第69話 黒爪の執事
温もりが届く。
それは何でもないことで、当たり前のようで。
だから、温かさを失いかけていた心には、素直に染み込んだ。
童謡だ。
農作業でもしながら口ずさむような。
赤子をあやしながら歌い聞かせるような。
清廊族なら誰もが知っているような、そんな歌声。
平静を取り戻す。
失いかけた心に、当たり前の日々を思い出させる。
当たり前で、大切で、守らなければならないものを。
「あの娘は……」
「私たちの仲間です」
呆けたのは寸刻のことだ。
キフータスは、その隙になぜ攻勢に出なかったのか。
その答えは見えた。
(効いている)
歌声のことではない。
鼻血が出ていた。
僅かにだが、大地を踏みしめる足が浮いているように重心が揺らいだ。
元が真っ直ぐな姿勢だった為に、その僅かばかりの揺らぎがわかった。
冷静に見れば、わかる。
この冷静さを取り戻してくれたのは、間違いなくユウラの歌声だ。
(ユウラの歌はみんなを元気にしてくれる、でしたか)
出会った頃にトワがそう言っていた気がする。
劇的なものではない。
それが良かった。感情を大きく上下させるよりも、冷静さが大切だ。
「あれも無敵ではありません。ダメージがあります」
「ええ、そうです」
パニケヤが頷き、構え直した。
「おそらく貴女の魔法です。聞いたことがない詠唱でしたが」
星振の響叉。
アヴィから教わった魔法だった。
伝説の魔物、濁塑滔から伝わったものなのかもしれない。
折れかけていた清廊族の戦士たちも、武器を持つ手に力が戻っている。
今のユウラの歌声のお陰だ。
「他の魔物をお願いします! あの人間は私たちが」
まだ戦える。
ユウラの歌は特別なものではなかったが、戦士たちの心に特別な力を与えてくれた。
「まだ身の程を知らぬとは、嘆かわしい」
「お前の口上など聞くに値しません!」
「ルゥナのゆう通りじゃけぇ」
ウヤルカの薙ぎ払いは、先ほどよりも速かった。
「この程度では!」
ウヤルカごと強烈に打ち返すキフータス。重い薙刀の勢いでわずかに態勢が傾く。
その横から、先ほど蹴り飛ばされたエシュメノが迫った。
「このっ!」
突撃したエシュメノの両手から放たれる突きは、同時に数十の軌跡を見せるほどの鋭さ。
「むぅ!」
キフータスの剣がそれを払うが、払われる度に次々に繰り出される。
吹き付ける雨のように止まない。
「小うるさい娘が!」
両方の槍を払った、次の瞬間にエシュメノを切り捨てようと。
「っ!」
頭上に構えた剣を、防御に使った。
エシュメノに意識を割いた瞬間に踏み込んだパニケヤに対して。
「老骨が!」
全力で斬りかかったパニケヤの剣を受け止め、その姿勢が崩れた。
崩れ、押し込まれるように――?
「死に急ぐがいい」
キフータスの上半身が後ろに倒れながら、その足が蹴り上げられた。
黒い、鋭い爪を持つ足が。
「くあっ」
鮮血と共に、パニケヤの老体が宙に舞った。
「おまええぇっ!」
怒りに我を忘れるエシュメノ。
目の前の敵を貫こうと、全力で突いた。
キフータスの態勢は、体を後ろに反らして高く足を上げた姿勢。
普通なら、その状態からまともな動きなど出来ない。
野生の猛禽のような力がなければ。
高く上げられた黒爪を持つ足。
パニケヤの血を残すその鋭い爪が、エシュメノの頭上から振り下ろされた。
「っ!」
「エシュメノ!」
左肩に、三本の爪が深々と突き刺さる。
同時に、エシュメノの右手の螺旋に捻じれた紫の短槍が、キフータスの腕に刺さっているが。
「く、うぅっ」
「小娘が……っ!」
「極光の斑列より、鳴れ星振の――」
ルゥナが唱え終えるより先に、キフータスの体が消えた。
エシュメノの左肩を捉えた右足ではなく、左足一本で飛ぶ。
「うあぁっ!」
悲鳴は、肩を掴まれたまま引き摺られたエシュメノだ。
「なにすんじゃおんどれは!」
ウヤルカもまた、我が身を顧みずに切りかかった。
「貴様などの腕では!」
血の臭いのせいか、キフータスが悦びに満ちた嗤いを浮かべながらウヤルカを見た。
薙刀が、ウヤルカの手から離れ空に舞いあげられる。
「終わりです」
ウヤルカの命を絶つ一閃。
そのわずかな油断だったのだろう。
キフータスの顔を、白い筋が弾いた。
ぺしりと、まるで威力はない。
それでも不意に目を打たれれば、いくら化け物でも思わず瞼を閉じる。
真上から滑空したユキリンが、その尾の先でキフータスの顔を打った。
「ちぃっ、つまらぬ魔物ごときが!」
頭上を睨み、邪魔をしたユキリンに殺意を向けるキフータス。
だがそれでも、魔法を放とうとしているルゥナへの警戒は忘れていない。
忘れていたのは、既に片付けた老体のことだ。
その老体は、ただの戦士ではない。
清廊族を守る最も古き戦士。
「ぐあぁぁっ!」
腹を縦に裂かれていても、命さえあればその責務は果たす。
それが大長老パニケヤの覚悟だった。
「老いぼれがぁ!」
足首から、エシュメノを掴んでいた足を断ち切った。
バランスを崩しながら怨嗟の声を上げるキフータスと、エシュメノを庇うように倒れ込むパニケヤ。
今なら、魔法が――
(当たらない!)
撃っては駄目だと直感した。
片足を失ってなお、魔物の特性なのか、片足と両腕でバランスを取り戻すキフータス。
ここまでやってもまだ、一手足りない。
ウヤルカは薙刀を飛ばされた勢いで背中から地面に倒れている。
ユキリンは、先ほどの一撃当てるのが精一杯で空高く逃れていた。
「私が……」
ルゥナが、何としてでも今この人間を仕留めなければ。
回復速度が異常なキフータスは、きっとこの状況からでもまた復活して襲ってくる。
今が最大の好機なのに。
「ここまでだ、影陋族!」
「いいえ」
はっきりと、否定の声。
「終わるのはお前です、人間」
ぐさりと。
一本の足で大地を踏みしめるキフータスの腿に、深々と刺された。
包丁が。
「避けなさい、トワ!」
「はいっ!」
言いながら、両手で持った包丁を横に抜いて筋を断ち切って。
「トワ、お前は――」
キフータスの左足が膝から力を失った。
足首までしかない右足を大地に着くが、その膝も大地に落ちる。
トワが、近くで倒れるエシュメノとパニケヤの襟を掴んで離れた。
「極光の斑列より――」
絶対に、この一撃でこの敵を殺す。
「鳴り渡れ双対なる星振の響叉」
咄嗟に紡いだ詠唱。
「は……」
キフータスの体が跳ねた。跳ね、跳ねた、
激甚な振動が、異なる律動で、一体の魔物を掻き混ぜる。
踊り狂うように跳ねまわるキフータスの体を、ルゥナは見ることが出来なかった。
意識が、視界が暗くなる。
強烈な倦怠感と共に吐き気を催し、魔術杖を大地に突きながら崩れた。
立っていられない。
「ルゥナ様!?」
「う、ぁ……」
呼びかけてくるのがトワだとはわかったが、返事が出来ない。
とにかく、あのキフータスに止めを……
※ ※ ※
ニーレ達が駆け付けた時には、敵の姿はもうほとんどなかった。
生きている敵の姿は。
魔物どもは怯えるように散っていき、まだ残っていた魔物は清廊族の戦士たちが仕留めている。
ウヤルカがルゥナを抱きかかえて、トワはエシュメノと大長老を治癒していた。
ルゥナの顔色は真っ青だ。
怪我はない。
最後に使った魔法は、おそらくルゥナでも使いきれないものだったのだろう。
連戦の疲れもあったはず。
「……トワ、大丈夫?」
「ん……私は問題ないです」
エシュメノの肩から顔を上げると、その顔には赤い血の跡が。
舐めて癒す以上、そうなるのは仕方がない。
ただ、妙な色気を感じさせる。
「大長老はかなり深手です。先に治癒しましたけど」
「婆ちゃん、エシュメノを助けてくれた」
だから先に治癒してくれと、エシュメノがトワに言ったらしい。
「ルゥナは力を使いすぎただけやね。休ませてやらんと」
そう言うウヤルカも、疲労困憊に見えた。
あれだけの敵と戦ったのだから当然だが。
そんなウヤルカだが、ユウラの顔を見ると静かに笑った。
「あの歌なぁ、あれがなけりゃあ危なかったじゃろう」
「あ、あはは、そうかな?」
「あんがとなぁ、ユウラ」
えへへ、と照れるユウラに、皆の表情も和らぐ。
ユウラの歌が勇気をくれた。だからこうして生きている。
「本当に、ユウラのお陰です。ね、ニーレ」
「ああ、そうだね」
「エシュメノ様! 御無事ですか?」
ラッケルタに乗ったネネランが駆けてくる。
湧いてくる魔物と戦いながらこの場を離れていた。
トワに治癒されているエシュメノを見て、心配して慌てて来た様子だった。
「……エシュメノは平気」
「違いますよ、エシュメノ」
トワが責めるように言う。
とんとんと、エシュメノの額当てを軽く指で叩いて。
「爪の跡が頭も掠めてました。これがなければ、命を落としていたかもしれません」
「う、う……」
アウロワルリスの洞窟で戦った顎喪巨蟲。その強固な体表から作った額当て。
こめかみに薄っすら残る傷痕に、トワの唇が当てられる。
「間違えば死んでいました」
「……」
「エシュメノ様、良かった……」
ネネランの安堵の吐息に、エシュメノは体裁が悪そうに視線を泳がせた。
「大長老とルゥナ様を中に。後の魔物は……他に任せよう」
これで戦いが終わりという確証はない。
まだ危険があるかもしれないと、ニーレは皆を促した。
「私はまだ余裕があるから、このままここを守る」
「ニーレちゃんがいるなら私も」
城壁から援護をしていたニーレ達にはまだ体力に余裕がある。
他の清廊族の戦士と共に、まだ出てくるかもしれない敵に備える役目を請け負う。
ルゥナと大長老を連れて町に戻っていく仲間たちの背中。
まだ町の中にも敵はいるだろうか。
中ではアヴィが戦っているようだから、入り込んだ魔物の数から考えればそう滅多なことはあるまいが。
大地に、砂とも塵ともつかない塊があった。
人間の魔物……途中でニーレも気が付いたが、あれはゼッテスの客だったキフータスという男だ。
どういう経緯かわからないがここまで追ってきて、ここで討たれた。
そのキフータスの死体が、砂のように崩れている。
「……」
ソーシャもそうだった。
砂塵となって、風に消えていった。
千年を生きる魔物というのはそういうものなのだろうか。
「……魔物の力、か」
尋常ではない方法でそれを手にして、そして朽ちる。
死体を残すこともなく、血の一滴もなく。
砂の中に、何かがある。
片刃の剣は、この男が使っていたものだろう。
それとは別に、崩れた砂から覗いているもの。
「赤い?」
「ニーレちゃん、これなんだろ?」
割れた魔石のような……環になっていたものが砕けたようだ。
「……後で誰かに見てもらおう」
これが魔物の力の正体なのかもしれない。
黒爪鷲のような足をしていた。
鋭く尖った爪。
翼まではなかったが、その体は実際に猛禽に近い動きをしていたように思う。
人間の形を保っていたけれど、魔物の力を使う敵。
足が魔物の形をしたのなら、翼を有することも有り得たのかもしれない。
どこまでが人間で、どこまでが魔物なのか。
体だけではなく心も。
理性を失えば、全てが魔物のようになっていたのかもしれない。
その場合は、どれほどの脅威となったのか。
「……」
ふと、不安になった。
城壁を越えていった中に、見たことがないような魔物がいなかっただろうか。
それはもしかしたら、この男以上の……
※ ※ ※