裏切りの月⑦ 家庭
そしてアランは自分の事を話し始めた、子供の頃両親が大好きだった事
父の上司がクーデターを画策したおかげ父は失業し酒を飲んで暴れるようになってしまい
そのせいで母は自分を捨てて職場の若い男と逃げてしまった事
それ以来、毎日父に暴力を振るわれ、満足に食事も出来なくなってしまい
とうとう酒代欲しさに自分を奴隷商人に売った父
【ゲルゼア】に売られた後は暗殺者として訓練され、仲間とも殺し合いをさせられながらも生き延びた事
そして【ゲルゼア】創設者の裏切りに気が付いた自分だけが生き残って今の職業に付いた事
そして昨日、自分を捨てた母が娼婦として働いている所に偶然出くわし
しかも薬漬けで頭もおかしくなっていて息子の事はおろか自分の名前さえもわからなくない程
変貌していた事などを淡々と話した、アリサはあまりの内容に絶句し
アランが話し終わった後もしばらく口をきけなかった。
「ごめんなさい、私が力になるなんて偉そうなこと言ったけど……
ここまで凄いとは想像もしていなかったわ、何と言っていいのか……」
聞いていたアリサが逆に動揺し戸惑っていた、アランはゆっくりと首を振り優しく語り掛ける。
「いや、いいんんだ、この話を他人に話すのは初めてだ、と言うより誰かに話す事なんて
考えてもみなかった、でも今気が付いた事がある、俺は誰かに聞いてもらいたかったのかもしれない」
アランは話し終わった後、妙にスッキリし晴れやかなた気分になっている事に驚いていた
それは慰めや同情、哀れみが欲しいのではない、とにかく聞いて欲しかったのだと今になって気が付いたからである
逆にどうしていいのか困惑しているアリサ、これほどヘビーな内容に対し
普通の慰めや励ましなど寧ろ逆効果である、しかしちゃんと話してくれた
アランに対して何かしてあげたいと思っていた
そしてアリサはとんでもないことを決意したのだ。
「話してくれてありがとうアラン、正直話が凄すぎて言葉が見つからないわ……
さっきはあんな事偉そうに言っておいて何を言っていいのかすら見つからない
そんな自分に腹が立つくらい、だから今度は私の事を聞いてくれないかな?
あなたの様な身の上話じゃなく、私の事を聞いて欲しいの
的外れだと思うかもしれないけれどいいかな?」
その提案に無言でうなずくアラン、しかしその頷きはいつもの無感情ではなく
慈愛に満ちた表情でうなずいていた。
「私はね、子供のころからモテてた、皆から可愛い可愛いってもてはやされた
大人になるにつれそれは加速していったけど内心ウンザリしていた
でも周りがちやほやしてくれるのは嬉しかったから私はそう振舞った
だから自分の容姿がどれぐらいの価値があり、他人からどう見えているのか
客観的に見る事が出来たわ、その内どう振舞いどう話せば
男の心を動かせるか少しづつわかって来たの……
嫌な女でしょ?誰もが私に好意を寄せてきた、でもね好きになるといっても様々で
本気で恋する人もいたけど、体が目当てだったり、ただ見た目のいい女を
はべらせたいってだけの男だったり、愛人になれって言って来た貴族なんか何人いたか知れないわ
だからどこで働いても私のせいでトラブルが絶えなかった、同僚の女性にはいつも嫌われていたしね
だからフリーになって働くことにしたの、私の見た目じゃなくて
中身を見てくれる人はいないのかって思いをずっと抱きながら……
勝手なモノよね、どう良く見られるかって事ばかりを気にしていた私が
中身を見て欲しいとか……そんな時に貴方に出会ったの
衝撃的だったわ、私がどうモーションかけても全くの無反応
私の事を変な目で見ない代わりに女としてどころか人間としても見てくれない
こんな人がいたの!?って正直驚いたわ、だから
《絶対私に振り向かせてやる‼》って思ったの
そうやってあなたの事をずっと見て追い掛けていたら
いつの間にかあなたを好きになっていた……
この年になって初めてこんな気持ちになったわ
だから昨夜の事は私の意思でもあるの、だから気にしないで
今の話を聞いたらわかるだろうけど私ズルい女よ、見栄えと人当りだけはいいけど
中身は結構嫌な女……どうガッカリした?」
自分の事を淡々と語るアリサに対し、アランはふと疑問に思い聞いてみた。
「なぜ俺にそんな話を?」
アリサは目を閉じ自虐的な笑みを浮かべて首を振った。
「何でかな……こんなこと言ったら嫌われる事がわかっているのだけれど
貴方が自分の事をこんなに赤裸々に話してくれたのに自分だけ
隠し事をしているのが凄く嫌になったから……かな?
いつも中身を見て欲しいなんて思いながらも外面ばかりを
気にしていた自分が急に恥ずかしくなったのよ、だからかな?
でも私は貴方を諦めないわ、今の話で引かれたとしても
がんばって取り返すわ、こうして自分達の事をさらけ出して
昨夜は一線まで越えたんだもの、他の女よりは気にしてくれるはずね?
これでようやくスタートラインに立てた気分よ、覚悟しなさいアラン
これからは外面を気にしないで猛烈に迫ってやるんだから
ドン引きされたって気にするものですか、これから私は自分に
正直に生きる事にしたの、あなたのおかげよ」
アリサは決意と熱さを秘めた瞳を瞬きもせず真っすぐに向けてきた。
「そんな事はしなくていい……」
アランは目を閉じ静かに口を開いた。
「ゴメン、やっぱり引いた?そりゃあそうよね、下手したら
ストーカー宣言しているみたいなモノだし、でも聞いてアラン
私は純粋にあなたの事を……」
焦りながらも必死で思いを伝えようと前のめりで話すアリサに
笑みを浮かべながら首を振るアラン、そして彼女の手を取り両手でしっかりと握り締めた。
「アリサ、俺は君に言いたいことがある」
「何?もう付きまとうなとか?だったら……」
しかしアランの言葉はアリサの想像を遥かに超えるモノであった。
「俺と結婚してくれないか?」
「へっ?」
アランからの突然のプロポーズに頭が追い付かず、思わず素っ頓狂な声をあげた。
「いやいやいや、ちょっと待ってくれる、色々な事をすっ飛ばしていきなり!?
ごめんなさい、今、頭が混乱していてまともに考えることができないわ、少し頭を整理させて」
〈待て〉とばかりに右手の掌を差し出し左手で頭を抱えるアリサ
意表を突かれた突然のプロポーズに明らかに困惑している事が見て取れた。
「やっぱり嫌か?ならもう君には近づかない、きっぱり諦める」
「いやいやいや、そこは諦めないで、私としてはようやくスタートラインに立ったと思ったら
いきなりゴールに着いたモノだから混乱しているだけなの、少し……
ほんの少しでいいから待って‼」
言われた通り素直に待つアランに対し正座しながら目を閉じうつむくアリサ
三分ほど無言で考えていたアリサがようやく両目を開けた。
「アラン、もう一度……もう一度さっきの言葉言ってくれる?
あんな不意打ちみたいなものじゃなく今度はしっかり聞くから」
それに対し無言でうなずくアラン。
「アリサ、俺と結婚してくれないか?」
今度のアリサは満面の笑みを浮かべて答える。
「はい」
こうして二人は結婚することとなった、それから二人は今後の事を話し合った
アリサの強い要望で暗殺者の仕事からきっぱりと足を洗うことにした
そしてその事をジャックに伝えに行った、突然の報告にジャックも唖然として
しばらく声も出なかったが、ようやく我に返ると笑みを浮かべ右手を差し出す。
「そうか、少し驚いたがいい事だ、おめでとうアラン、アリサ
家庭を持つことはいい事だ、早く子供を作って俺に見せに来い、子供はいいぞ‼」
「ありがとうジャック、お前には本当に世話になった」
二人はがっちり握手する、それを暖かな目で見守るアリサ。
「しかしお前らがくっつくとはなぁ……だけどお前らが抜けると
商売の売り上げが激減するな……気が向いたらまた戻って来いよ
いつでも歓迎するぜ」
ウインクしながら親指を立てるジャック、そんな二人の間に割って入り、微笑みながら口を挟むアリサ。
「もうそんな日は訪れないので私達の事は諦めてジャック、もう二度とアランを
そっちに誘う事も止めて、いいわね?」
表情はニコやかだが忠告ともとれるアリサの発言にややたじろぐジャック
そしてアランに顔を近づけ耳元でささやいた。
「おいアリサってあんなこと言うキャラだったか?もしかしてお前もう
尻に敷かれているとか……さっきのセリフはまるで別れた女房を見ている様だったぜ
女って怖いな~」
そんなジャックの言葉にクスリと笑うアラン、そして表情は微笑みながらも
強い口調で話しかけるアリサ。
「聞こえているわよジャック、私の耳は魔法で強化できる事を知っているでしょ!?」
再びくぎを刺され戸惑うジャックだったが、なにより驚いたのは
アランのこんな柔らかい表情を見るのは初めてだったからである。
それを目の当たりにしたジャックはウンウンと何度も頷いた。
「そうか、アランお前もそんな顔するんだな……驚いたぜ
アリサこいつは不愛想でぶっきらぼうで空気とか全然読めない唐変木だが
根はいい奴だ、よろしく頼むぜ」
「ええわかっているわ、任せて頂戴、でも人の旦那をそこまでボロクソに言われるといい気分はしないわね
それみんな事実だけど言っていい事と悪い事の区別はつけましょうね
まあ今回は許してあげる、私とアランを引き合わせてくれたのは
ジャックだものね、でも二度目は無いわよ」
再び強烈な忠告を投げつけるアリサ、顔は笑いながらの発言だけに思わず苦笑いしてしまうジャック
再びアランの耳元で先ほどよりさらに小さい声でささやいた。
「おい、今日のアリサは俺に対してやたら当たりが強くないか?
てゆうかあの優しかったアリサが一体どうしてしまったんだ!?」
「ちょっとジャック、聞こえているって言ったでしょ!?
ごめんなさいこれが本当の私なの、今までの私は猫被っていただけの
偽物なのよ、改めてよろしくね、ジャック」
上機嫌にウインクするアリサに対して口を開けたまま唖然として一瞬固まるジャック。
「あ~あ、何のカミングアウトだよ……実は俺アリサの事いい女だなって思っていたのによ……
どうせならずっと猫被っていて欲しかったぜ」
そんなジャックの告白にクスリと笑うアリサ。
「ごめんジャック、貴方が私の事そういう風に見ていてくれていたのは知っていたわ
でもね、もう猫被る必要なくなったのだもの、今凄くいい気分よ
あと貴方は私の好みではないわ、でもアランの百分の一ぐらいは好きよ」
「なんだよそりゃあ、複雑な気分だぜ、全く……で、お前らバルドには
結婚の報告をしたのか?」
「いや、まだだ、今から行こうと思っている、まずはお前からだと思ったのでな」
何も気にする様子もなくあっさりと答えるアラン、しかしジャックは複雑な表情を浮かべていた。
「そ、そうか……まあ真っ先に俺の所に来てくれたことはありがたい話ではあるけれど
その……大丈夫なのか、バルドは?」
心配そうな顔でアランを覗き込むジャック、アリサも複雑な表情を浮かべていた。
「大丈夫とはどういう意味だ?別に他国に侵入して破壊工作をするわけでなし
俺達が結婚の報告をするのに、何の心配をしているのだ?」
バルドがずっとアリサに惚れていたことなどアランが知っているはずもなかった
ジャックがチラリとアリサの方に視線を移すと今度はアリサが苦笑いを浮かべていた
そしてアランは話を続ける。
「昨夜もバルドと俺達の三人で食事に行ったのだが、あいつは普通に話していたぞ?
まあ昨夜の食事の時点ではまさか俺達が結婚するなんて
俺達自身も考えていなかったのだからな、バルドも驚くとは思うが」
その発言を聞き再び驚くジャック。
「なんだそりゃあ!?じゃあお前ら隠れて付き合っていたとかじゃなくて
いきなり結婚を決めたって事か!?昨夜の食事の時には全くそんな気は
無かったのに今日には結婚報告をしに来たってことは昨日の夜に
何かあったという事だよな……」
驚きと呆れの入り混じった口調でそう口にした後、しばらく考え込んで
再びチラリとアリサの方に視線を向けた、その視線に対しアリサはニッコリと微笑み優しく答えた。
「ねえジャック、あなたの言いたいことや考えている事はわかるけど
それを口にしたら殺すわよ」
微笑みながら殺害予告までされてはそれ以上の発言をすることができなくなってしまったジャック
こうして二人はジャックの店を出てそのままバルドの元を訪ねて結婚報告をした。
「な、なにを言っているのだ?全然言っている意味がわからないのだけど
悪ふざけも大概にしないと……」
明らかに動揺し取り乱す寸前で踏みとどまっているバルドに対し
特に気を遣う訳でなくあっけらかんとしているアラン。
「別に悪ふざけなどしていない、俺とアリサが結婚するという事実を報告しに来ただけだ
お前は俺がそんな冗談や悪ふざけを言うような人間に見えるのか?」
確かにアランが冗談を言った所など見たことが無かった
バルドは思わずアリサの方を向いて目で問い掛ける《本当なのか?》と
するとアリサは申し訳なさそうに口を開く。
「アランの言っている事は本当よ、私達結婚します、バルドの気持ちには気が付いていた
けれど、ごめんなさい、私達の結婚を仲間として貴方に一番祝福して欲しいの
酷いことを言っているのはわかっているわ、でも……」
アリサ本人からそう言われてしまうともう認めざるを得なかった
もう何をどうしても変えられない事実ならば、それを受け入れるしかな
怒りと悲壮感の入り混じったような複雑な表情で必死に納得しようと踏ん張るバルド
そして最後には大きくため息をつき、晴れやかな表情でアランに向かって右手を差し出した。
「おめでとうアラン、アリサ、幸せになってくれ……アラン
絶対にアリサを幸せにしてやれよ、アリサを泣かすことがあったら
俺が承知しないからな‼」
差し出された右手とガッチリ握手しバルドの祝福に応える二人。
「ああ、約束する、ありがとうバルド」
「ありがとう、本当にうれしいわ、あなたには私なんかより
ずっといい人が見つかるはずよ、今までありがとうバルド」
今まで見たことのないアランとアリサの笑顔を見てバルドも認めざるを得なかった。
「アラン、お前でも笑うんだな、それにアリサ……
君のそんなに幸せそうな顔も初めて見たよ、良かったな二人とも
図らずも俺がキューピット役を担ってしまったという訳か
心境的にはキューピットではなくピエロだけどな……」
バルドの自虐ともとれる言葉も二人には嬉しく思えた
そしてバルドが真剣な表情でアランとアリサの方を見つめる。
「二人の結婚はめでたい事として受け入れよう、ただ現実的な話がしたい
これからどうするつもりだ?今の仕事をこのまま続けるのか?
俺としてはそれでもかまわない、恋路と仕事は別だからな」
バルドの質問にアランが答えようとした時、グッと前に出てきたアリサが先に発言をした。
「私達は引退するわ、アランにはこれ以上危険な仕事をして欲しくないの
自分たちの都合であなたには迷惑をかけるけど、もう決めたの
ごめんなさい」
それを聞いたバルドは逆に嬉しそうだった。
「そうか、いやその方がいい、こう言っては何だがこの仕事は
家庭持ちがするようなモノじゃないからな、足を洗うのなら早い方がいい
ただ俺はまた失業だな、さてどうしたものか……」
上を見上げて途方に暮れるバルド、そんな時アランがポケットから一枚の紙を取り出した。
「バルド、これを持っていけ、これはベーゼナ公国内務大臣への紹介状だ
これを持っていけばお前はすぐにでも騎士として迎えられるはずだ」
目を丸くしてその紙を受け取るバルド。
「何でお前がこんな物を持っているんだ?これは一体……」
「俺は先日、ある仕事の過程で奴の秘密を握った、それ以来
奴とは何度も情報交換をしている、こちらもそれなりに有効な情報を
流しているのだから相互利益を得ているといってもいい
だから俺の推薦する男ならば国軍の騎士の中にお前をねじ込むことなぞ
奴にとっては造作もない事だろう」
その話を聞いて複雑な気持ちになりどうにも釈然としないバルド。
「でもよ、相手の秘密を握ってそれをネタに無理矢理権力者のコネで
騎士になるっていうのも何か納得できないっていうか……」
釈然としていないバルドを呆れ顔で見つめながらアランは語り始める。
「何を言っているのだお前は、物事の過程などどうでもいい
世の中結果が全てなのだ、奴は優秀な騎士を軍に紹介し己の株をあげる
お前は騎士としての新たな職場を得る、これのどこに問題があるというのだ?
俺はお前と何度も仕事をしてお前の能力を知っている
少なくとも一介の騎士で終わる様な男ではないはずだ
そもそもお前がこうして裏家業に身を落した原因も貴族のバカ息子を殴って
権力により追放されたのであろう?己は理不尽な権力を使われたのに
自分は使いたくないなんて愚か者の考えだ、使える物は何でも使う
裏家業に身を置いた者ならばそれぐらいの事は飲み込め」
説教の様な形で言われたがぐうの音も出ない程反論できなかったため
アランの好意を受け入れ新たな職場を得たバルド、しかしどうしても
気になった事があり、質問してみた。
「なあアラン、お前こんなコネがあるのなら何で自分が騎士にならないんだ?」
バルドにしてみれば非常にありがたい夢の様な話なのだが、なぜそのチャンスを他人に譲るのか
アランの意図が全く分からなかったからである、しかしアランの答えは
ある意味非常に納得できるものであった。
「俺に騎士なんてできる訳ないだろう、あんな頭の固くて
融通の利かない連中の考え方はさっぱり理解できん
騎士道だの正々堂々だのなぜ自分をワザワザ不利に追い込むのか?
俺に言わせればただの馬鹿にしか思えん、まあバルドなら
ギリギリできるのだろうと判断したまでの事だ」
どう聞いても騎士を馬鹿にしているとしか思えない発言であり
バルドに騎士になる事を勧めるという事は何気に
《自分も馬鹿だと思われているのであろうか?》と考えたが
まあ実にアランらしい考えだと納得し有難く受け取ることにした
これがのちに悲劇を巻き起こすことになると今の時点では知る由も無いのであるが……
二人はジャックとバルドに結婚報告を済ませ新婚生活の為の準備に入った
以前ジャックに紹介された不動産屋で住む所を決め、色々な物を二人で買い揃えた
仕事もすぐに見つかりいよいよ明日から新婚生活という時の事
アランはアリサをある店に連れて行った、そこはいつもアランが利用しているなじみの食堂であった
なじみと言えば聞こえはいいがアランの生活範囲は極端に狭く
仕事のない時でも生活用品を買う為の雑貨屋とこの食堂以外は基本どこにも出かけないのである
その店は店構えとしては小さく表通りとはやや離れている為
昼時とかでもそれほど混んでいないのが特徴の食堂であった
アランとしてはその混んでいない点が気に入ってこの食堂を利用していたのだが
食堂の入り口を入ると威勢のいい《いらっしゃいませ》というおかみさんの声が狭い店内に響く
すると背が低く清潔感のある短髪のおかみさんがアランの姿を見て嬉しそうに寄って来た。
「あら、アランさん、久しぶりじゃない、つい前まで毎日来てくれていたのに
一体何処で浮気していたんだい?」
その時アランの後ろにいたアリサに気が付くおかみさん、アリサはすかさず頭を下げる。
「どうしたんだいこの美人さんは?もしかしてアランさんの彼女かい?」
「俺の妻です」
「へっ、アランさん奥さんいたの、もしかして最近結婚したのかい!?」
目を丸くして驚くおかみさんに、再び頭を下げ挨拶をするアリサ。
「初めましてアランの妻アリサと申します」
「先週結婚して、今度ここから少し離れた所に住む予定なんだ
だからおそらくもう来られないと思いまして、だからあいさつ代わりに来たのですよ」
「そうなのかい、さみしくなるねぇ……来月には娘も結婚で出ていっちゃうんだよ
でも、めでとう元気でやっといで、子供が生まれたら見せに来ておくれよ」
アリサはアランとおかみさんの会話を黙って聞いていた
アランにこれほど気さくに話せる人物がいたこともそうだが
アランの敬語など初めて聞いたのが何よりの驚きだった。
二人は食堂を出ると新居に向かう、アランが挨拶する所はここ一件だった為
夕方には新居に着いた、二人とも暗殺者の稼ぎでかなりの貯蓄があった為
中々広くて綺麗な家に住むことにした、こうして二人の新婚生活が始まった
アランは橋の工事作業をおこなう作業員として再就職した
無口で不愛想なアランには人と関わる仕事は無理だったからである
アリサも働きに出ていた、それはアランだけの稼ぎで養われることを嫌ったアリサの要望である
正直暗殺者時代の五分の一ほどしかない収入だったが、二人は幸せであった
アランは無口ながらも黙々と真面目に働くところが評価され、現場主任にならないかと声がかかる
一方アリサはぁ職場でも自分を偽ることなくなるべく本音で語る事を心掛けていた
すると以前はあれ程嫌われていた同僚の女性から声をかけられることも多くなり
初めて仕事場の友達というモノが出来た、相変わらず男性からの誘いもあったが
もう二度と誘われない様に強烈に拒絶した、それがますます女性たちに評判になり
いつしか職場の中心的な人物へとなっていく、元々アリサは頭も良く手先も器用
昔から鍛え上げた社交性も持ち合わせている、三か月が経ったころには
職場の上司ではなくアリサに相談しに行くものが増え始めたほどだ
二人は仕事から帰るとそれぞれの仕事であったことを話し合った
とはいってもほとんどアリサがしゃべりアランが聞くというスタイルである
職場でのことを嬉しそうに話すアリサ、それを頷きながらほほえましく聞いているアラン
二人にとって最良の日が続いた、そしてある日の夕食の時間
いつもなら雪崩の様に話し始めるアリサが話し辛そうにチラチラとアランの事をうかがっている
一体何があったのか不思議に思い聞いてみた。
「どうしたんだいアリサ、今日は何か様子が変だけど、具合でも悪いのかい?」
するとアリサは激しく首を振る、一体何があったのだろうともう一度と聞いてみようとした、その時である
アリサは上目遣いでアランを見つめ恥ずかしそうに口を開いた。
「赤ちゃんが……できたみたい」
アリサの告白にアランは両手に持っていたナイフとフォークを落してしまう
「赤ちゃん……子供が、俺達に子供が!?何だか信じられない……」
呆然としながら中々理解できないアラン、そんな夫に優しく語り掛けるアリサ。
「あなたは父親になるのよ、よろしくねパパ」
「俺が父親に!?そんな事が、すまない頭が追い付かない……」
アランは戸惑っていた、心の奥から何か熱いモノが湧き上がってくる
それが何なのか、どうしてそんな気持ちが自分の中にあるのか理解できなかった
それを黙って見守るアリサ、寧ろアリサの方がアランの心情を理解していた
アランは悲惨な幼少期を過ごし父と母の悲惨な末路を目の当たりにしてきた
そして暗殺者として図らずも何人もの人間をその手にかの手にかけてきた自分が
人の親になるというジレンマ、そして無意識下での罪悪感が波の様に押し寄せてきているのだ
幸せだからこそ怖い、嬉しいからこそ恐ろしいという相反する思いが心と頭をかき乱す
それがわかっているからこそアリサは何も言えなかった
苦悩と歓喜が入り混じり困惑する夫の姿をしばらくジッと見つめていたが
不意に立ち上がると静かに近づきアランの頭をそっと抱きしめた。
「そんなに苦しまないで、私達はこれから幸せになっていくのよ
あなたと私、そしてこの子と三人で、いつかこの子が巣立って行って
おじいちゃんとおばあちゃんになっても私は貴方の横にいたい
本気でそう思っているわ」
アリサの言葉に自然と涙がこぼれ落ちるアラン、自分でも全くの無自覚で
床にこぼれ落ちていく水滴を見て初めて気が付いたほどである。
「ありがとうアリサ……君に会えて本当に良かった」
震えながらアリサのお腹の部分に抱き着くアラン、そんなアランの頭をそっと撫でるアリサ
二人は幸せであった、この後二人を襲う恐るべき運命に気が付くこともなく夜は静かに更けていった。
それから数か月後、二人の間に子供が生まれた、元気で健康的な女の子だった
アリサの出産に立ち会い、手を握りながら涙を流すアラン、それを見て思わず涙するアリサ。
「ありがとうアリサ、よく頑張ったね、俺は君に出会ってから泣いてばかりだ」
「泣いてくれるのが嬉しいのよ、これから三人で頑張りましょう、パパ」
周りの者にも祝福されアランは幸せの絶頂であった
このままアリサと共にゆっくりと時を過ごしていくイメージがようやく湧いてきた
自分を苦しめてきた過去の記憶と罪悪感も徐々に薄れていき
《自分も普通の人間へと変われるんだ》と、しかし運命の波はそんなアランを飲み込んでいく
二人の間に生まれた子はマリーと名付けられ元気にすくすくと育っていた
マリーが生まれて二年が経ち、すっかり普通の夫婦へと変わっていた二人の元に一通の手紙が来ていた。
「アラン、バルドから手紙が来ているわ、どうやら出世して騎士長になったみたい」
その手紙を手に取り微笑みながら文章を読むアラン。
「まあバルドの実力なら当然だな、三年近くかかったのは逆に遅いぐらいだよ
だけどこの手紙には結婚したとか恋人がいるなんて話は書いていないな
まだ独り身だな、あいつ、君に振られたときはかなり落ち込んでいた様だったけど」
その言葉に少し睨む様な視線を向け眉間にしわを寄せるアリサ。
「何で今更そんなこと言うのよ、本当に意地悪ね、素直にバルドの出世を祝ってやればいいじゃない
マリーの出産祝いや誕生日のプレゼントもかなり高価なものをいただいているのよ
あの子もバルドには妙になついているし、そもそもあなたは昔からバルドに対して……」
アリサの猛口撃が始まろうとした瞬間、アランは両手をあげて降参のポーズをとった。
「わかった、わかったから、俺が悪かった、もう勘弁してくれ」
あっさりと負けを認めるアランに対して逆に腹が立つアリサ、以前二人は大喧嘩をした事があった。
しかし口下手のアランと口が達者なアリサとでは元から勝負にならなかった
アランは完膚なきまで叩きのめされ、これ以上ない程、言い込められたのである
それ以来アランは口げんかになりそうになるとあっさりと白旗をあげた
《勝てない勝負はしない》という実にアランらしい合理的な考えから来た結論である
アランはこれ以上ないほど幸せを感じこの時間が永遠に続くと思っていた
だがそれから数日後、アランに運命の日が訪れるのである。