第39話 トゴールトに散る
「なぜここで休息を?」
疑問に思った部下の質問に、壮年の男は笑った。
「ははっ、嫌な予感という奴だ」
楽しそうに言う内容にしては、あまり嬉しい話ではない。
トゴールトの軍事最高責任者、将軍パシレオス。年齢は四十七歳を過ぎた。
冒険者もそうだが、魔物を狩って強さを得ている者は、かなり高齢でもあまり衰えない。
持久力や視力は悪化していくが、肉体的な強度は病気や本当に晩年になるまで保たれる。
いよいよ死期も近くなれば、さすがに力を失う。
困るのは、時折その強さのまま判断力を失ってしまう者がいて、拘束されたり殺されることもあるが。
ロッザロンドの歴史では、かつて戦士王と呼ばれた男の晩年の凶行が逸話として残っている。
目に付く者全てが魔物に見えたらしく、狂ったように暴れて、数百人が死んだのだとか。
やはり老齢で持久力がなかったからそれで済んだ。全盛期の体力があれば、町が滅んだだろうと。
一線を退いた老齢者は、あえてその力を封じるような魔具を身に着けるようになった。
何の間違いで身近な者を傷つけるとも限らないのだから。
「おかしいとは思わんか?」
「町を襲った賊のことですか?」
「それをクロエの小娘が制したという話よ」
パシレオスに言われた部下は、肩を竦めた。
「そんなこともあるのでは? 将軍も気に入られていたではないですか」
クロエは決して愚鈍な女ではない。
口さがのない者は、親の七光りで天翔騎士になったのだと言うし、本人もどこか引け目を感じている様子もある。
だが、その実力は恥じるようなものではなかった。
「兄よりも使えると、将軍ご自身が認めていたと思いますが」
「いずれはな、そういう器だと見えた。しかし町を襲うような命知らずを相手に出来るとは思わん」
ふん、と鼻を鳴らして首を振る。
「あれは甘い環境で育てられた。狂人を前にすれば、小便でもちびって震えあがるのがせいぜいだろう」
「小便ですか」
「なんだ、見たかったのか?」
「そりゃあまあ」
トゴールトでは少し有名な美しい娘だ。
領主ピュロケスの息子と婚約することは知っているが、そんな娘の醜態なら見てみたいと思うのも自然。
二人で含み笑いを漏らす。
「何か吹っ切れて勇ましく戦ったという線もないわけではないが」
「町を襲うような相手には経験不足と言われますか。敵は守備隊との戦いで既に消耗していたのかもしれませんよ」
「ならいい。儂の勘違いというだけのことだ」
領内の不審な集団と聞いて、天翔騎士どもにでかい顔をさせるのが不愉快で急いで出てきた。
そのせいで、町からの伝令を受けるのがかなり遅くなり、結局町の近くまで戻ってきたのが翌々日の昼過ぎ。
もう少しでトゴールトという場所でパシレオスが全員に休息の時間を取らせた。
「嫌な予感、ですか」
「そもそもその不審な集団というのが本当なのか」
腕を組み、今度は少し難しい顔で唸る。
「天翔騎士がそれを伝え、そうかと思えば反対に町で襲撃騒ぎ。そしてそれを鎮めたのがまた天翔騎士とな。出来すぎではないか?」
「グワン騎兵部隊が壊滅したという話ですが」
「そこから既に、サフゼンの企みかもしれん」
天翔勇士団は出来てから日が浅い。
航空戦力ということで非常に有望視されている一方で、現時点での扱いは新参者の部外者だ。
何かしらの功績を上げたいというのなら、それは理解できる。
だがこのタイミングで、今まで有り得なかったようなトゴールトの襲撃が発生して、そしてそこでクロエが活躍したなど。
筋書きがあるように思えてしまう。
クーデター。
まさかそんなことはないと言いたい。だが力を手にした人間が考えることの一つでもある。
サフゼンがそれを計画して、町の最大戦力であるパシレオスを遠ざけたのではないかと。
事実を知っている者であればただの考えすぎだと言えただろうが、この時点でパシレオスが知る状況からは、不審な部分が多すぎた。
町での騒ぎが治まったというのなら、急ぐ必要はない。
一度ここで息を整えてから、万全の状態で向かう。
部下を預かる人間としては当然の判断だ。
「後ろにも気を付けておけ」
「……まさか」
「何があるかわからんのが戦場だ。味方と思えば違うこともな」
パシレオスは、若い頃はロッザロンドで本物の戦場に長くいた。
その言葉を部下も神妙に受け止め、振り返る。
北の空は、ゆっくりと雲が流れるだけだった。
※ ※ ※
なぜ、口づけなどしてしまったのだろうか。
もう言葉を聞きたくなかった。
聞くのが怖くて、口を塞いだ。それだけ。
――私を、愛してほしい。
最後に聞くと約束した際の言葉だ。
他の人間は、そんな約束を破ったり適当に誤魔化したりするだろう。
けれどマルセナは違う。
約束したのなら守る。当たり前だけれど。
イリアが愛してほしいというのなら、マルセナなりに愛を注ぐ。
歪んでいるとしても、イリアは別に優しくしてほしいとか、イリアだけに肉体を許してほしいとか言ったわけではない。
マルセナは、自分を慕うイリアが心を痛めるのを見るのが楽しかった。
大事に思うほど壊したくなる。
マルセナの行いを見て、イリアの表情が切なさと悔しさに染まるのを見ると、とても強い愛情を覚える。
もっとイリアの心を苛みたい。
揺さぶり、締め上げて、それからその傷を舐るように触れる。
我慢に耐えかねたイリアが、その愛撫に対して心の全てを委ねる瞬間が好きだ。
ようやくイリアを構ってもらえる、と。
そんな風に全てを委ねてくるイリアを、またそこから意地悪して涙ぐませる時なども格別だ。
愛を感じる。脳が蕩けるほどの愛情を。
歪んでいるとしても、それがマルセナの愛情表現なのだから仕方がない。
イリアが望んだものだ。存分に与えよう。
だが、接吻は違う。これはマルセナの愛情の表現の仕方ではない。
間違えた。
もし口づけをするのであれば、クロエにするべきだった。
そうすればきっとイリアは更に切なさに胸を痛め、マルセナに今よりさらに強く執着心を示すだろう。
次は間違えないようにしなければ。
「イリアの願いですもの、ね」
マルセナとて生き物だ。食事もすれば排泄もする。
次の戦いを前に、睡眠と食事をとり、トイレを済ませた。
さすがにイリアもここまではついてこない。外にいるだろうが。
(中に入りたい、とか?)
待っているイリアが悶々としているかと考えたら、つい笑みが漏れた。
(イリアは耳がいいのでしたわ)
呟いてしまった言葉が届いたかもしれない。
迂闊なことは言わないように気を付けなければ。
備えつけられている魔具で水流を発生させトイレを流した。領主の屋敷なのでこんな設備も普通にあった。
「マルセナ、来たみたい」
外から声が掛かった。
「ずいぶんとのんびりでしたわね」
おかげで十分な休息は取れたけれど。
トイレから出てイリアに向けて頷く。
「これが終われば、しばらくはゆっくり出来るでしょうから」
「うん」
イリアはいつも何か言いたげな顔でマルセナを見つめる。
その言葉は聞きたくない。
聞かされたら、信じてしまいそうで。
「あとで、お話をしましょうか」
「……うんっ! ありがとう」
嬉しそうな顔をするイリアに、マルセナの心は痛まない。
この表情が涙目に変わる時に愛を覚えるし、マルセナに愛されることがイリアの願いなのだから。
※ ※ ※
サフゼンが目にしたのは、トゴールトの城壁手前で戦う友軍の姿だった。
だがその目指す先には、なぜだか領主ピュロケスと妹クロエの姿がある。
パシレオス将軍が、数は少なくとも精鋭ぞろいの自分の部下と共に、町の門を守るかのように立つピュロケスを目指している。
それを防ごうとしているのは、年若い娘が二人と、見知らぬ黒いローブの男。
三人ともがかなりの手練れのようで、パシレオスが引き攣れていた部隊も既に壊滅状態だった。
残る戦力は数十人。
その三倍以上の屍が晒されてなお戦いをやめない。
「ここまでだ、小娘どもが」
「くっ、マルセナ……」
「本当に、あぁ……これは少し、想定外でしたわ……」
「ひ、ひゃあ……ぬかっ、たわ……」
戦いをやめないのは、既に決着がつきつつあるからだ。
パシレオスの勝利は目前。
抗戦を続けた三人も、既に力を使い果たしつつある。
パシレオスの方も決して無事ではないが、まだ余力はあるようだった。
(……全て、パシレオス将軍の手引きか!)
止めを刺そうと剣を振り上げるパシレオス。
魔法使いらしい小娘を庇うのは……ピュロケスだった。
領主のピュロケスが、身を挺して少女を庇おうとする。
その後ろにはクロエもいる。
「全員! ピュロケス様をお守りしろ!」
サフゼンの判断は、どうだったのだろうか。
彼には引け目があった。
天翔騎士とはいえ、成り上がり者の誹りを受ける日々。
父からは、心残りだった兄への悔恨からか、あまり親愛を得られた気がしていなかった。
兄ヘリクルを気にかけていたのは、罪悪感もあったが、父へ示したかったのだ。自分の方が兄より優れていると。
同じ軍人であるパシレオス将軍やそれに近しい者に対しては、トゴールトの軍人でありながら疎外される感覚に憤りと劣等感を抱えていた。
翔翼馬の変異種をピュロケスの息子に贈り、妹との婚姻の約束も取り付けた。
そうしてトゴールトの上流階級の一員として認められるのだと思って。
当然、パシレオスに対して良い印象はない。
そうはいっても、パシレオスの力が強大なことも知っている。
教練と言って、何度か叩きのめされたことがあるのだから。
だが、サフゼンは天翔騎士だ。騎士として、敵が強いからと退くことはならないという矜持があった。
主君を、妹を、そしてそれらを守ろうとする少女を救う為に戦う。
強大な敵に。
状況がわからぬまま咄嗟に判断したことの正否について、誰もサフゼンを責めることは出来ないだろう。
天翔騎士もそれに続く。
なぜだか領主に刃を向ける友軍に。その友軍からはかつて子供じみた嫌がらせも受けてきたのだから、大して友情も感じていない。
ここでパシレオス将軍麾下の部隊を殲滅すれば、名実ともに天翔勇士団がトゴールトの主流となる。
そういった劣等感からの戦意もあった。
戦場というのは、明確な色分けが出来ていないことも少なくなかった。
敵だと思って攻撃を仕掛けたら味方だったり、隣で肩を並べて戦っているのが敵だったり。
この数日続くトゴールト周辺の異常な事態。
それがこんな形で収束したことも、そんなこともある。そういう一つの結末だったのだろう。
※ ※ ※
トゴールトを襲った戦火は決着した。
天翔騎士サフゼン以下天翔勇士団は、一部を残して全滅。
サフゼンを斬った反逆者パシレオスは、黒翔騎士クロエとその仲間により討たれた。
主を失った翔翼馬の生き残りは、純白の翔翼馬に従うように集ったと。
領主ピュロケスの精神的な動揺は大きく、現実から少しずれてしまったような言動ではあったが、町の復興の指示を出していた。
息子や近しい部下を失い、不安定なその様子も無理はない。
いずれ本国から、この騒動に関する何かしらの措置があるのかもしれない。
だが、本国に知らせるには海を渡る必要がある。南の港町マステスの誰かが事態を知り本国に連絡するまでにどれだけ時間が必要なのか。
騒ぎの治まったトゴールトは、今までと全く同じというわけにはいかないようだった。
「マルセナ、私の話を」
「ええ、だから聞いて差し上げますわ。イリア」
優しく笑いかけるマルセナだが、イリアの表情は怯えている。
「貴女の心のうちに秘めた、わたくしへの情欲を。包み隠さずに話して下さるように」
「や、やめ……」
「わたくしの体に何をしたいのか。イリアが隠したいと思うことを言いなさい」
好きな人に対して、どんな情欲を抱いているのか。
それを洗いざらい喋れと。
「あ、や……わた、わたしは、マルセナに……」
唇を痙攣させながら、イリアの口から言葉が紡がれる。
「その体の、全部に口づけを……舌を這わせて、よろこばせ、たい……」
「全部? 特に、どこに?」
「やめ……マルセナの、一番大事なところ……と、排泄の……」
「ふ……ふふっ、あらあら、恥ずかしい」
「やだぁ……」
「聞きました、クロエ?」
ドア付近で立っていたクロエが、唇を結んで頷く
その姿も震えている。
庶民の家屋ひとつよりも高価であろう寝台に腰かけ、足を組むマルセナ。
その前に跪き、マルセナに許しを請うイリア。
クロエはそんなイリアに、蔑むような視線を向ける。
「わたくし、排泄器官を舐められて悦ばされてしまうのですって」
「……はい」
「やぁ……ごめんなさい、マルセナ。お願い……」
「イリアの趣味を押し付けられてしまうのも困りものですけれど、そうですわね」
さらに悪いことを思いついたというように、優しく微笑む。
「逆に、イリア」
「もう、やめて……お願い」
「わたくしに、何をしてほしいのかしら? 隠したいことを話しなさい」
イリアの意思は捻じ曲げられ、言いたいくない心の内を言葉にさせられる。
クロエも聞いている前で、普通なら他人に言えない肉欲の話を。
「わ、わたしに……同じように、してほしい……」
「あらまあ、わたくしにもイリアの汚い所を舐めてほしいと?」
「はい、その舌でずっと……ううぅっ! もうやだぁ! お願いマルセナ」
「何をお願いしたいのかわかりませんわ。ああ、今ここでしてほしいのですか?」
「違う! 違うのマルセナ。もうこんなのやめて……私、こんな……」
涙を流して訴えるイリアに、やはりマルセナは優し気な表情で頷く。
聞き入れるつもりなどない、と。
「駄目ですわ、イリア」
「お願いです、から……違うの、違うの」
「違いませんわ、イリア。わたくしは貴女の気持ちを全部知りたいの。貴女も全部知ってほしいと、そうおっしゃったじゃありませんか」
だから聞いている。
強制的に聞き出している。言いたくない本当の心の底を。
「イリアが望んだことですわ。本当の気持ちを話すように命じてほしいと」
「違う……」
泣き伏せるイリアの顎を、マルセナが掴み上げた。
接吻をもらえるのかと、イリアの涙が瞬間止まる。
「……まだ、何か隠していらっしゃいますわね?」
「あ……う、ううん、何もない……もう何もないから!」
「なるほど……やりたいかどうかは別として、考えた中でもっと恥ずかしいことがあるのではなくて? わたくしに何をしてほしいのか」
「いや! だめ! お願いだからマルセナ。他のことなら何でもするから、お願い!」
「言いなさい」
マルセナは恍惚とした瞳でイリアを見つめている。
まるで愛しいものを愛でるように。
「うぁ……ま、マルセナに……私の、顔に……おもらしして、ほしい……」
「……う、ふふっあはははっ!」
情けなさに目を閉じるイリアに対して、マルセナは心の底から愉しそうに笑い声を上げた。
「イリアったらもう! イリアったら本当に!」
「いやあぁぁ……」
「本当にそんなことを考えていたのですね、イリア。わたくしちょっと安心しましたわ」
「やめ、て……」
イリアにはもう他に言葉がない。ただ、いやいやと首を振る。
「貴女も、他の人間と同じようにそんな異常な性癖を持っていらっしゃったのですね」
確認するように頷いて、唇を噛んでいるクロエに視線を向ける。
「ねえ、クロエ。おもらしですって、聞きました?」
「っ……はい、聞きました」
クロエが眉を寄せてイリアを見ながら、苦々しく頷く。
自らが粗相をしてしまったことを改めて思い出させられたのだろう。
「いやだ……もう、やだ……ひどい、ひどいよ……」
「あらあら、酷いのはイリアじゃありませんの。そんな目で仲間のはずのわたくしを見ていたなんて」
楽し気なマルセナが、イリアを更に追い詰める。
もうやめてほしいと哀願するイリアの逃げ道を埋めていく。
「もしかしたら、イリア?」
「う、う……」
「それを、わたくしにもしたい、とか? 考えてませんでした?」
「……」
イリアが、自分の口を手で覆う。
決して口にするまいと口を塞ぎ、小刻みに首を振る。
絶対に言ってはいけない。そんなこと考えたこともないから聞かないでと。
「……わたくしの顔に、イリアがおもらしして汚したいとか。そんなことを考えたかどうか」
「あ……」
「言いなさい」
イリアの泣き声が、半壊したトゴールトの領主の屋敷中に響いた。
※ ※ ※