第90話 霧中の初陣
巨大な鉤爪のような刃を有した大薙刀で、丸太を組んだ門を打ち砕く。
これが鉄の門扉だったり、クジャのような石材の城壁だったらこうはいかなかっただろう。
木造の砦。
それでもウヤルカの住んでいた村よりも立派な造りだったし、規模も遥かに大きい。
人間の軍が駐留するというのだから、軽く千はいるものなのか。
ウヤルカは振るった大薙刀――先に倒した鉤手暴駝の魔石を使い強化した《鉤薙刀》の手応えに頷く。
「エシュメノに感謝やね」
ウヤルカの全力でも軋むこともないほどの強度。これなら思う存分に戦える。
人間の振りをしなければならなかったことは、不愉快といえば不愉快。
不愉快でも、勝つ為の手段なら厭わない。
手段を選んでいられる状況ではない。絶望の中で、ルゥナがウヤルカに頼んだ役目なら喜んで引き受けよう。
汚れ役、上等。ウヤルカにしか頼めないと言われて嬉しかったこともある。
何のかんのと言っても、ウヤルカは彼女らの最も辛い時に一緒にいられなかった。一緒にいてもそこに線があるような、そんな引け目を感じていた。
――囮として、人間の振りをして砦の敵を挑発してほしい。
危険な上に、忌まわしい人間として名乗れと。その挙句に背中を見せて逃げろなど、遠慮していたら頼めないだろう。
だから、こんなことを言うのはもちろん悪いのだが、勝算の少ないこの戦いが有り難かった。ウヤルカが本当の意味で仲間として認めてもらえるような気がして。
元より命を惜しんで戦いに臨んだわけではない。危険でも何でも、役に立てるというのならそれ以上の望みはない。
――勝利の為に、貴女の力は今後も必要です。勝手に死ぬことは許しません。
ルゥナはウヤルカをたらしだと言うが、ルゥナだって大概なものだと思う。機会があればぜひゆっくりとお互いの熱を伝え合いたい。
「貴様ぁ!」
門を破られ度肝を抜かれた兵士が、言葉だけでウヤルカに敵意を示す。
恐れて、飛びかかっては来ない。
「はっ、ははっ!」
思わず、笑ってしまった。
初めてだったので、思わず。
「どうしたんじゃ、いびせえんか?」
初めて人間を見たのだ。こんな間近で。
倒すべき敵。忌まわしい種族。
魔物とは違う。清廊族にとって最も憎むべき相手が目の前にいる。
数名が集まって槍を構えて、だがその腰は引けていて。明らかに怖れを抱いている。ウヤルカに。
(っと、違うんじゃったね)
ウヤルカに、ではないのだ。今は。
人間どもが怯えてえるのは、見知らぬウヤルカに対する恐怖ではない。彼らの敵の人間の噂に対してだ。
「なんよ、このコロンバんがおっかのぅて動けんのんか! あははっ!」
「く、この田舎女がぁ!」
どうして見ず知らずの人間がウヤルカを田舎者だとわかったのか不思議だが、挑発は成功したらしい。
嘲笑はうっかり漏れただけだが、いい具合に煽っただろう。
二人ほどまとめて槍を構えて突っ込んでくる。その踏み込みも突きも鋭い。
訓練された兵士というのはこういうものかと感心させられた。が、それはウヤルカの誤解だ。彼らはここに派遣された精鋭で実力は兵士の平均よりも高い。
単騎で砦を急襲した向こう見ずな敵を仕留めようと、そう思う程度には腕に自信があった。
それがまた彼らの不幸。
「よっと!」
見事に並んでウヤルカを貫こうとする槍の間に、ウヤルカの鉤薙刀が差し込まれた。
ガギィン、と、金属音を響かせて左右の槍が大きく弾かれる。
一瞬で左右両方の槍を弾き飛ばした。精鋭槍兵の突きを。
「なんだとっ」
「ぐぅっ!」
「遅いんじゃ」
両手で突きを放った兵士らは、弾かれて無防備に身を晒す。
――ウチの復讐もこっから始まるんよ。
そんな気持ちから思わず力が入った。入り過ぎた。
ウヤルカの一刀で、二人の人間が上半身と下半身を別れさせた。永遠に。
「べへっ……」
「が、あ、ああぁ……」
両断された二つの死体。
それを見た他の兵士は、呻き声を上げて数歩下がる。
両断された上半身がまだ動くのか、がりがりと地面を掻く。血泡を吹きながら。
「へえ」
すぐには死なないものか、と。うっかり両断してしまったが、そういうものらしい。
そういえば虫も、両断されてもしばらくは生きて動く。人間も同じなのか。
「ひぃ、無理だ……誰か、ムストーグ様を!」
「将軍、コロンバです! イスフィロセの悪魔だ!」
喚きだす兵士たち。この砦には人間の英雄と呼ばれる戦士がいるはずなのだと聞いている。それがそのムストーグとやら。
砦は大きい。そう思うのはウヤルカの感覚であって、人間どもにとってはそれほど大きなものではないらしい。
騒ぎを聞きつければすぐ来る。その英雄が。
それを倒したいとも思う気持ちもあるが、ルゥナからきつく命じられている。
騒ぎを起こしたら即座に撤退しろと。
「はっ、腰抜け連中ばっかりやね」
捨て台詞を残して、全力で駆けだした。砦の北に広がる溜腑峠の中心に向かって全力疾走。
ウヤルカは豪気だが己を知っている。アヴィ以上の力を持つと聞く英雄とやらと正面からやり合い、尚且つ他の兵士の相手も出来るとは思っていなかった。
言われた通りに撤退。人間を相手の初戦としては今一つの不格好さだが、そんなことを気にしていて負けては意味がない。
まあ実際に死ぬのは嫌なので言われた通りにするし、逃げるのも作戦のうち。
人間をより多く殺す為の作戦なのだから、逃げることを恥とは思う必要もないだろう。
作戦を失敗させることの方が恥だ。堪えられないこと。
期待に応えてこその戦士。
単騎で敵の砦の門を打ち破る。
これも十分な誉れと言えなくもない。
「海賊娘ぇ!」
背中から、腹の中まで響くような怒号が届いた。
無視できないほどの圧力と共に。
「今日は連れ合いはおらんのか? あれはなかなか具合が良かったがの。がぁっはっは!」
だが、無視する。
無視できないほどの力を感じさせる相手だと言うのなら、それが英雄に違いない。
言っていることはわからないが、どうやら当のコロンバと面識があるのだと理解した。因縁、かもしれない。
「急いて逃げることも、あるまい!」
声が、背中からどんどんと近づいてくる。速い。
恐ろしい勢いで、恐ろしい力を持った人間が追ってくる。
「おんしの相手なんぞしとられんのじゃ!」
このままでは追い付かれるのは明らかだった。
まだ砦からさほど離れてもいない。
ウヤルカの脚力は決して遅いわけではないが、人間の英雄の速度は異常だった。見ている余裕はないけれど、追いすがる速度が異様だ。
スピードだけではなく他の身体能力でも、大きくウヤルカを上回るに違いない。
「なんじゃ、貴様……?」
近付く声が、もう数歩でウヤルカの背に息が届くほどに感じる。
顔見知りだということなら、近付けば贋物だとは知られてしまうか。
訝しむ声と共に、手が伸びる気配が背中に伝わった。おぞましい気配に背筋に鳥肌が立つよう。
「海賊娘では――」
するりと。
手が、空を薙いだ。
跳んだウヤルカの背中を掠めて、空を切る。
「ユキリン!」
「QuA!」
高い声と共に、ウヤルカの体が宙を飛んだ。白い流麗な魔物に掴まって。
「魔物じゃと!?」
「はっ、間抜け面さらしときぃや」
溜腑峠に立ち込める霧の中、ユキリンに乗ったウヤルカが上から煽り言葉を掛けて飛び去る。
それを見上げる老齢の人間。英雄ムストーグ。
呆気にとられ、捉えられなかった自分の手を握ってから、顔を歪めた。
「なめよって……」
ある程度はおびき出すつもりではあった。思った以上に間一髪になってしまったのは、ウヤルカの想定以上にこの男の能力が高かったから。
どれだけの力があるとは言っても、人間の足には違いない。迷わず逃げるウヤルカに追い付くのは困難だろうと思っていたのだが、甘かった。
「それで……この儂から逃げられると、思うたかぁぁ!」
溜腑峠には、天まで届く木々のように岩山が聳えている。
その隙間を縫うように飛ぶユキリンに、大気の振動が襲った。
英雄の腹から放たれた怒号が、岩を震わせ鼓膜を痛いほどに叩く。
「っ」
思わず顔を顰めるウヤルカ。ユキリンの方も痛みを感じたようで、飛ぶ姿勢が僅かに揺らいだ。
はっとウヤルカが上を見る。
気配が強すぎる。この英雄ムストーグは、豪胆な性格からなのか、激しく存在を主張していた。
わずかに揺らいだユキリンの挙動。その隙を狙って一足で空高く跳び上がり、ウヤルカの頭上に構える。
「小娘がぁ!」
「ぬうぅ!」
本当に、エシュメノに感謝しなければならない。
上から叩きつけられた一撃を何とか受け流せたのは、魔石で強化した鉤薙刀だったから。そうでなければ真っ二つだっただろう。
勢いは受けきれない。
ユキリンが大きく沈み、それがクッションのように衝撃を和らげてくれた。
斜めに、英雄の一撃を受け流す。
「生意気な!」
「るっさいんじゃ」
毒づきながら下に落ちていくムストーグと、まだ痛い耳の奥に毒づくウヤルカ。
いくら英雄とはいえ空を飛べるわけではないらしい。これで空まで飛ばれた日には適わない。
一度着地して、今度こそウヤルカとユキリンを切り捨てようと落ちながら睨むムストーグの瞳は、怒りで濁っている。
ここは溜腑峠だ。
霧と、泥沼の魔境。
それを忘れていたのか、跳び上がった空中から落ちた足は、ぬめった泥に深く膝上まで沈み込んだ。
「この程度で――」
忘れていたわけではないらしい。
泥に沈んだところで、自分の脚力ならそのぬかるみさえ蹴飛ばして跳び上がれると。
この程度の地形など、想定していようがいまいが対応は出来る。それでこその英雄級。
跳び上がり、今度は下から魔物もろとも切り捨てる。上空とはいえムストーグの手の届く範囲だ。
ぐぅっと、足に力を込めたその瞬間に。
「冷厳たる大地より、奔れ永刹の氷獄」
「冷厳たる大地より、奔れ永刹の氷獄」
忘れていたわけではなかっただろうが、強すぎるムストーグは注意を払っていなかった。
いても不思議はない伏兵が、霧の中に潜んでいることを。
「むぅっ!?」
腿まで沈み込んだ足が、その沼ごと凍らされる。
尋常な力の魔法ではない。上位の冒険者でもこれだけの力がある魔法を使える者は多くないはずだった。
※ ※ ※
左右から大地を凍らせる魔法を放った。ムストーグの足を止める為に。
強力な魔法を使う複数の伏兵の存在に、ムストーグが唸る。
「影陋族、じゃと?」
氷雪系の魔法は、人間よりも清廊族の方が得意だというのは周知の事実だった。
「あの小娘も……影陋族か!」
「知ったところで、死にゆくお前には関係ないことです」
「そうじゃの」
左右から聞こえた女の声に、ムストーグの眉が上がる。
ウヤルカは既に飛び去っている。
砦からは、ムストーグだけが飛び出してきた形で後続がいない。
英雄をおびき出して、尚且つ沼地に氷漬けにした状況。
「メメトハ!」
「わかっておるわ」
そこに姿を現したのは、ルゥナとメメトハだった。
「谿峡の境間より、咬薙げ亡空の哭風」
「谿峡の境間より、咬薙げ亡空の哭風」
再び、同じ魔法を使った。極めて殺傷能力の高い魔法を左右から。
油断などしない。敵は英雄級の力を持つ人間で、絶好の機会に最大の攻撃を。
人間側の最大戦力を討つ好機を見逃すほどルゥナは愚かではない。
この位置に落ちてくれたのは幸いだった。
ウヤルカの逃走ルートはある程度は決めていたが、敵の追手がどう動くのかわからない。
いくらかの地点に待ち伏せとして配置していた。その中でもルゥナが思う最も良い位置取りで最大の敵が来てくれた。僥倖だ。
強敵が相手であればまず足を止める。メメトハと打ち合わせていたこともうまく嵌まって。
その上での必殺の魔法。いかに英雄とはいえ――
「ぬるいわ!」
手順に間違いなどない。
ルゥナの取った行動にも、メメトハの魔法も、最善の手だったはず。
想定外だったのは、ウヤルカの誤算と同様に。
この英雄の力が、想像を大きく超えていたこと。英雄の力を測りかねたことが間違い。
対象を擂り潰す凶悪な圧縮空気の塊を、右手の剣と、左腕で薙ぎ払うなど。
可能なのかどうかと共に、そんな行動をすると想像していなかった。
「なっ……」
「ぐぅぅっ」
痛みで顔を歪めながらも、ムストーグもまたそれが最善の手だとして躊躇なく行った。
裂傷と、破壊の力で指を数本あらぬ方向にひしゃげさせても構わず。
左右から襲う凶悪な魔法を強引に打ち破った。
「……ば、化け物め」
クジャでも、そんな魔物がいたとルゥナも聞いている。
異様な回復力と強靭さを備えた魔物。人間とロックモールの混じりもの。
だが、それは魔物だからの話だ。
人間や清廊族なら、というかまともな生き物なら、自分の身が傷つくのを平気で判断することなど出来ない。
動きを奪われた状態で、左右から同時に襲う魔法に対して、自分の身のいくらかを犠牲にする最善の手で対処するなど。
「なめた、真似を……しくさって」
「メメトハ、もう一度!」
下半身は凍らせているのだ。ならば何度でも撃てばいい。この人間が死ぬまで。
呼吸を整えようとしたルゥナたちの目の前で、希望が砕かれた。
「小娘どもがぁ!」
折れた指をそのまま、血塗れの腕をそのままに。凍った泥沼に叩きつけた。
砕かれる、氷の戒め。
それとてルゥナとメメトハが全力を込めて作り上げたものだったのに。
「悪戯が過ぎたようじゃな、影陋族が」
「……」
じゃくりと、砕けた氷を踏み鳴らす人間。
右に、左に。
ルゥナとメメトハを見て、鼻を鳴らす。
「ちょうどいい。手足を圧し折って可愛がってやろうぞ」
美しい娘だと、思われたのだろう。
その目の濁りに肌が怖気だつ。歯を噛み締めていなければ震えてしまいそうだ。
ルゥナとメメトハだけでは倒しきれないかもしれない。けれど、別の場所にいる他の仲間が来てくれれば。
「ふん……」
釣られて、空を見てしまった。
砦の上空から、矢のように迫る黒い影を。不快そうに呻いた人間に釣られて見た空に、その存在を確認する。
飛竜に乗った戦士が、既に影も僅かにしか見えないウヤルカの飛び去った方角に向けて、凄まじい速度で飛んでいく。
「飛竜、騎士……」
「他にいくら仲間がいるのか知らぬが、貴様らに勝ち目などなさそうじゃな」
最初に飛び去った者よりは遅れて、続けて飛竜が飛んでくるのが見えた。
「まあ儂は、貴様らで我慢してやるとしよう」
舐め回すような視線に、吐き気を覚える。
腕を損壊しているのにこの男は、その状態でもメメトハとルゥナを相手に十分な勝算があるのだ。
攻撃を受け、その上で言っている。欲望の捌け口にちょうどいい、と。
飛竜が飛び立った砦からは、尚も多くの声が上がっている。
その数がルゥナ達よりもずっと多いことだけは、離れた場所でも嫌というほど伝わってきた。
※ ※ ※