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戦禍の大地に咲く百華  作者: 大洲やっとこ
第一部 傷に芽吹く火種
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第7話 道を選ぶ




「人間がするように魔物を使役できたら……」


 ふとそう言ったセサーカの言葉に、アヴィの足が止まった。



「……」


 よくないかもしれない。


「セサーカ、やめなさい」

「ルゥナ」


 制したルゥナに対して、アヴィの声音は平坦だった。


「聞きたい」


 魔物に育てられたアヴィにとって、どう受け止められたのか。

 興味を持つだけならいいが、何かのはずみで逆鱗に触れたりすることも考えられる。



「ええと……」

「聞きたい」


 ルゥナを気にするセサーカに対して再度、アヴィが要求した。

 そう要求されてしまえばルゥナも無理には止められない。いずれ目にすることもあるかもしれないから、聞かせてもいいか。


 ルゥナが頷くと、セサーカもおどおどと頷き返した。



「私とミアデは、小さい時に捕まって少しの間、牧場……清廊族の収容所にいました。そこで見たんです」

「何を?」

「人間が、魔物をそこの警備に使っていたのを……」


 アヴィの表情は変わらない。

 だが、少しだけ瞳が揺れている。


 魔物と人間が共生していると聞いて、アヴィの心に波が立つ。



「違います、アヴィ」


 その波を止めるように、アヴィの手を取って首を振った。

 彼女の思う関係とは全く違う。


「使役されているのです。奴隷として」


 ミアデの手が自分の首を擦った。そこにかつてあったものを示すように。


 首輪。

 呪枷と呼ばれる呪いにより、無理やり従わされているのだと理解して、アヴィの肩から力が抜けた。


「……そう」

「セサーカ。私たちは人間とは違います」


 アヴィの手を握ったまま、出来るだけ冷たく言った。


 下らない話をしてアヴィの気持ちをざわめかせたと。その反面、敵として現れる前に知らせておいて良かったとも思う。

 何も知らないまま、魔物が人間の言いなりになるのを見たら、アヴィが戸惑ったかもしれない。


「私たちは、あんな物を使わない」

「あ……はい、そうです」


 忌むべき呪いだ。その卑劣で絶対的な支配力は知っている。

 清廊族として、たとえ何があろうとあんな力に頼ることはない。


(もし、使うとすれば)


 ルゥナがそれを選ぶのだとすれば。


(人間に)


 それだけは許されるのではないか。



「違う、のね」


 アヴィが、ルゥナに握られた手をすっと抜いてしまう。

 逃げていくそれを惜しむルゥナに、逆にアヴィが手を握り返して、自分の口元に持っていった。


「ありがとう、ルゥナ」


 指先に熱い吐息と共に感謝の言葉が届く。

 アヴィと、その母親の関係性とは大きく異なるのだと、ルゥナは知っていた。


「母さんとは……うん。違う」


 ふふっと、アヴィの顔に笑みが浮かんだ。


「……」


 ルゥナも、ミアデもセサーカも、その表情に言葉を失う。

 美しいということもあるが、あまりに優し気な微笑みだったので。


 満ち足りた微笑み。

 普段、無表情なアヴィが不意にそんな顔を見せたことに驚き、目を奪われた。



「……なに?」


 皆が息を飲んでアヴィを見つめていたら、いつものように感情を感じさせない顔に戻ってしまう。


 わずかな時の、夢のように儚い美しさ。

 それを惜しみつつ、訊かれたルゥナは、先ほどアヴィの吐息を受けた指先を自分の唇に当てながら、そっと首を振った。


「いえ……そんな風に笑うのは珍しかったので」

「そう、かしら?」


 自覚がないのか、本当に不思議そうに思い返すように首を斜めに傾ける。

 ミアデとセサーカは嬉しそうだった。アヴィの笑顔が見られて。


 ルゥナとて嬉しくないわけではないが、いったい何がアヴィを楽しませたのかわからない。



「母さんは、首輪をかけられない……から」

「ああ」


 粘液状の魔物だったので、確かに首輪はつけられないだろう。

 それを思い出して笑ったのか。思い出の中で冗談を言い合うような想像もあったのかと。


(幸せな記憶を……)


 もう帰らない日々を思い返して、その優しさが笑顔を零した。


 アヴィの心の暖かな部分が向いているのは今ではない。その過去にだけ。

 現在、未来に向けては、凍り付いたような表情と共に、温度のない瞳だけが向けられる。



「でも、でもさっ」


 ミアデが少し早口になりながら言葉を挟んだ。

 アヴィの瞳を自分に向けるように。


「清廊族にも……ほら、魔物と心を通わせるってお話があったはずですよ。ね、ルゥナ様」


 うろ覚えの記憶から持ち出した話をルゥナに振ってきた。

 何かしらアヴィの関心を持たせて話したかっただけなのだろうが、続かない。


 知らなかったらどうしたつもりなのか、アヴィに興味を抱かせておいて無責任なことを。

 ルゥナが知っていたからよかったものの。



「《壱角(いづの)》の話ですね」

「い……づの?」


 鸚鵡に返すアヴィが可愛い。

 彼女は時に随分と年上のようにも見えるし、振舞い方によっては幼子のような時もある。


「そうです。壱角……額に一つだけ角がある生き物は全てそう呼ばれます」


 ルゥナの言葉を受けて、聞いていた三人が三人ともに自分の額に手を当てて確認していた。

 あるはずがないのだが。



「壱角は稀な生まれだと……いろんな生き物から、稀にそういう特徴のある者が生まれるということです。私も見たことはありませんが」


 あらゆる生き物から、特に規則性もなく生まれる変異種。

 魔物でもそうした特徴を持つことがあるし、清廊族にもそれがかつて存在したのだと。



「噂では、壱角同士はその角の為なのか、言葉を……意識を通じることが可能なのだとか」

「深い谷のヤヤだ! 思い出しました」


 曖昧だった記憶を思い起こしてはしゃぐミアデに頷いて、落ち着くように促す。


「清廊族の御伽噺ですね。深い谷に落ちたヤヤは不思議な角を持つ蛇に助けられたと」




 ヤヤは清廊族の少女だった。

 彼女は清廊族なのに白い髪に黒い目で、村の子供たちからは敬遠されていたという。


 色だけではなく、ヤヤの額には小指くらいの小さな突起があり、時折何か不思議なことを口にしていて、同世代の子からは気味悪く思われても仕方がなかった。



 そんな彼女が、村の近くの深い谷に落ちたことを誰が見ていたのか。

 黒氷の断渓と呼ばれる深い谷に落ちたヤヤ。


 誰もが生存を絶望視していたところに、谷底から一匹の大蛇が現れる。

 黒い大蛇の額には一本の角が。


 その背に乗せられたヤヤが、皆の前でその角と自分の額とを合わせると、大蛇は静かに谷底へと帰っていった。

 大蛇は村に伝わる守り神の言い伝えと同じ姿をしていた。


 ヤヤは、大蛇が桃を好むと皆に伝えて、それ以降村では夏に谷に桃を供えるようになる。

 桃を供えられると、稀に大蛇がそれを食べる姿が見られ、ヤヤの言葉が真実だと皆が知った。


 大蛇とヤヤは心を通わせ、村は長く穏やかな時を過ごした。

 村の者たちも、ヤヤと大蛇を大切にするようになったのだと。




「それが壱角です。他にも逸話はありますが」


 今のは子供向けの御伽噺の一つだ。

 端折った部分で、ヤヤが村の子に意地悪をされていたり、大蛇がいじめっ子を懲らしめたりという話もあるのだが。

 その辺は教訓話なので必要ない。


「他にも壱角を持つ者同士が不可思議な意思疎通をするのだという話があります。魔物同士の場合は知られていませんが、清廊族の壱角と、魔物の壱角が」

「……」

「壱角の特徴がある場合、大抵は元の種族とも姿形の特徴が異なると言われますので」


 突然変異として生まれるからなのか、種族的な特徴とは違った外見になると言われていた。


 額を気にする三者の顔を見る。


 艶やかな長い黒髪に深い赤い瞳のアヴィ。

 短めだがやはり黒髪に、明るい赤色の瞳のミアデ。

 少し茶色かかったうねるような髪に、ぼんやりした朱色の瞳のセサーカ。


 ルゥナも含めて、清廊族の特徴から大きく逸脱していることはない。アヴィやミアデはまさに清廊族の代表例のような外見をしている。



「それに、角がないでしょう」

「そうなんですけど……ははっ」


 額に触れて確認しているセサーカを笑うミアデだが、自分とて同じことをしていただろうに。


 まだ気にしているアヴィは、自分が魔物と心を通わせた過去を考えて、可能性を捨てきれないのか。

 少なくとも、奴隷の呪いによる繋がりなどという話よりは、可能性があるのではないかと。



「母さんにも、角はなかったと思いますよ」

「……そうね」


 たぶんアヴィと母との関係は違う。そういう種類の何かではない。

 自身の中でもそう結論づいたのか、額を擦っていた手を下ろした。


「普通の生き物が持つ角は一対、二本です。壱角はかなり特徴的ということになりますね」

「角のある生き物が壱角になる場合はどうなんです?」

「本来の二本の角はそのままに、真ん中にもう一本の角があるという話ですが」


 そうしたら三本角じゃない、というミアデの呟きは無視する。

 世の中で言われている話というだけのことなのだから、別に何と呼ぼうが構わないだろう。


「確かに、魔物を味方と出来れば心強いですが、そんな期待をしていても解決しません」


 ありもしない戦力を夢見るより、やるべきことはある。

 その為に進んでいるのだから。


「ところで、どこに向かっているんですか?」


 ナザロの村を出てから北東に向かっていた。

 村と村を繋ぐ道からも外れて山間に入っている。


「他の村で解放した者たちがこの先の洞穴に隠れているので」


 この辺りは人間の支配領域になる。

 特別な力のない清廊族がただ彷徨っていたら、また人間に囚われるか殺されるか。

 清廊族の住む北部に逃がしたかったが、とりあえずいったん身を隠してもらっていた。


 山間の洞穴。

 一応、その近くにいた魔物は排除して、洞窟の入り口も出入り出来ないようにアヴィが塞いでいた。

 食料は人間の村から奪ったものがあったので、それでしばらくは凌げる。


「そろそろ食料も乏しくなるでしょうし、いつまでも置いてはおけませんから」


 人間が襲撃に気が付いて対応策を打ってくるのであれば、この辺りが安全とは言えない。

 状況を鑑みて迎えに行くところだった。



  ※   ※   ※ 

 


「北へ……山脈越えですか」


 洞穴に隠れていた清廊族の無事を確認して、次の行動指針を示すと、予想通りだが渋い顔になった。


「時期とすれば無理はないでしょう。道具や衣類、食料もある程度は準備しましたが」


 季節は春だ。とは言っても、山脈を越えていくとなればかなりの低温になる。

 人間ならかなり厳しいだろうが、幸いにして清廊族は生来寒さには強い。


 西に回って山脈を避けて行くとすれば人間の目が避けられない。

 東は断崖だというのなら、北進するしかない。ルゥナの説明に、隠れていた清廊族の三名は納得するしかなかった。

 人間に捕えられるのは二度とごめんだ、というように。



(捕えて慰み者に……とは、ならないかもしれませんが)


 彼らの場合、殺される可能性も高い。

 他の集落で助け出したのは、少し年齢が高い清廊族の男女だった。


 傷を抉るようなことは聞けないが、若い頃に捕らえられたのだとしたら。本来なら最も華やかな年齢を陰惨な境遇で過ごし、年を重ねたので開拓村に安く売られたのかもしれない。

 くたびれた様子から、奴隷であった期間はルゥナよりずっと長かったようだ。



「困難でも、生きる為に山を越えるというなら、やる意味もあります」

「だけど……」


 女性の一人が暗い表情でぼそりと続ける。


「私は南部生まれです。北部に行ったところで、身寄りも誰もいません」


 辿り着いたところで暮らしていけるのかわからない。

 不安な気持ちが大きいという。



「それは私も約束できません」


 取り繕っても意味がないので、素直にそう言った。

 何でもしてあげられるわけではない。


「ですが、生きたいと思うのなら……人間に虐げられ続けるのではなく、自分の意志で生きたいと思う気持ちがあるのなら、進むしかありません」

「……そうだ」


 まだ不安そうな女に、別の男が声と共に肩に手を掛けた。


「あんな毎日を……どれだけの辱めを受けても何も出来ない毎日よりも、苦しくても自分で選べる未来に向かおう」

「……わかった。そうだったわね」


 女も頷き、唇を噛み締めてルゥナに向けて頷く。


「ごめんなさい。若い貴女達に助けられながら、つまらないことを言ってしまったわ」


 未来に向かう。

 暗澹たる日々から、違う明日を選ぶ。先は見えなくても。

 そう決めた意志に頷き返して、ルゥナは山越えの際の注意などを伝えていった。




(未来、ですか)


 話している間にも、彼らの中に希望がほんの少しずつだけれど芽生えていくのがわかった。

 より良い明日を目指す。当たり前の尊厳を取り戻して生きていく。


(アヴィは……)


 彼女の目は、未来を見ていない。

 目的はただ人間を地上から消し去るだけで、自分の明日を見ていない。

 幸せは失われた。もう戻らないのだと。


(私が、貴女の……)


「……」


 言い出さないだけの分別はあるけれど、願わずにはいられなかった。

 あの優しい微笑みを、自分に注いでもらえたら、どれほど――




「牧場……」



 アヴィの小さな声がルゥナを夢想から引き戻す。

 北へ向かった清廊族が残していった情報。

 南に牧場と呼ばれる清廊族の収容施設がある。


 黒涎山近くから流れる川は南の海に出ていく。その途中にレカンの町もあるのだが。

 生き物が集団で暮らすには相応の水源が必要だ。


 川沿いに町があるのは不思議ではないし、町の近くに農場や牧場のようなものがあるのも不思議はない。


 人間が牧場と呼ぶ施設が、清廊族にとってどれほど忌まわしい場所なのか。



「ルゥナ」

「……戦略的にはあまり意味がありませんが」


 牧場にいる奴隷を解放しても、生まれつき人間に支配されている彼らが戦力になるかと言われたらあまり期待が出来ない。

 戦線に近い西部であれば、その解放が全体の士気を高揚させる効果なども考えられるが、敵勢力の真ん中で足手纏いが増えるだけでは……



「……」

「……放っておくのも、気分が悪いですから」

「ルゥナ」


 人間どもの行いを許しておけない。

 知っていて放置するのも嫌だと思う気持ちもあるが。


(戦力の補充は期待出来ませんが、別に行動させればこちらから目を逸らすことは出来るかもしれない)


 ルゥナが目指すのは勝利することだ。

 解放した牧場の奴隷が逃げれば、人間はまずそれを追うだろう。数も多いはず。


 人間目を引き付け、その間にアヴィと共に西部に向かい、清廊族の前線と合流してまともな反抗作戦に出る方が現実的だ。


(すみません、アヴィ)


 アヴィは目先のことしか見えない。

 清廊族を助けたいという意志ではなく、憎むべき人間の存在を知ってそれをどうにかしたいという衝動に動かされてしまう。


 だが、その反面で彼女は情が深いようだ。

 解放された清廊族を囮に使うという考えには、きっとならない。



「牧場を潰して、清廊族を助けましょう」


(作戦は……汚れ仕事なら、私が。たとえ貴女を偽っても)


 清廊族の最終的な勝利と、アヴィとルゥナの使命である人間どもの抹殺とを為すには、どこかで犠牲も必要だ。


 全てを拾っていくことは出来ないのなら、ルゥナがそれを選ぶ。

 きっとアヴィはルゥナの言葉を疑わない。

 諦める。全部は、拾えないと諦める。その道を選ぶのはルゥナの罪過。


「ありがとう、ルゥナ」

「……」


 アヴィの素直な言葉に、後ろめたさから応えることが出来ない。


(……泣きたくなってしまうではないですか)


 涙腺が緩み、視界がぼやける。


 感謝の言葉などもらっていいはずがない。

 貴女の心を謀ろうとする、そんな私に。



  ※   ※   ※



 じゅろろろ、と音を立てる。

 土に染み込むそれは、暗がりでも見えているのだろうか。


 客に会わされた後は、いつもより妙な扱いを受けることが多かった。

 普通の、ただの虐待ではなく、かなり偏執的な扱いを。


「ふは、ふはははっ」


 脂肪の隙間から、汚らしい息が漏れた。


 ほとんど同時に口の中に広がる苦み。

 それから排出されるものも、その存在も、全てがこれほど汚いとなるといっそ統一感すら感じさせる。



 汚い生き物で、汚い心で、汚い言葉を吐く。


 女神とやらはこんなものを好んだのかと考えると、その女神というのもかなり変態的な性的嗜好があったのではないだろうか。

 汚されると興奮する、だとか。



「情けないのぉ、トワ」


 同意だ。

 どれほど嫌悪しても、私はこれに従うしか出来ない。

 他の方法を知らない。


「そのように汚れながら()()()()しまうとは、恥を知らんメスだのぅ」


 膝を突いた私の両側には、同族の少女たちが涙を浮かべて立っている。


「……」


 白い首輪をつけられ、下腹をどうにか隠す程度のチュニックを着て。


 私の頬には、まだ生暖かい、生臭い臭いのする液体が滴っていた。

 濡れた両肩の服は、先ほどまでは熱を感じていたが、今はもう冷えを感じ始めていた。


 私の頬を汚させるために用意された奴隷の少女たち。

 同じ牧場で育った彼女らに恨みはない。


 呪枷を施された彼女らが、主人である肥満男に逆らえないことは知っている。

 白い呪枷は、主人の命令を最優先に、他の人間にも抗えない。


 黒い呪枷はそうではなく、主人の命令しか聞かないのだとか。いつだったかそんな話をしているのを聞いた。



「……ん、く」


 苦い思いを飲み込み、見上げる。

 私を汚すことを楽しむ男に、こんなことは何でもないというように無感情を作って。


 作ってすらいないのかも。最近は痛みすらよくわからない気がしていた。


「お前は良い子だ。わしはわかっているぞ」


 汚らわしい言葉を吐く。


「はい……」


 客人の前に出されることは少ない。


 たまにある。

 私という生き物を他人に見せたいと思う衝動が、何か発作のように起きるらしい。


 客人は、ほとんどは男だが、何度かは女の場合もあった。

 どちらもが、私に向けてこの男と同じように、嗜虐的な視線を首筋あたりに向けてくるのだ。


 触れたい、舐めたい、縊りたいというように。

 その視線が、主人の心を高めるようだ。

 私には迷惑でしかないけれど。


「明日は出かけるぞ。綺麗にしておくようにな」


 自分の命令で私を汚したくせに、そんなことを言い残して去っていった。

 



「トワちゃん……ごめん、なさい」

「許して、トワ……私が洗うから……」


 主人の背中が見えなくなってから、両側にいた少女たちが縋りつくように泣き崩れる。


「大丈夫です。ユウラ、ニーレ」


 わかっているから。

 この牧場で一緒に生まれ育った彼女らが、好き好んで私に排泄物をかけたわけではないことくらい。ユウラに至っては半分は同じ血なのだし。

 主人の命令さえなければ、実際は気の優しい子たちなのだと知っていた。



 ふと、物音のした方向に視線を送ると、木の影から蠢く何者かがあった。


 今までそこにいたことを感じさせない希薄な存在感。

 それでいて、気づけば目が離せないような気持ちの悪さ。


「……」


 呪術師だと知っている。

 今ほど去ったこの屋敷の主、ゼッテスに雇われている呪術師。


 隷属の呪枷を施すにはこうした呪術に精通した者が必要だという。

 数は少なく、雇っているのにもかなりの金銭が必要だという話を聞いているけれど、お金の話は私には関係がない。


 ただ無性に気色の悪い男だと、そう思うだけで。

 時折、主のいない所で、粘っこい視線をトワに向けることがあった。

 枯れ枝のように痩せているが、年齢はゼッテスよりは若いはず。



「ひ、ひゃ」


 今の様子を覗き見していたのだろう。

 気味の悪い声を上げて、地面を摺るように去っていった。



「……」

「ごめ、ね……一緒に、井戸に行こう」


 呪術師の様子に沈黙していた私に、ユウラがしゃくり上げるように言った。

 怒っていると思わせたかもしれない。


「ええ、ユウラ」


 断る必要もないし、どちらにしても彼女らも何かしなければ気持ちが収まらないだろう。

 汚れた顔も口も体も洗いたいし、服も洗わなければならない。


 どれだけ洗っても、あの男に汚濁された私の心のくすみが消えることはないだろうけれど。



(いっそのこと……)


 言葉には出さない。


(私も、首輪をつけられていれば良かった)


 命令だからという理由だけで、他は考えなくても済んだのに。


「……」


 口には出せない。

 それはきっと、共に育った姉妹のような少女たちを、深く傷つけてしまうだろうから。




 月明かりの下で、外れにある井戸まで一緒に歩く。


 月は綺麗だ。

 恥ずかし気も遠慮もなく降り注ぐ太陽の光よりも、静かに申し訳程度に注ぐ月の光の方が好きだ。


 冬の暖かな日差しは嫌いではないけれど、寒い夜の白々とした月明かりというのも格別に美しいと思う。


 真白き清廊。

 牧場にはトワの親の年代の者も多く囚われていた。彼らが細々と伝えてくれる、清廊族の御伽噺を想起させてくれる淡い月光。



「……月の世界に、行きたいね」


 汚らわしい欲望も、荒々しい暴力もないような世界で生きられたら。

 こんな悲しみも苦しみも、味わうこともないだろうに。


「静かに……生きたい、ね」


 姉妹たちの瞳から溢れる涙は止まらなかった。



  ※   ※   ※ 

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