第40話 生まれる希望 (挿絵)
イラスト:いなり様 データサイズ60kB
「はあぁっ!」
ミアデの拳がロックモールと呼ばれる魔物の胸を穿つ。
拳の形に心臓辺りを凹ませて、ぼふっと倒れた。
「ミアデ、大丈夫?」
「平気平気。最近なんだか拳が硬くなったみたいで……っ!」
自分の手を握ったり開いたりしていたミアデが、はっと目を鋭くする。
思わず声を掛けたセサーカも身構え、冥銀の魔術杖を斜めに持った。
「……もしかして、あたしの体……がっちがちだったりする?」
敵の気配などではなかった。
強さと引き換えに、自分の肉体が柔らかさを失ってしまったのではないかと、セサーカに向けた上目遣いの瞳が不安げだ。
「もう……」
構えた杖を下ろして、呆れ半分に苦笑いを浮かべるセサーカ。
ミアデの手を取り、その甲にそっと唇を当てた。
「柔らかくてすべすべよ」
「……セサーカの方が肌綺麗じゃん」
「それは、どうなのかしら。ミアデに愛してほしいから?」
「エシュメノも」
別の魔物を仕留めていたエシュメノも駆けてきて、セサーカとは反対のミアデの手を取り頬ずりした。
「ミアデはけっこう強い。エシュメノはミアデ好き」
「あはは、ありがと」
洞窟に潜っての数日でエシュメノもだいぶ元気になった。
ミアデと共に前衛に立つ為、特に親しくなっている。
休憩中、独りでいるとネネランに纏わりつかれるので、なるべくミアデやアヴィの近くにいるようにしていた。
ソーシャを失くしたことから立ち直れたのかはまだわからない。
だが根は天真爛漫な性分のようだ。ネネランから逃げる為でも、こうして誰かと触れ合う姿の方が好ましい。
きっとソーシャも、いつまでも悲しみばかりを引き摺ることを喜ばないだろう。
喋っている間も、遊んでいるわけではない。
倒した魔物を後ろに、針木の松明で前方を照らしながら警戒をしている。
魔物の死骸は手が空いている非戦闘員が捌いていた。
このロックモールの肉は食料になる。洞窟内で他にまともな食料は調達出来ないので、倒した魔物は無駄にはしない。
取れた魔石については、ラッケルタが飲み込んでいた。
「下の方に向かいながら、かなり西に進んでいるように思いますが」
「そうなの?」
ルゥナの感覚では西のような気がするが、実際のところはわからない。
アヴィは周囲を見回しながら、不思議そうにルゥナに訊ねる。
「時折、右手の壁の向こうから水や風の流れる音がします。谷が右手にあるのかと思いますから」
壁の薄いところや隙間から聞こえる外の音が、なんとなく進んでいる方向を教えてくれる。
断崖が右手にあるのだとすれば、西に向かっているのではないかと。
ルゥナの考えた通り、洞窟は断崖の南沿いに西に進んでいた。
右手の岩壁の隙間から日の灯りが差し込む。
山脈を挟んでの峡谷の下、海面近く。日差しはほとんどないが、さすがに洞窟の中よりは明るい。
洞窟の右手が大きく口を開けた。少し下に波打ち渦巻く海面が見えた。
久々に外の空気だ。全員の表情も明るくなる。
渦巻く海面に、大小さまざまな岩が突き出していている。反対岸に、こちらの大きく開けた裂け目とは違い、楕円形の暗い穴の入り口があった。
「溶岩窟、でしょうか」
溶岩の通り道が冷えて固まると、丸っぽい穴になることがあるのだとか。
ルゥナも現物を見たことがない。
断崖からだいぶ山脈内側に寄っているせいか、人間の目に触れることはないだろう。
ソーシャの言った通り、この断崖は越えられる。
「ミアデ、気を付けて」
腰に縄を結び付けたミアデが、片手に火のついた針木の松明を持って岩を飛び移っていく。
向こう岸まで縄を渡したいのと、もしミアデが落ちるようならすぐに引き上げられるように。
この辺りには、白い魔物の群れはいないようだが、用心は怠らない。
幸いにしてここでは何もなかった。
非戦闘員で心配な者はルゥナやエシュメノが抱えて対岸に渡す。
ここで困ったのはラッケルタだったが、アヴィが担ぎ上げて運んだ。
ネネランが向こう岸にいたこともあって、持ち上げられたラッケルタは意外と大人しく身を縮めていて、強者に捕食される獲物のようにも見えた。
「この洞窟を登っていくと大広間のような場所で二股に分かれると。そこを東に登る道へ入れということでしたが」
ソーシャから聞いていた通りのルートにはなっている。
だが、他にも聞いていることがある。
「大広間は、可能な限り早く抜けろ、と」
あのソーシャでさえ警戒する何かがそこにいる。
人間の手が及ばぬ場所に来たからと言って、まだ安全だとは言えなかった。
※ ※ ※
大広間。
自然洞窟には、色々な条件でそういう場所が形成されることがある。
周囲は硬い壁と地面だが、時折柔らかい地面と感じるのは、蝙蝠などの糞の堆積物だ。
水自体は流れているものを沸かして飲用にした。食料も魔物の肉を食いつないでいるが、北側に渡ってからはその魔物が少ない。
食料が少ないという話になるたびに、ネネランがラッケルタを庇うように立つ。
最後の手段だと思っているので、ネネランの行動が的外れだとは言えなかった。
「ここが、大広間だと思いますが」
渡ってから丸一日は洞窟を進んだと思う。
唐突に広い場所に出た。
針木の松明で照らしても天井が見えない。清廊族の目を持ってしても。
「……自然の洞窟、ね」
アヴィが確認するように壁に触れていた。
「何か思うことが?」
「……」
自ら何かを話すことは珍しい。ルゥナが訊ねると、もう一度ぐるりと周囲を見回す。
「メラニアントの巣……じゃない」
アヴィが暮らしていた黒涎山の洞窟にも、似たような広い場所があったのかもしれない。
アリ系の魔物などが巣穴として作ったものではなく、自然に出来た空間だと確認していた。
だだっ広い。地底なのかわからなくなるほど広く感じる。
奥行きがよくわからない。
「とにかく東へ……右手の壁に沿って、上に行けそうな道を探して下さい」
これだけ広ければ少し休憩したいところだったが、ソーシャの助言に従う。
出来るだけ早くここを抜けよう。
ルゥナの考えとは逆に、アヴィの足が止まっていた。
壁に手を当て、俯いている。
「アヴィ?」
「ルゥナ……嘘、ついてない?」
いつも平坦に響く声が震えていた。
「なに……を……?」
聞き返した時に脳裏を過ったのは、トワの微笑だ。
どきりとした。
後ろめたい気持ちが呼び起こされ、答える声も震える。
アヴィは振り向いて、眉を寄せながら首を振る。
「……ずっと、逃げてる」
真実を話すことから逃げているのではないかと。
アヴィは、ルゥナがトワに口づけしたことを知っていて……
「人間から、逃げて……私、気を失ってたけれど、母さんの仇からも……」
「あ、ああ……」
なんだ、その話かと。
安堵して、それからその自分の卑劣な心を責める。
(私、最低だ……)
トワとの浮気を責められるのではないかと怯えて、そうではないと知って安心するなんて。
この気持ちこそ、アヴィへの裏切りではないか。
彼女にとっては母さんの仇など、何よりも優先して殺したい相手なのに。
「……アヴィ」
「本当に、人間を滅ぼせるの? ルゥナ、嘘ついていない?」
この大広間で過去の何かを思い出したことで、そんな不安に駆られた。
足を止めて話すアヴィとルゥナを、少し先に進みかけた他の仲間も心配そうに振り返る。
よくない。暗く閉鎖された場所でこういう話題はよくない。
皆を不安にさせてしまう。
「嘘は、ついていません」
そのことに関してなら。
他に隠し事はあるけれど、人間を滅ぼす算段については嘘をついているつもりはない。
「人間を絶滅させる為にも、貴女がここで死ぬわけにはいかないのですから」
「……逃げてるだけじゃない?」
「ええ、今は生きることが最優先です。仲間だって増えています」
そっと促して、アヴィの背中を見守る仲間たちの顔を見せた。
たまたま近くにいたネネランがやる気を見せるように拳を握り、ラッケルタが首を回して喉を鳴らす。
ユウラとトワが笑いかけ、ニーレが力強く頷いた。
少し離れた場所でセサーカが軽く杖を振り、ミアデとエシュメノが片手を上げて応じる。
「みんな、貴女の力になります。清廊族の里に行けばもっと増えるかもしれません」
「……出来るの?」
「やるんです。母さんの仇を……ソーシャの仇も、必ず討ちます。そうでしょう?」
ルゥナの心中にある後ろめたさは別の問題だ。
アヴィの精神的な幼さを支えるのはルゥナの役目になる。
彼女の特別でありたい。
たとえ、少し気の迷いでトワの唇を求めてしまった事実はあっても、アヴィの特別であり続けたい。
卑怯だとしても、隠せるなら隠す。
(……いつか、きちんと話しますから)
この不安定な状況の今ではない。全員のためにならない。
「アヴィ様」
話しかけたのは、妊婦の女性だった。
「私は、ずっと希望もなく生きてきました。あの牧場で」
「……」
「生きていたとは、言えません。生かされていた……ただそれだけだった」
牧場出身の他の者も、その言葉に唇を噛んで俯く。
「ただ、生かされていた……」
「そうです。奴隷の首輪を嵌められて、希望も意思も許されず生かされていた。私たちに生きる道を作って下さったのがアヴィ様たちです」
アヴィの手を取り、少し膨らんだお腹に当てる。
そこには新しい命がある。
「この子が生まれたら、お名前をいただいてもよろしいですか?」
「なま、え?」
「男の子だったら、アルナ。女の子だったらルビィと」
そう言って、今度はルゥナに目を向ける。
「あ……私、と……アヴィ、ですか」
面食らってしまって、思わず呆けたような応じ方をしてしまった。
アヴィと、自分の名前からの赤子。
「……恥ずかしい」
ぼそりと言って、横目でルゥナを見るアヴィ。
そう言われてしまうとルゥナも恥ずかしい。
「ルゥナが、いいなら」
恥ずかしいって言ったくせに、と責めたくなるが。
「私は……アヴィがよければ、構いませんが」
まるで、二人の子供のようだ。
(アヴィと私の、愛の……)
そう考えたら、かあっと顔が熱くなる。
こんな洞窟の中で何を考えているのか。
「きっと、元気で優しい子になりますから」
自分のお腹を撫でる彼女の顔は、とても優し気で美しかった。
牧場で生まれるのなら、きっとこんな表情は出来なかっただろう。
生まれる子供の将来を考えれば、悲嘆しかない。
本来なら望まれるべき新しい命なのに、生まれる時から陰鬱な気持ちに包まれて。
そんな境遇の清廊族はまだたくさんいるはずだ。
新しい命は、希望と共に生まれてほしい。
「……必ず、人間を滅ぼしましょう。全ての清廊族を解放するために」
「うん……ごめんなさい、ルゥナ。疑った」
ちくりと、心に刺さる言葉もある。
疑われても仕方がない隠し事はあるので。
「まずはここを――」
「ルゥナ様、何か近付いてきます」
ユウラが手斧を手に、大広間の奥を示した。
「戦えない者は後ろに! 松明は分けて持って、東に抜ける道を探して下さい」
ミアデとエシュメノが配置を変えるよう駆けてくる。
ラッケルタに乗ったネネランは、天翔騎士から奪った槍を手にしていた。
「QLLLLLL」
闇の奥、地の底を這うように響いてくる高い声。
声の、群れ。
蠢く影は小さく、だが広間の地面そのものが黒く波打つように見えた。
「ズォォォォジャァァアァァ」
その更に奥から響いたのは、その波打つ黒い影を震わせるような低い地響きだった。
※ ※ ※