第61話 意地悪と意地張り
氷乙女。
清廊族の中に稀に産まれる、戦いに長けた者。
希望であり、象徴。
自分もそれだと、恥ずかしげもなく。
「ならば……」
メメトハを怒らせない方が得策。
そう思っていたはずのルゥナの考えが、一言で消えた。
心が制御を離れてしまう。
「なぜ、こんな所に……なぜ戦わないのですか」
非難の言葉が漏れる。
「西部では、たくさんの清廊族が戦っているのに……」
怒りが溢れる。
「南部では、多くの仲間が苦しめられているのに、どうして!」
我慢できなかった。
拳を震わせて詰め寄ろうとするルゥナを、今度はミアデが抑える。
「無礼者!」
「メメトハ様になんと」
従者の少女二人が間に立ち、ルゥナを叱責した。
「これだから田舎者は困る」
「西部には十分な戦力を出している。このクジャを守ることも清廊族全体を見てのことです」
「貴女達が何を守っていると……」
「ルゥナ、やめぇ」
ウヤルカの言葉は、静かだったが、ルゥナの口を閉ざすくらいの重さがあった。
「クンライやヤフタも同じやね。そこで暮らすのも楽なわけじゃないけぇ」
「それは……わかります、けど」
ここまでに見てきた清廊族の集落と同じく、クジャに暮らす人々にも脅威がないわけではない。
やることがない、などと断じられるほどにルゥナもクジャのことを知らない。
「それでも、私は……」
認めたくない。
戦う力があるのに、こんな場所で、こんな恵まれた暮らしをしていて。
西部では、ほとんど靴を脱がない。
いつ敵が襲って来るかと考えれば、いつでも駆けられるよう備えるのが当たり前だから。
奴隷として暮らす清廊族は、靴を与えられないことも多い。
外敵から守ってくれる壁の中で、肌触りの良い絨毯の上で暮らすことなど、知らない。
こんな贅沢を。
(……羨ましいだなんて、思いたくない)
悔しい。
悔しくて妬ましくて、でもやはりそれは羨ましいという気持ちで。
「ルゥナ、大丈夫」
口を開いたら恨み言になりそうで、沈黙するルゥナの背中にアヴィが手を添えた。
時折、本当に時折だけれど、アヴィはやけに大人びた雰囲気を見せる。
「西部で戦っている清廊族はわかっている、でしょう?」
そうだ。
ルゥナの気持ちは、このクジャで暮らすメメトハ達にはわからないかもしれないが、西部の仲間はわかっている。
アヴィは、わかってくれている。
「……わからない者には、わからないわ」
淡々としたアヴィの言葉に、再び従者たちの目が吊り上がった。
馬鹿と話していても仕方がない、という態度に。
「無礼な」
「人間などに玩具にされた者が大口を――っ!」
ぞくり、と。
隣にいたルゥナは、真夏だというのに背筋が凍るほどの寒気を覚えた。
「な……」
罵声の途中で凍り付いた従者の少女は、その口を閉ざすことが出来ない。
アヴィの瞳と全身から発せられた冷気は、室内の温度を一瞬で氷点下にしてしまう。
(魔術杖もなしに……)
いくら氷雪系の魔法は得意な系統だとはいえ、まともな詠唱も魔術杖もなしでこんな真似は普通ではない。
そして、これは敵対行為だ。
今の一言にそこまでの怒りを覚えて?
「私たちの過去を侮辱するのなら、お前たちも人間と同じ。私の敵よ」
人間の奴隷として、陰惨な辱めを受け続けてきた。
その過去は消えない。
「殺す」
「ひ……っ」
汚辱に塗れた思い出したくもない過去。
ようやく取り戻した尊厳を踏み躙るような言葉。
それを吐くのなら、同族だとしても敵だと。
ミアデたちのこともまとめて、彼女らは侮辱しようとしたのだ。だから殺すと。
(アヴィ、私は……)
ずきりと、胸が痛い。
皆を守るように、ルゥナを守るように立つアヴィの横顔に、心が締め付けられる。
(私は……)
「やめよ。我らは敵ではない」
メメトハの声に、前に立っていた二名の従者が気まずそうに半歩下がる。
「……」
「アヴィ」
謝罪の言葉はないが、ここで戦うわけにもいかない。
「アヴィ様」
ミアデが背中に触れると、アヴィの瞳から力が抜け、噴出していた冷気が収まる。
「っ」
よろけたアヴィをミアデが支えた。
「無茶をしよるのぅ。魔術杖もなしにこれほどの力を」
部屋の中にまだ残る冷気を見渡してぼやくメメトハは、どこかしら楽しそうにしている。
珍しい余興を見た、という態度。
アヴィが何に怒りを示したのか、メメトハにしたら所詮は余所事なのか。
踏み躙られた者の気持ちは、踏み躙られたことがない者にはわからない。
メメトハの視点では、従者のちょとした失言に田舎者が怒り出したという程度の認識。
堪え性のない野蛮な田舎者、とでも思っているのかもしれない。
違う。
許せる話かどうかの境界が違う。
育ってきた環境が違いすぎる。
力及ばず人間の虜囚となったルゥナ達にも責があると、そんな考えもあるように見えた。
――見ているものが違う。
クンライの村長がそう言っていた。
見てきたものが違いすぎて、相互理解が出来ない。
戦争というものを、話でしか聞いたことがないメメトハたちには、ルゥナたちと共通の認識など持ち得るはずがなかった。
「……ご理解をいただくのは難しいようですね」
クンライの村長からは、説き伏せてくれと言われた。
人間との戦いに清廊族の総力を挙げるべきだと、南部の悲惨さを知っているルゥナ達に説得してくれと。
だが、難しい。
「貴女と話していても意味がありません。長老とお話をします」
「妾の頭を越えてとは、ほんに無礼な話じゃな」
知ったことではない。
たとえ氷乙女だろうが何だろうが、先に礼を欠いたのはそちらの方だ。
「取り次がぬ……とは言わぬが、そなたらの話を信ずる根拠がまだ不足じゃな」
「これ以上なにを?」
クンライ、ヤフタの村長たちからの文は見せた。
事情も説明した。
他に何をしろと言うのか。
「そなたらが本当にそれほど強いのか、妾は知らぬからのう」
「……力試し、と?」
にぃっと笑う金髪の少女。
その表情は知っている。
人間が、弱者をいたぶることを愉しむ顔だ。
こんなところでそれを見るとは、本当に……
「妾がひとつ試してやろう」
※ ※ ※
「私に、お任せください」
魔術杖を手放さない。
ルゥナに掴まれた冥銀の魔術杖を、セサーカは譲らなかった。
「……ですがセサーカ」
「私にお任せください、ルゥナ様」
セサーカはいつも思っていた。
戦いとなると、いつも自分は一歩引いた場所にいる。それが悔しいと。
「アヴィ様は、先ほどの無茶で本調子ではありません。エシュメノは気が高ぶると歯止めが効かないでしょう」
「……」
「私が失格だったら、ルゥナ様。その次に挑んでいただけますか?」
セサーカの言い分に、ルゥナの手が緩んだ。
握っていた魔術杖から離れる。
「……捨て石に?」
「氷乙女だと仰るのが本当なら、アヴィ様以外では適わないでしょう」
紡紗廟の外、西側には広場がある。
祭りや催し物がある時は、この広場が清廊族でいっぱいになるのだと。
そんな光景は、セサーカ達には想像が出来ない。
人間の町では時にそんなこともあった。
広場を埋め尽くすような人間――ではなく、清廊族。
そんな光景も見てみたいものだと思う。
「こちらの実力を見たいと言うのであれば、ルゥナ様。こちらも、あの方の実力を見極めましょう」
「……わかりました、セサーカ」
ルゥナが身を引き、セサーカが進み出る。
よく晴れた真夏の午後だ。
周囲は明るく、南に見える白い峰々が眩しい。
「相談は終わったかの?」
「ええ」
余裕の態度でセサーカを見据えるメメトハ。
「案ずるな。怪我などさせぬし、そなたの次に他の者がやるのもよいじゃろう」
「寛大なお言葉に感謝いたします」
ですが、と。
セサーカは心中で笑う。
後ろでミアデが心配そうな顔をしているのだろうに、それを差し置いて何だかおかしい。
ルゥナは間違えている。
セサーカが冷静な判断で、布石としてメメトハに挑もうとしていると、勘違いしている。
「……」
エシュメノは、清い体だと。
セサーカたちのことは、人間の玩具となった汚れ物だと。そう言った。
ミアデや、アヴィ、ルゥナ、外で待っていたニーレたちのこともそのように言ったことになる。
「……ウヤルカに、もう一度謝るべきですね」
自分が言った時には、何も思わなかった。事実として過去の出来事だからと思って、何も考えていなかった。
けれど、不愉快なものだ。
他者に、自分の大切なものを貶されるのは。
汚れている。
汚され、辱められ、その日々を思えば今でも苦しい。
涙が零れることもある。
だけど、許せないのは自分のことではない。
大切な仲間の過去を、今再び他者に辱められるのは、許せない。
「お怪我の心配は、されて下さいね」
「……なんと?」
一応は腕試しの試合だ。
殺すわけにはいかない。
けれどうっかり殺してしまうことも、ある、かも。
「少し私、不機嫌でして。手加減は出来ませんから」
「っ!?」
冥銀の魔術杖が鈍器としても有効なことは、よくわかってもらえただろう。
全力での踏み込みから振り下ろした魔術杖は、メメトハの額に触れそうなほどの所で受け止められていた。
「くっ、なんじゃ、このっ!」
振り払われる。
材質はわからないが、メメトハの魔術杖で。
初手で殴りかかるとは思わなかったのか、完全に意表を突いた。
筋力はさすがに相当なもので、セサーカでは抗えない。
「魔法使いではないのか!」
「天嶮より下れ、零銀なる垂氷」
振り払われ、後ろに跳びながらの詠唱。
「こっ」
迫る氷柱を払ったメメトハに、息を吐かせず2本目が襲い掛かる。
「んな、ものでぇ!」
と、一拍遅れて3本目が、反撃の魔法を唱えようとしたメメトハに刺さった。
2本目を振り払ったことで、タイミングのズレた3本目を打ち払えない。
「くぅ!」
「メメトハ様!」
従者の悲鳴が上がったが、残念ながら掠っただけだ。
高速戦闘をしながらの魔法。
氷柱を、三本同時に作りつつ、それぞれタイミングを変える。
こういう戦い方は、いつか見た女魔法使いがやっていた。
あの女は、アヴィと互角以上に戦っていた。その技術を真似できるのならそうする。
「そんな掠り傷程度なら、トワが癒してくれますので」
セサーカの身体能力はかなり向上している。
魔法使いとして戦うということは、魔法の上達だけではダメだ。
それを使う間合いを取る為に、発想を広げる必要がある。
「弾けよ」
簡易詠唱で足元の空気を弾く。
「小賢しい!」
今度はメメトハが踏み込んできた。
ぶつかる空気の塊を無視して、強引にセサーカへと迫る。
速い。
セサーカと同じように魔術杖を振るってセサーカの左側からの殴打。
それを冥銀の魔術杖で受け止めた直後に、メメトハが紡いだ。
「極冠の叢雲より、降れ玄翁の冽塊」
「冷厳たる大地より、奔れ永刹の氷獄」
弾き飛ばされながら詠唱を紡いだ。
咄嗟だったが、直感のままに。
「なんじゃと」
セサーカを弾き飛ばしたメメトハの魔術杖から、拳大の雹の塊が数十と打ち出される。
それを、セサーカが打ち立てた氷柱が受け止めた。
「く、ぅっ」
メメトハの殴打を防いだ腕が痺れている。
やはりかなりの力だ。
「静凛の釁隙に、伏せよ幽朧の馨香」
打ち付ける雹の勢いで、セサーカの作り出した氷柱が砕ける。
いくらか貫いてきた雹の塊がセサーカの体を打った。
「うぁっ」
だが、かなり防げた。
耐えられないほどではない。
「これまでじゃ!」
砕け、崩れた氷柱を挟んで、メメトハの魔術杖がセサーカに向けられる。
「真白き清廊より、来たれ絶禍の凍嵐」
同じ魔法でも、セサーカが使う場合より強烈で、また狭い範囲に指向性を持たせた氷雪魔法。
セサーカを戦闘不能にさせるには十分な威力で、猛烈な吹雪がセサーカを飲み込んだ。
「――っ!」
標高が高い北部とはいえ、真夏の日差しの下でこれだけ氷雪系の魔法を使えば、寒暖差で空気が歪む。
水蒸気と温度差で光が歪み、さらにそれを魔法で助長すれば。
幽朧の馨香。
空気の隙間に、幻のように影と香りだけを残す花のような魔物の童話。
セサーカは氷柱が砕ける前に唱えていた。
止めの魔法を放った姿勢で固まるメメトハであれば、セサーカにも捉えられる。
セサーカの姿を飲み込んだはずの吹雪は、セサーカが既にいない場所を過ぎていた。
終わったと確信していたのだろうメメトハの反応は遅かった。
「は、ぁ……」
先ほどの雹の塊を受けた腕が痛む。
痛みを堪えて、冥銀の魔術杖を突き付けた。
セサーカの幻に魔法を放った後の、メメトハの喉元に。
「……言っておきますが」
痛みを堪え、歯を食いしばりながら告げる。
「ルゥナ様もアヴィ様も、私よりずっと強い」
突き付けた杖の先からは、すぐにでも魔法を放てる。
メメトハの喉に、殺意を込めた魔法を放つことが。
「……私程度でも、ここまでは出来ます。二度と、私の仲間を侮辱しないで下さい」
メメトハの表情が、驚きから変化した。
悔し気で、憎々し気な顔に。
「……妾に勝ったつもりか?」
負け惜しみ、ではない。
わかっている。雹の魔法は加減されていた。
絶禍の吹雪も、効果範囲を見えていたセサーカの姿だけに絞らなければ、十分に痛撃を加えていただろう。
手加減と、油断。
だからメメトハは実力で負けていないと、そう言う。
従者の手前、簡単に引けない自尊心もあるはず。
油断がなければ負けない、と言いたいのだろうが。
「続けるというのなら、今度は……」
「何をしておる!」
怒声が響いた。
紡紗廟の周囲に大きな声が響き、その元に目をやったメメトハが舌打ちする。
見れば、老齢ながら背筋の伸びた姿勢の男女がいる。
その後ろには、最初に紡紗廟の前で話をしていた警備の男の姿もあった。
だとすれば、あれが長老なのだろう。
「っ……」
膝を着き、杖で体を支える。
気が抜けたら、セサーカの体は思った以上に重くなっていた。
体重のことではない。確かにミアデと比べたら、少しばかりふくよかだけれど。
「セサーカ!」
真っ先にミアデが駆け寄ってきた。
「無茶しすぎだよ」
そう言われてしまうのも仕方ないけれど、意地を張りたかったから。
「……褒めてくれない、です?」
「ばか!」
罵声と共に、ミアデの腕がセサーカの脇に回される。
ぎゅっと肩口に当てられるその頬が心地いい。
「……」
メメトハは、何も言わずに離れていった。
代わりにルゥナがセサーカに近付いてくる。
「無茶をして……私に嘘を吐きましたね」
責めるような、称えるような。そんな複雑な表情で。
「私たちの過去を侮辱されて、ついかっとなってしまいました」
「冷静にそんなことを言われても、返答に困ります」
やや表情を曇らせるルゥナだったが、そっと首を振って微笑んだ。
「よくやりました、セサーカ」
「はい」
ミアデと目を合わせて、ふふっと笑う。
メメトハはミアデを汚れていると言ったのだ。
直接そうは言わなかったけれど、同じことを。
セサーカがそれを許せるはずがない。
実力で上回ったとは思わないが、少なくともこの場は勝利した。
高い場所から物を言う女に恥を掻かせてやれた。
出来たのは、ここまでの経験があったから。
(エシュメノにもお礼を言わないと)
メメトハは強かった。
けれど、ソーシャが戦ったあの人間の英雄ほどではない。
あの頂を知っていたから、強敵相手でも冷静に戦えた。
「……どうかしたの?」
遠ざかるメメトハの背中を見ていると、ミアデが心配そうな顔をする。
「いえ、なんでも」
想像したほど強くなかった。そう思っただけ。
ここで口にするのはやめておこう。
おそらくメメトハは、このクジャでは戦力として重要視されている。その強さを測るような発言は控えておいた方がいい。
だが、やはり気になる。
氷乙女というのは、もっと圧倒的な力があるものかと思っていた。
手加減されたとしても、勝てると見込んでいたわけではない。
心に残る違和感をしまい込んで、まだ心配そうなミアデの首に唇を押し当てた。
真夏でも、春を想起させるような爽やかな香り。セサーカが大好きな香りだった。
※ ※ ※