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戦禍の大地に咲く百華  作者: 大洲やっとこ
第三部 沈む沼。溢れる湖
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第86話 戦禍の大地へ



 数は力になる。

 それは事実だ。数が少なくては出来ないことが可能になる。

 だからルゥナも仲間の数が増えることを否定するつもりはない。これからはもっと多くの手が必要になっていく。


 だが、よくないとも思う。

 数が力になる事実とは別に、それを精神的な支えとしてしまうようなことは。



 クジャを発つ際に、同道するクジャの戦士たちが多くいた。

 既に先行して西部へと向かった者も少なくない。

 西部に向かうルゥナ達に、別の地域から合流する清廊族の戦士たちも。

 一行の数は五百に届こうかというほどになっていた。



「これだけの戦士が揃うとはのう」


 メメトハが感心の声を漏らす。ルゥナとて、これまでの少数の旅路を思えば比較にならない戦力だとわかっている。

 足手纏いではない戦士の集団。それらが力を合わせて向かうのだから、十程度だったルゥナ達よりも影響は遥かに大きい。


「皆にも、アヴィの恩寵を?」

「合流の際、景気づけに飲ませた酒にアヴィの血を混ぜていますから」


 誰も彼にもアヴィの唇など与えるつもりはないが、力は必要だ。



「アヴィと共に戦う者には、人間を殺すごとに力を得られると言いました。魔神に選ばれた特異な恩寵だと」

「その辺はおぬしに任せるがの。後で合流した者たちも、実際にアヴィの力を目にして納得しておるようじゃ」


 アヴィだけでなく、それに付き従うルゥナやミアデ達も並々ならぬ力を有している。それを見せつけて偽りの説明を納得させた。

 彼らにアヴィの重要性が認識されれば、いざと言う時に盾にもなるだろう。



 問題は、数だ。

 戦士たちもこれだけの数を揃えての作戦行動など初めての者が多い。ほとんどがそうだろう。

 だから浮かれる。


「魔神の恩寵を受けたこれだけの戦士が揃ったのだ。人間など恐れるに足りん」

「まったくだ。父祖の大地から奴らを一掃してくれよう」


 士気は高い。

 だが彼らはわかっていない。知ってはいるだろうが、実感がない。

 人間の軍はこの十倍以上を揃えて向かってくるのだと。総力戦となれば数の差はさらに大きく広がることになる。


 数を頼みに、それを心の支えにしてしまっていては、それを大きく上回る人間の軍勢を目にした時に支えがなくなってしまう。

 浮かれた気持ちから、浮足立つ。


 あまり悲観的なことを言って士気を落としたくもないが、いざという時に気持ちが怯むようでは――



 ――おおぉぉっ!


 どよめきが視線を集める。

 見れば空高く、新調した大薙刀を掲げるウヤルカの姿が。

 背丈が高く凛とした彼女が、ユキリンに跨り空を駆ける姿は、ルゥナも目を奪われるほどの勇壮さ。共に進む戦士たちの心にも響く。



「よう聞きんさいや!」


 大音声で、集めた視線に向けて喚呼する。


「ウチは東部クンライのウヤルカ。アウロワルリスの大断崖から人間どもをずっと見よおったんじゃ」


 ここに集まっている戦士たちの多くは、クジャ近くの北部中央の出身者だ。アウロワルリスの名は知っていても実際に見たことはない。



「人間どもはウチらよりずっと多い。千や二千ってわけやない、万を十集めてもまだ足りんくらいおる。東部だけでそれじゃけぇ」

「……」

「西部には、まだ多くいるはずなんよ。数えるんもアホらしいくらいじゃ」


 実際にウヤルカも、十万の人間を見たことがあるわけではないだろう。アウロワルリス近くにそこまでの軍勢が来ることもないはず。

 千を超える軍勢だけでも、清廊族の集落で育った者にとっては大勢だと感じるだろうが。



「ウチらが戦うんはそんな連中や。殺しても殺しても湧いて出る羽虫んごとき人間なんよ」


 ウヤルカの声は最初ほどの音量ではない。だが上空から響く声は重く、皆の耳に届いて唇を結ばせた。

 我々が赴くのは楽観できる戦いではなく、百年以上に亘って清廊族を苦しめ続けてきた死地なのだと。


 士気を落としたくないとルゥナが言えずにいたことをウヤルカから聞かされ、静けさの中での足音はそれまでより重く聞こえた。


「じゃがな!」


 一際大きく、ウヤルカが吠えた。


「今のウチらにはアヴィがおるんじゃ!」


 掲げる切っ先は天へ。そちらにはアヴィはもちろんいないけれど。



「アヴィなら人間の百やそこら敵にもならんわ!」

「おお!」

「ウチらもな、皆が十の人間を倒せばそんだけで万の敵を倒せるんよ!」

「おおぉっ!」

「その倍も頑張りゃあ、十万だってやれるんじゃけぇの!」



 湧き上がる声と共に、足取りもより力強く変わっていく。

 計算は怪しい。いや、間違っているような気もするけれど、言いたい気持ちはわかる。それでいい。

 数が少ないことは事実として否めないのだから、勢いも必要だ。


 人間の兵士は数が多くても戦意が高いとは言えない。周りの人間が次々に倒されていけば自壊していくことも多いだろう

 その戦場で全ての人間を滅ぼすことは出来なくても、一つ一つの勝利を積み重ねていければいずれは。



 天空を舞うウヤルカ。

 かなり上空にいたそこに一筋の風のように跳び上がり、軽やかにユキリンの背に乗る者がいた。


「それだけじゃない!」


 拳を掲げて晴れやかな笑顔を見せるのはミアデだった。



「人間を殺せば、それだけあたしたちも強くなるんだ。アヴィ様がいるから!」


 ウヤルカの背に片手をかけ、器用にバランスを取りながら腕を上げるミアデの笑顔は、見ている者を元気づけてくれる。

 ルゥナやアヴィにはない資質だ。ミアデが仲間になってくれたことを本当に幸運だと思う。


「あたしたちは勝つたびに強くなる! この世界から人間を消すんだ!」


 気を引き締めつつ士気を上げる。ルゥナには不向きなことをやってくれる仲間に心中で感謝した。

 豪気なウヤルカと快活なミアデは、アヴィとは違った形で皆の支えとなってくれるようだ。


 かなり高い位置から軽やかに飛び降りてきたミアデが、セサーカと視線を交わして頷く。



「身軽なもんじゃの」

「あれはミアデの天性ですね。何でもないようにやっていますが、私がやったら不格好になるでしょう」


 バランス感覚、重心移動などのセンスがいい。ルゥナでは手を着いていただろうが、ミアデはすたりと地面について何事もないように歩き始めていた。



 ――うおぉ!


 再びどよめきが響いた。先ほどとは少し違う様子の、焦りを含んだ音で。


「なんじゃ?」

鉤手暴駝(くしゅばくだ)……大きい、成獣です!」


 山際から、木々の梢ほどの背の高さもある青黒い影が姿を現した。

 巨大な二足歩行の魔物で、丸太よりまだ太い足だけでもルゥナの背丈よりもかなり高い。



 鉤手暴駝(くしゅばくだ)

 二本の巨大な足の上に乗る体は卵のような形をしていて、尾は短い。

 首はやや長く頭の位置が高い。何より、その両側に備えた手に鋭い三本の鉤爪が目を引く。足ほどではないが手も長く、肘のような関節が二か所あった。


「成獣の……あんな巨体の鉤手暴駝なんて見たことがありません!」

「妾も初めてじゃ!」


 体全体は鱗が長く伸びたようなもので覆われ、その先はギザギザに尖っている。

 下手に触れるだけでも肉や皮を削ぎ落されそうな表面。巨大な質量を支える太い足は、強靭な脚力を発揮して風のように迫ってきた。



「いけない!」

「ルゥナ、私がやる」


 前に出ようとしたルゥナを、それまで黙っていたアヴィが制して前に進み出た。

 千年級までではないが危険な魔物だ。誰でも相手にできるようなものではない。

 昨夏の混乱から生息地が狂いこの近辺にいたのだろうそれが、集団で移動するルゥナたちを見つけて襲い掛かってきた。ということだと考える。


「アヴィ、手伝います」

「どっちも手を出さなくていい!」


 共に前に出ようとしたルゥナを横から追い越していく小柄な背中。エシュメノだった。

 鉤手暴駝の一歩はその名の通り爆発的な脚力で、見かけ以上に速い。だが駆ける速度ならエシュメノも負けてはいない。


「エシュ――」

「平気!」


 大体いつも言うことは聞かない子だ。強がるし、突出しやすい。

 おそらく近付けば小山のように見える魔物に対して、ルゥナが止める暇もなく突っ込んでいった。



「お前! 山に帰れば食べない!」

「GARAAAAA!」

「このぉ!」


 いくらエシュメノでも通じているのかどうか、ともかく一声を掛けてからというのが彼女らしい。


 猛烈な突進と共に、振り抜かれる巨大な鉤爪。

 巨体の重量と突進の破壊力と、その腕の振り。とてもエシュメノが受け止められるような力だとは思えないが。


「だああぁっ!」


 エシュメノの蹴り足が爆発した。

 駆けていた足が、踏み込みの瞬間に大きく大地を抉る。破裂するかのように大地に跡を残して。



「GAAAA!」

「ふんなぁぁぁ!」


 鉤手暴駝の右腕と、エシュメノの右の短槍。捻じれた螺旋を描く深紫の短槍が、エシュメノの腕ほどもある鉤爪の猛撃を打ち返した。


「なんと!」

「馬鹿なっ!」


 驚嘆は戦士たちの口から。

 同じ光景を見ているルゥナも気持ちはわかる。小柄なエシュメノの右一閃が、およそ四倍ほどもある体高の魔物を押し返したのだから。



 振り払った右腕を大きく弾かれ、丸太のような足が大地に数歩たたらを踏む。

 エシュメノの方も、さすがに巨体の突進の威力でいくらか後ろに飛ばされていたが、姿勢は崩れていない。


「KIiiYAAAAAAA!」


 小柄なエシュメノに力負けしたことにプライドが傷ついたのか、高い声を上げて反対の左腕を頭上から振り下ろす。

 風を切るような速さで、エシュメノの頭上に。


「はぁっ!」


 先ほど振り抜いた右の短槍を、今度は頭上から落ちてくる鉤爪を振り払うように薙いだ。


 砕ける。

 決して柔いわけではないだろう鉤手暴駝の左の鉤爪が、エシュメノの深紫の短槍により砕かれ、巨体の左に大きく弾かれた。


 右の腕を右に、左の鉤爪を左に大きく弾かれた魔物。

 その巨体は両腕を大きく開いたかのような姿勢で、小柄なのに強大な力を見せるエシュメノを正面に。



「GUUuu……UUu!」


 身を逸らした状態から、まるで弓から弾かれた矢のように撃ち出された。

 やや平べったい、だが薄く横に伸びた嘴は鉈のように。

 エシュメノの体を上下に分かつ一撃だった。



「それがぁっ!」


 溜めの姿勢は一瞬。

 瞬く間に迫るその嘴の一撃を、下から上空へ打ち上げる左の短槍が迎え撃った。


 清廊族や人間で言えば顎の下から撃ち抜かれるように、嘴ごと鉤手暴駝の頭が上空へと、巨体もろとも宙を舞う。


 嘴も貫き、砕いたエシュメノの黒い短槍。

 宙を舞う巨体と共に、エシュメノ自身もその小柄な体を空中に躍らせ、まさに舞うようにくるりと回転しながら地面に戻ってくる。


 ずぅん、と、大地を響かせて沈む巨体と、ひらりと舞い降りるエシュメノ。その手は高く掲げられたまま。



「ソーシャの勝ち!」


 主張したいのは、手にある短槍で砕けないものなどないということらしい。

 エシュメノと共に在るソーシャこそが最強なのだと、見ている清廊族の戦士たちに掲げて見せた。


「おおおぉっ!」

「最強! ソーシャ殿最強!」

「そうっ! ソーシャが最強!」


 わあぁっと盛り上がる一行だが、歓声を上げている者の中にはエシュメノの名前をソーシャと勘違いしている者もいるはず。

 訂正するのも説明するのも面倒なので、それは別に構わないが。




「エシュメノ!」


 見ていなかった。

 強敵を倒して歓声を受けていたエシュメノは、後ろを見ていなかった。


「っ!」


 間違いなく倒した手応えだっただろう巨大な鉤手暴駝。

 その巨体の陰から別の魔物が襲い掛かることに、視線も外していたし注意も払っていない。耳は歓声に向けられていた。



「雌!」


 背後の左右から、今しがた倒したものよりも遥かに小さい。だがエシュメノの倍近くある同じ種類の魔物が飛びかかってくるのに、振り向いた時にはもう遅い。

 鋭い爪が、おそらくボスの仇になる小柄なエシュメノを引き裂こうと振るわれる。


「ふっ!」

「させません!」


 右上から飛びかかった魔物を、一筋の光のような氷の矢が射抜く。

 左から襲う魔物を赤黒い槍が貫き、貫かれた鉤手暴駝は内側から膨れたかと思った次の時には破裂して散った。


 ニーレの氷弓皎冽(こうれつ)と、ネネランの魔槍紅喰(べにくらい)

 エシュメノの背後に迫った魔物に息を飲み静まり返った戦士たちが、ラッケルタに騎乗して魔物を破ったネネランの姿に、再び湧き立つ。


「ルゥナ様、まだ来ます!」

「それぞれ左右を固めて、全員で対処して下さい!」


 おそらく成獣の鉤手暴駝に率いられていただろう群れが山から溢れてくるのを、士気の上がる全員で対処するのはさほど問題ではなかった。



  ※   ※   ※ 



 それなりの数の魔物がいて、片付け終わる頃には日が傾き始めていた。

 倒した魔物も食料に出来るので、そのまま野営にする。


 ラッケルタと共に戦うネネランはウヤルカと並んで目立ち、その活躍を称えられて恥ずかしそうに俯く。

 自分の活躍が霞んでしまったと、エシュメノがやや膨れているのが可笑しい。

 一番の大物を仕留めたのはエシュメノだということは皆がわかっているのだが。


 ボスの魔石以外はラッケルタとユキリンが噛み砕いて飲み込んでいる。

 持ち運んでいては荷物が増えてしまう。それならそのまま力と出来る二体の糧とする方がいい。


 ボスの魔石は、何かの役に立つかもしれない。

 サジュについてからでも、武具などに活用できないか検討するよう保留とした。




 湖のほとりの町、サジュ。

 北西部にある清廊族の町。ルゥナの生まれ育った集落はそれよりもう少し南にあった。

 ずっと昔に行ったことがある。物資の運送に幼いながらに手伝いとして。

 クジャほどではないが大きな町だった。清廊族の守りの要。


 ルゥナの住んでいた村や他にもいくらかある集落は、サジュの南西に広がる湿地帯に。場所によっては底なし沼のような場所も。


 サジュの南東、ニアミカルムと湿地帯との間には、魔境溜腑峠(りゅうふとう)が。

 遥か昔、魔神の臓腑が落ちたと言われる場所で、大地から突き立つような岩山と、窪みに広がる沼。


 両手に鋏を持つ甲殻類の魔物が多く生息する魔境。足場の悪さと沼に潜む魔物という組み合わせで、何者も立ち入ることを許さない。

 空を飛ぶ魔物でも、粘ついた泥玉が猛烈な勢いで沼から放たれ、それらを撃つのだとか。


 清廊族でも立ち入れない魔境であり、もちろん人間の侵入も許さない。

 サジュへの侵攻を阻む要衝としてのそれは、別に魔物が意図しているわけではないだろうが、清廊族の助けとなってきた。


 湿地の方は人間でも入れるが、やはり足場が良いわけではない。土地勘のある清廊族が有利な地形。

 サジュまで行きオルガーラとティアッテ、そして彼女らと共に守り戦い続けてきた清廊族の精鋭と合流すれば、本格的な反攻作戦が現実となる。




「もう少しで……アヴィ?」


 目的への道筋が次第にはっきりしてきたと話しかけようとして、ふとアヴィの視線がどこか泳いでいることに気が付いた。

 野営の中、狩った魔物を焼いている仲間たちの方へ。


「……ネネランですか?」

「食べたことがある」


 ネネランのことを、性的にだろうか。

 唐突な言葉に理解が追い付かず、妙な方向へ飛んでしまった。

 なんだろう。ルゥナは自分がもしかしたら欲求不満なのかもしれないと恥じる。



「……言ったかしら。食べたことがあるの」

「ラッケルタのことですね」


 初めて見た時にそんなことを言っていた。


「美味しかったのだとか」

「母さんと食べたの」


 ああ、なるほど。

 魔物の肉を焼く火の揺らめく影がラッケルタの姿を照らしている。

 遠くを泳ぐように見えたアヴィの視線は、記憶を懐かしんでいたのか。



「……もうすぐ、母さんの望みを叶えられますから」


 この大地から人間を消す。

 世界から、人間を滅ぼす。

 伝説の魔物だった母さんが残した望みで、アヴィとルゥナの誓い。


「私の、望みだわ」

「アヴィと私の誓いです」

「……」


 瞳にラッケルタの姿を映したまま、アヴィは何も言わない。

 何を思うのか、ルゥナには推し量ることは出来ないけれど。



「……美味しかったの」

「駄目ですよ」


 何を思っていたのか、紡がれた言葉は思い出とともに喚起された食欲。


「ネネランが泣きます」

「尻尾、なら」


 なぜそれなら許されると思うのだろうか。生えてくるわけでもないだろうに。



「駄目です。ほら、鉤手暴駝の肉も美味しいですよ」

「……胸肉じゃなくてもも肉がいい」


 珍しく注文を付けられた。食べるものに。

 きょとんとすると、アヴィは少し口を尖らせて横を向く。

 まるで子供のよう。


「母さんは、私が食べやすいところをくれた」


 本当に子供のような理由だった。母さんは魔物なのに、そんな気遣いまでしていたのか。



「そう、ですか? 私はこれ、胸の肉も好きですけど」


 何というか、脂っぽさが違う。


「そっちはルゥナが食べていい」


 都合のいい言い方をするものだ。まあ好みが違うのも取り合いにならなくていいのかもしれない。



 昔のことを思い出して子供っぽくなるアヴィも可愛い。苦笑しながら、もも肉の焼いたものを用意する為に少し離れた。

 こんな我侭は初めて聞いた気がする。


 母さんはきっとアヴィを甘やかしていたのだろう。だとしたらルゥナも、出来るだけアヴィを甘やかせてあげたい。

 人間との戦いが終われば、もっと――



「……」


 人間との戦いが終われば、その先は。

 もう、こんな会話も出来ないのかもしれない。

 アヴィと共に進むことに迷いも後悔もないけれど、もし悔いることがあるのだとすればひとつ。


 笑顔を、取り戻してあげられないこと。



 アヴィの幸せは母さんと共に失われてしまった。

 時折、気まぐれのように浮かべる笑みもあるけれど。

 肌身離さない黒いマフラーに唇を押し当てながら。

 耳に揺れる耳飾りに触れながら。

 見られていることに気が付くとすぐに消えてしまう微笑み。


 もっと。もっとたくさん。いつも、いつまでも。

 そんな笑顔をアヴィに与えられないことが、ルゥナにとってひどく辛いひとつ。



「……」


 考えていても仕方がない。思い悩むよりも、とにかく目の前に迫ってきた人間との本格的な戦いに目を向けなければ。

 アヴィの希望するもも肉の、美味しそうに焼けたものを手にしてルゥナが立ち上がった。その時だった。



 ――っ


 遠くから、何か呼ぶ声が聞こえた。

 いや、さほど遠くはない。夕陽も落ちかけて薄暗くなってきた西の空。

 揺らめく影があった。



 気が付いた者がそれぞれそちらに目をやり、西から近付く影を指差す。


「……誰か、来ます?」


 薄暗いことと逆光になっていることで見えにくかったが、清廊族の女性だった。

 気持ちばかりが焦るのか、体は前に、けれど足は気持ちについていけずに引き摺るように地面を這って。



「どうした? おぬし、クジャの者か?」


 駆け寄って訊ねたのはメメトハだった。見覚えがあったのだろう。

 倒れそうな女に肩を貸して、ただならぬ様子に何事かと問い掛ける。


「め、メメトハ様……う、うぅ」


 相手もメメトハだと気が付いて安心したのか、唇を震わせて嗚咽した。



「何が」

「サジュが……」


 そこで言葉が途切れ、一度首を振る。

 信じられない事実を自分でも信じたくないと。けれど伝えなければならないと、もう一度上げた顔には涙が溢れ。



「サジュが、落ちました……っ!」



  ※   ※   ※ 


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