第67話 ロドの不運
町が騒がしい。
メメトハの耳にも届いていたが、体は反応しなかった。
レニャが死んだ。
幼い頃からメメトハの従者として、時に姉のように共に暮らしていたレニャが死んだ。
リィラは泣くだけ泣いて飛び出していった。
あいつらのせいだ、と。
動けなかった。
メメトハは動けなかった。
リィラの泣き声が責めているのは、どうしても。
(……妾のせいじゃ)
そうとしか聞こえなかったから。
クジャを魔物の群れが襲うなど、過去になかった。
三日三晩続けて襲い来る魔物ども。
真なる清廊の異変と無関係であるはずがない。
動揺したが、メメトハがそれを表に出すことは許されない。
クジャを守る氷乙女として、誰よりも勇敢に戦わなければならない。
動揺を悟られたくなくて、あの連中と距離を置いた。
自分の力ならこの程度の魔物に遅れを取ることはない。
そう思っていたが、数が多すぎた。
余裕がなくなり、付き従う他の仲間のことまで考えられなくなった。
気が付いたら孤立していて、メメトハを守る為にリィラとレニャが負傷した。
助けられた。
嫌っていた、見下していた余所者に。
連中はこの苦境にも冷静で、粘り強く戦える経験があった。
彼女らは短期間で厳しい状況に晒され続けたということで、肉体的な成長だけでなく感覚が危機に研ぎ澄まされている。
慣れた環境で、安全を確保しながら戦ってきたメメトハたちとは違った強さ。
それがこの異常事態に対して発揮されていた。
礼は言わぬ。
礼など言えぬ。
リィラとレニャを紡紗廟まで送り届けた時、連中のリーダーがいた。
丸一日は戦っていたのだから、水や食事の為に下がることもある。
怪我を治癒しようかと言われた時、メメトハは迷った。
レニャは無理をしている。
恥を忍んで連中に頼む……命じてもいいかと、そういう考えも過ぎる。
リィラが、怪我のせいもあっただろうが、感情的に突き放してしまった。
それが妙手ではないことはわかっていても、今さら彼女らに頼るのも不愉快。
不愉快。
だから、なんだと。
つまらぬ意地を張って、見栄を張って。
リィラとレニャに休息するように言って、メメトハはまた戦いに出た。
次に戻ってきた時には、レニャの容態は手の施しようがなく。
――リィラ、メメトハ様を……お願い。
最期に意識があった時の言葉は、やはりそれはメメトハの姉のようで。
大切な家族を、つまらない虚栄心の為に失った。
「全て、妾のせいじゃ……」
本当ならメメトハも、ルゥナたちのせいだと言いたかった。
押し付けたかった。
けれど、わかってしまう。
隣でリィラが彼女らへの恨み言を漏らすたびに、違うと。
その恨み言は、メメトハが聞かなければならないことだと、耳元で聞かされるそれがメメトハを責めた。
リィラが飛び出していってからしばらくして、外から地響きと共に悲鳴が聞こえてくる。
町の中まで魔物が侵入してきたのか。
メメトハがいなくて、戦力が足りないのかもしれない。
「妾が、いなくとも……」
見ていてわかった。
あのアヴィには、メメトハと同等の力がある。
どうもそれだけではない。アヴィには何か力を抑え込まれているような気配も感じた。
病、かもしれない。。
一緒にいる処女もまた相当な強さだ。絆も強い。
彼女らはお互いを助け合い実力以上に力を発揮できる。
よほどの魔物でも現れなければ、彼女らが対処できないことはないだろう。
よほどの魔物。
異常な魔物。
地響きと悲鳴が、町の中に。
「……」
いるのかもしれない。
そんなものがクジャの町の中に。
「……リィラ」
口に出してみて、目が覚めた。
アヴィ達一行は大丈夫かもしれない。
彼女らはお互いを助け合って戦える。
「リィラ!」
メメトハには、まだ守らねばならないものがあった。
レニャと共にメメトハを見守ってきてくれた家族が。
リィラは……リィラが共に戦えるのは、今はメメトハだけしかいない。
だというのに。
「妾は!」
まだ間に合う。
聞こえた悲鳴は、誰の悲鳴だったか。
それとて本当はメメトハが守らなければならないものだったのに。
メメトハが守ってくれると、そう信じていたクジャの住民だったろうに。
愛用の魔術杖を引っ掴んで駆け出す。
レニャは、リィラにメメトハを頼むと言っていた。
情けない。
メメトハに、クジャを、リィラを頼みはしなかったのだ。
「レニャ、済まぬ」
頼りない、情けないメメトハだった。
頼めるわけがない。託せるはずがない。
このような愚か者に何を任せられるのか。
今更かもしれない。
失ってから気付くなど、遅い。
しかし、今動かなければ、レニャが守りたかったものも全て失われてしまう。
聞こえてくる誰かの悲鳴。それはメメトハに助けを求める声。
他の誰でもない。誰よりもメメトハがそれに応えなければならなかったのに。
あちこちで聞こえる悲鳴と衝撃の音。
紡紗廟は町の南寄りに建っているので、山脈側に近い。
町に入り込んでいる大きな魔物がすぐに目に入った。
「天嶮より下れ、零銀なる垂氷」
鋭く尖った氷の杭が、住民を襲おうとしていた兎千噛と呼ばれる魔物を貫く。
跳ねながらギザギザの歯で獲物に噛みつき食い千切る。
体毛が白く、吹雪の中では見えにくい魔物。
「メメトハ様! ありがとうございます」
「構わぬ。リィラを見たか?」
礼を聞いている暇はない。
リィラもどこかで戦っているはず。
「巨大な魔物を追ってあちらに」
「そうか、わか――」
どがぁぁっと、天が割れるような音と共に建物の屋根が吹き飛んだ。
砕けた建物の破片が辺りに撒き散らされる中、空を跳ねる魔物の巨体と、それを追って跳ぶ女の姿。
美しい。
戦い続けて、返り血や泥で汚れていても、迷わず戦う姿は美しく思う。
汚れたと、そのように蔑んでおきながら、見惚れた。
「あの女に武器を、なんでもいい! 妾もあの魔物を止める!」
アヴィは素手だった。
身一つで巨大な魔物に挑むのを見て、何か武器を用意しろと指示して自分も走り出す。
クジャを守る戦士。
メメトハは見惚れている場合ではない。
自分こそが、そうあるべきだと思い出して、駆けた。
※ ※ ※
ロドが望んだのは、贅沢な暮らしではない。
口下手なロドは、出来るだけ静かに平穏に過ごしたかっただけ。
町から離れた牧場で、影陋族に近寄らぬよう見張る仕事は、ロドにとって性に合っている仕事だったはずなのに。
不運だった。
牧場が襲撃されたところを生き延びたのは、不運だった。
呪術師の命令で町まで人を呼びに行き、戻ったところで呼ばれた。
――ぬしに、やろう……これ、を。
赤い色をした腕輪のようだった。
大したことをしたつもりはなかったが、屋敷が半壊するような大変な事態だ。
褒美をもらったと思い、腕に嵌めてみた。
ロドの心はぐじゃぐじゃになった。
赤い腕輪がロドの頭の中にわけのわからない感情を捩じり込み、体もぐじゃぐじゃになっていた。
――つりあわ、ぬ……か。なれ、ど……ちからには、なる。
呪術師はロドを観察しながら、まるで評点でもつけるように独り言ちる。
ロドはそれを地べたでのたうち回りながら聞いていた。
ようやく意識がはっきりしてきたら、主人の客人と共に山に行けと言われた。
ロドの中に根付いたロドではない意識が、逆らってはいけないと告げる。
何者かの本能が、ロドの行動を決める。
山を越える間、魔物に襲われた。
逃げたいロドと、食らいたい本能とが争いながら、だがこの体は思うよりずっと強靭に出来ていた。
山を越える。
越えて、何かを破った。
途端に、ロドと、主人の客人とに追いやられていた山の魔物たちが、雪崩のように動き出す。
山の魔物たちは、ロドと、ロドが逆らってはいけないと感じた同行者にひどく怯えを見せた。
狂乱して襲い来るものもいたが、多くは逃れようと山の反対側に行こうとしていたが。
そこには何か、やはり本能的に進むのを拒むような力の存在があった。
行きにくい理由が破られた途端、決壊する。
流れる魔物の群れが、辺りにいる魔物もまとめて数を増やしていった。
山にいた魔物たちが進むのは、山から下っていく道。
道ではなく、ただ谷のような地形がその方向に導いただけなのか。
その先には町が見える。
町に行けば、人間がいるかもしれない。
ロドを助けてくれる人間がいるかもしれない。
狂乱する魔物たちと共に町を目指した。
町について、人間を見つけた。
人間ではなく影陋族だったが、混濁するロドの意識では見分けがつかない。
それを、食らう。
食らう?
ロドの意識とは別の何かの本能が、躊躇することなくそれを食う。
味は、わからない。
だがどうだろうか、やけに頭がすっきりする。
魔物を食い続けていたせいか、頭がずっと魔物寄りになっていたように思う。
だとすれば、この人間を食えば、ロドは人間に戻れるのではないか。
そんな考えが浮かんだ時、叩き伏せられた。
猛烈な力で地面に叩きつけられ、ロドは逃げだす。
怖い奴がいる。
恐ろしい。
ロドは静かに暮らしたいだけなのに、また邪魔するやつが現れた。
ぷちっと、潰す。
走りながら、見かけた人間を壁に圧し潰すと、ぷちりという感触があった。
追いかけてくる恐ろしい者から逃げながら、見かけた人間をそんな風に磨り潰して。
逃げるのは得意だ。
幼い頃、年の近い者たちと共に球遊びをすることがあった。
蔦を丸めて球をつくり、ぶつけ合う。球当ての遊び。
ロドは、ぶつけるのは下手だったが、避けるのだけは得意だった。
ふと本能が命じた。
追ってくる女の拳は痛いが、ロドの体に深刻な損傷を与えるには足りない。
その拳を受けると同時に、女を壁に叩きつけた。
ぷちりと、音はしなかった。
この女は強い。力も強いが、それ相応に体も強靭に出来ているらしい。
逃げようとしたロドの手を、女が掴んだ。
「母さんなら!」
母さん?
訝しく思った次の瞬間、激痛が走った。
鋭い爪を有する三本の指。
その一本を折られた。
「ぎやぁぁぁぁっ!」
反対の爪を振るうが女には当たらない。だが離れた。
「母ちゃん! かあちゃぁん!」
泣きながら跳ぶ。
途中、建物の庇にぶつかり屋根を吹き飛ばした。
指の節を折られた。
打撃は耐えられても、掴まれたら不味い。
あの女から逃げようと、もう一度大きく跳ねた。
「極冠の叢雲より、降れ玄翁の冽塊」
球を避けるのは得意だった。
はずだが、空中ではどうにもならない。
鉄の塊のような氷の球が、空に浮かぶロドの巨体を容赦なく打ち据えた。
「ぶげぇっぼ、ぶっ」
全身を打つ重い氷の球に涎と反吐を吐きながら落ちる。
屋根を突き破り建物の中に。
踏みしめた指が痛い。
折れた指……だったはずだが、もう動く。
動くけれど、まだくっついていない骨が、衝撃でひどく痛んだ。
邪魔をするやつらばかり。
ロドは静かに暮らしたいだけなのに。
建物は、どこにでもありそうな家だった。
屋根をぶち抜いて落ちて来たロドの目に、部屋の隅で怯える幼い少年が映る。
幼い少年。
ロドにもこんな頃があった。
魔物を食えば、魔物に寄る。
これを食ったらどうなのだろう。
ロドも、少年時代に帰れるのではないだろうか。
「お、おらぁ……」
ロドの意識と、ロドの中の別の本能とが重なり、涎を溢れさせながら黒い爪を少年に突き立てた。
※ ※ ※