ると陽が暮れている時刻だった。ただじっと海を見ていただけなのにこんな時間になったのかと、俺はあらためて驚いた。それを知ると、感じた寒気について納得した。たとえ曇り空とは言え、陽が落ちれば急速に冷えてくるに違いない。ましてやここは今まで住んでいたところとは違う、雪国なのだから。
坂を上って施設に入ると、肌着が触れる部分は汗をかくほど温まっていたが、外に出ていた手や顔は冷え切っていた。自分の部屋に戻ると、シャワーを浴びて着替えた。
時間は早かったが俺は施設の食堂に向かった。
自分の名前を告げると、夕食が載ったプレートを渡された。この施設の食事は、Webで予約しておくと施設の管理人が調理して出してくれる仕組みになっていた。
厨房側から管理人が、ちらりと俺の顔を見ると、まな板に視線を戻し、言った。
「何もなかったろう」
「海を見てました」
「……」
管理人は手を止め、難しい顔をして、俺をじっと見つめ返した。
あまりにその時間が長いので、耐えきれなくなって聞いた。
「どうかしましたか?」
「何か見えたか?」
「え? いや、何も。あ、そういえば、泡がすごかったかな」
何か見えなければならなかったのだろうか。俺は言いながら作り笑いをしてみせた。
「そうか。ならいいんだ。いや、この施設に越してきた人間の何割か、海に入ってしまうことがあるから、ちょっと、気になった」
海に入ってしまう。自殺でもするというのだろうか。気になって聞き返す。
「なんですか、それ」
「いや、気にしないでくれ」
「聞かせてくださいよ」
「しつこいぞ」
管理人は包丁を持った手をつきつけるように伸ばした。
「あ、すまない。とにかく忘れてくれ」
「……」
俺は会釈をして『いただきます』と言ってトレイを持って、食堂内の席に移動した。
勤務時間的にも、中途半端な時間のせいか、他に食べている人は誰もいなかった。
黙って食事をしていると、頭の中で海の様子を思い出していた。
荒々しくそれでいてゆっくりうねる波。あの中に入っていくとしたら、目的は死ぬ為だろう。この施設に入った人間が自殺するとすれば、原子力発電所の勤務が過酷だとか、放射能を浴びているのではないかというストレスから鬱になるとかそういうことだろうか。
頭の中で波に向かって進んでいく人影を想像した。
普段の俺が考えるような稚拙な想像ではなく、なぜか、リアルな映画のシーンのようなイメージが浮かぶ。嫌だ、こんなこと考えたくない。俺は思ったが、まるで実際に見たものを思い出すようにイメージが止まらない。
その人影は、あのごつごつした磯に足を踏み入れる。
足は素足だ。アッと言う間に波がその足を覆い隠し、人影は足を取られて転んでしまう。するとそのまま引きずり込まれるように波の中に入ってしまう。
波が引いた岩に、血の付いた服の布が、切れて絡まっている。しかし、次の波がくるとそれすらなくなった。
暖かい食堂の中で、俺は震えながら箸と茶碗をカチカチとぶつけていた。外で感じた寒気ももしかして今のこれと同じだったのではないか。俺は根拠もなく、そんなことを思った。同じことが繰り返されている。この施設に、あの海に、記憶が染みついている。俺はそれを見せられているのかもしれない。
朝、ホテルの部屋で考えたのと同じように、いまさらながら、原子力発電所への転勤を受諾したことを後悔した。
食事を終えて、俺は食器を片付け、管理人に挨拶すると部屋に戻った。
施設に住む他の住人とはまだ顔を合わせていない。
この施設の住人は、全員原発勤務者で固まっていて、おそらく夜勤の者もいるはずだ。だから俺以外が全員勤務中のはずはない。休日のものもいるだろうから、誰にも合わないというのも変な感じがする。
部屋に戻ってテレビもつけず、ただ仰向けに横になって、しばらく考え事をしていた。すると部屋の外から別の部屋の扉が開いた音が聞こえ、同時に俺は安心した。