第36話 花の香り
夢が叶った。
唐突で押しつけがましかったとは思う。
自分でも、奴隷として希望のない日々を過ごしていた自分の中に、こんな行動力があったのかと驚くほど。
だけど、二度はないかもしれない。
チャンスというものが何度も巡ってくるなどとは考えられない。
これは一度きりの機会で、決して手放してはいけないのだと。
後悔したくなかった。
こんな幸せな夢が叶う日が来るなんて思わなかった。
壱角の子が成長して私を助けに来てくれた。
私を……では、なかったような気がしなくもないけれど、そういう小さいことは別にいい。
彼女を見た瞬間に、私の中で薄れていた夢の世界が一気に帰って来た。
壱角の子が美しく強く成長して、私の手を取ってくれる。
優しく囁くのだ。
――助けに来たよ、ネネラン。
「はい、エステノ様……」
私はそう答えて、彼(妄想)の厚い胸板に顔を埋める。
そして誓うのだ。
「これからはずっと、ネネランはエステノ様にお仕えします」
――ああ、愛しているよ。ネネラン。
そんな妄想を抱いていた日々があった。
人間の奴隷として生きる毎日はつらくて、悲しくて、苦いことばかり。
そんな中で忘れかけていた夢を、彼女を見た瞬間に全て思い出した。
この幸せをもう絶対に手放さない。
だから、少々押しつけがましくても仕方がない。
エステノ様は、私の想像のエステノ様とはちょっと違って、可愛らしい容姿と可愛らしいお胸のエシュメノ様だったけれど。
そういう小さなことは別にいいのだ。
壱角の子が成長して私を助けてくれた。
だから私はこう言う。
「ネネランがお仕えしますから、末永くよろしくお願いします」
私の生涯を、貴女に捧げますと。
手の中に包まれた小さな彼女の手は、とても暖かくて、幸せだった。
※ ※ ※
滝から少し東に行くと、崖沿いに降りられるような取っ掛かりがある。覗き込まないと見えない場所に。
それを降りると、今度は滝の裏側に歩けるような窪みが続いているのだと。
ソーシャから聞いたそれは、確かにあった。
白い魔物を避ける為に針木の枝を松明にして複数掲げている。
予備も持っているし、一部は濡れないように荷物の内側に包むようにもした。
どこまでの効果かはわからないが、今日はあの白い魔物の群れは見えなかった。
「真白き清廊より、来たれ絶禍の凍嵐」
アヴィの詠唱により滝が凍り付く。
全てではない。崖の窪み側だけだが。
「……しばらくは、大丈夫」
流れている水を凍らせるのはとても難しい。とてつもなく強烈な冷気が必要だ。
川の流れでも精一杯のルゥナには無理だったが、アヴィの魔法はそれよりずっと強い。
「今のうちに抜けます」
滝が流れていると、水がその窪みにも強く当たり、とても通れなかった。
道があることさえわからない。
仮に知っていても、滝の水流もあって簡単に通れるような場所ではなかった。人間には不可能だろう。
崖の岩肌に衝突した飛沫のせいで視界も悪いし、この断崖に霧のように立ち込めている。
「あまり崖に寄らないように。崩れるかもしれません」
崖の上から幼児や妊婦をそっと運び、崖の裏に隠れるような道に進ませる。
ラッケルタは、わずかな時間であれば壁に張り付いて歩くことも出来るようだった。
背中に子供を乗せることも可能かもしれないが、この崖では落ちてしまう。
隠し道。
知らなければ崖の上からは見えない。
降りて進んでいくと、途中からは広い洞窟になっていた。
幸い清廊族は夜目が利くし、針木の松明が明りにもなる。
アヴィは暗い洞窟を進みながら唇を噛んでいた。
思い出すことがあるのだろう。他の者に、特に用事がなければ声をかけないように身振りで示す。
「どんな魔物がいるともわかりません。気を付けて」
※ ※ ※
エシュメノとミアデが先行した。
どちらも感覚が鋭く、敏捷性にも優れている。
その後ろから死角をおぎなうようにセサーカが警戒して進む。
天井から落ちてきた一匹の白い魔物は、セサーカの放った氷の杭が仕留めた。
トワ、ニーレ、ユウラは、中央に配置した戦えない清廊族に気を配らせる。
不測の事態があるかもしれないし、不安に駆られて突発的な行動に出るかもしれない。
時折、彼らに声を掛けながらその心的な負担を少しでも和らげてくれた。
トワ達自身も別にこんな洞窟探索の経験があるわけではないだろうが、戦いに慣れてきたおかげかその精神も強くなりつつあるようだった。
アヴィも中央に位置してもらった。アヴィ自身の安全のためと、何かあった時に前後どちらにでも動けるように。
後方はルゥナと、ネネラン、ラッケルタが続く。
ラッケルタの背中には、翔翼馬の肉と先ほど凍らせた氷塊を積んでいる。
冷たいものが苦手なようで、間にかなり布や皮を挟んでいるが。
この洞窟がどれほど続くのかわからないし、飲み水や食料が確保できるかもわからない。
運べるのなら運んでおく。
ラッケルタはルゥナが思っていた以上に賢く、自分の役割を理解しているようだった。
「うぅ、エシュメノ様が遠い……」
自分の役割がわかっていないのは、こちらか。
「後ろにも警戒を。見知らぬ魔物が這い寄ってくるかもしれませんから」
ルゥナが溜息交じりに言うと、怯えたようにあちこちに視線を走らせていた。
言ってみたものの、これだけの大所帯だ。
普通の生き物であれば、こちらを襲うことより逃げることを考えるはず。
襲ってくるとしたら、よほど縄張り意識が強い魔物か、あるいは相応の力を有しているか。
あるいは――
「……」
足が止まった。
前方からミアデが走ってくる。
「どうしました?」
「あの、見てもらえますか?」
あるいは、蜘蛛などのように、待ち構えるタイプの魔物か。
考えた可能性の中の一つだった。
「……底が見えませんね」
清廊族の目でも見えない深い穴。
そもそもが暗い洞窟でこんな縦穴が唐突にあれば、人間なら落ちてしまうだろう。
平坦な地面でもない。
おそらく過去には水が流れていたのだろうこの洞窟は、地層の中の硬い岩肌だけが残った状態で、凹凸が不規則に波打つようになっている。
その暗い影に、およそルゥナの身長くらいの円形の穴がぽっかりと口を開けていた。
「……自然の、間欠泉のようなものでしょうか?」
そう言ったのは、初期に襲った村から救い出した清廊族の男だ。
彼には奴隷になる前に暮らしていた頃の知識がある。
「いえ、それにしては円が整いすぎている気がします。おそらく地中の魔物でしょう」
自然に噴き出す水流などで削られたのなら、整った円形にはならないような気がした。
太古の時代から水流に削られ、それでも残った岩盤。
それを刳り貫いて穴を開けるということは、かなり強靭な歯を持っているのではないだろうか。
「火、投げてみます?」
ミアデが松明を示したが、首を振った。
「やめておきましょう。もういないかもしれませんし、いるとしたら刺激したくありません」
手を出す必要はない。
「他にも穴があるかもしれませんから、慎重に」
困難と未知の道程になるだろうとは思っていた。
誰も足を踏み入れたことのない洞窟。こういった場所を探索することが、人間の中で言えば冒険者というものの本来の役目なのだろう。
穴に幼児などが落ちないように気を付けながら進んだ。
「……休憩しましょうか」
洞窟内なので時間の感覚がわからない。
幼児たちの様子がかなり疲弊しているのは見てわかった。
妊婦も、あまり表には出さないがつらいだろう。
「あの辺が広い」
ルゥナの言葉が聞こえたのか、エシュメノが前方を指差した。
先頭を進むミアデとエシュメノは、特に神経を使うはずだ。
時折、前の方で何かの魔物を仕留めるのを見ている。
途中で一度、大きな蝙蝠が数十匹飛んできて、全員を伏せさせた。
非戦闘員がパニックにならないのは、アヴィへの信頼なのだと思う。
「けっこう進んだ気がするんだけど」
「いや、まだ半日も経っていないはずだ」
腰を下ろして足を延ばすユウラの言葉に、ニーレが首を振った。
ごつごつとした岩肌を気を付けて進んでいるので、時間の割に距離は進んでいない。
「うーん、そっかぁ」
足を揉みほぐしながらニーレの言葉に応えたユウラ。
「トワは大丈夫?」
「はい、平気ですよ。ユウラ、そこ擦り剝いています」
「あ、ほんとだ」
どこかでぶつけたのだろう。足首に擦り傷をつけたユウラにトワが歩み寄った。
「ニーレ、押さえつけてください」
「ちょ、トワちゃん!?」
「エシュメノ様、食べて下さい」
「……自分で食べられる」
ネネランの世話焼きを横目に見ながら、ルゥナは洞窟内の広間を見回る。
危険がないとも限らない。
「だいぶ降りてきてますよね?」
見回るルゥナの隣をミアデが歩く。
「休んでいて構いませんが……そうですね」
洞窟に入ってから、曲がりくねりながら下へと進んでいる。
「海面近くで外に出るという話を……」
エシュメノが聞いていないことをもう一度確認して、
「ソーシャから聞いています。ソーシャが通れるような通路は一本だと言っていましたから、迷うことはないでしょう」
細かい隙間はあるが、歩いて通れそうにない。
這いずって入っていくような空間もないこともないが、おそらくそれはソーシャの言っていた道ではないだろう。
「そこからは、対岸に渡れるのだとか。見てみないとわかりませんが」
「向こうにも洞窟があるって話でしたね」
そう話すミアデの後ろ髪に、ふと覚えのある香りを感じる。
「……ミアデ、少し」
気になってしまった。
清廊族の女性の体臭は、花の香りに例えられる。
たとえばアヴィは薄く黄水仙のような安らぎと華やかさが同居するような香りが。
ミアデは蓮華草のような爽やかな春の香り。
セサーカはわずかにイリスの根茎のような優しい匂いを感じさせる。
とても近くで感じて初めてわかるという程度の薄さだが、汗を掻いたままにしていれば多少はわかるものだ。
不愉快な香りではないので、嫌悪を感じることはないのだが。
(この香りは……)
花水木の香り。涼やかな印象の。
身に覚えがあった。
少し壁際に誘導して話をしようとすると、ミアデは何か困ったように俯き加減にルゥナを見る。
「あの……何か、まずかったですか?」
「いえ、違うのですが……」
もう一度、確認の為に彼女の首元に顔を近づける。
「あ、あの、えと……」
「……トワと、何かありましたか?」
昨夜、二人きりにしたのは迂闊だったかもしれない。
ルゥナはトワの中に潜む危うさを知っている。
基本的に自分に向けられていると思い注意していなかったが、ミアデに何かしたのではないかと。
「何かって……あぅ、ごめんなさい」
「いえ、謝らなくていいのですが」
別に責めているわけではない。
自分に対してだけなら構わないが、他の仲間の心を搔き乱すようなことをしているのなら、やめさせないといけないと思っただけだ。
「その……ちょっと、だけ。キスしました」
「……それだけですか?」
「セサーカには、内緒に、して」
「わかっています。言いません」
あからさまに安堵するミアデ。
「無理やりとか、脅されてではないのですね?」
「え、あたしが無理に……? 違いますよ」
逆のつもりだったのだが、ミアデの態度がどちらも違うと訴えていた。
「いえ、変なことを聞きました。すみません」
「……ルゥナ様は、トワを好いているんですか?」
少し意外そうに聞かれたのは、ルゥナがミアデに嫉妬して怒ったのかと勘違いしたからだろうか。
確かに、話の流れとしては奇妙だったかもしれない。
「それは……」
違うと言っていいのか迷ってから、
「私は、皆がうまくやっていくことが大切だと思っています。貴女のことも含めて、好ましいですよ」
「……」
納得した顔ではない。
「この答えでは不満ですか?」
「ちょっとだけ、ずるいと思いました」
「……すみません。アヴィ以外に強い感情はないのですが」
ミアデの不満を受けて、素直に答える。
「最近は、貴女達を仲間だと……失いたくないと、思うようになりました」
最初はただの道具だと思っていた。手駒として使えればと思っていたけれど。
共に過ごしていれば、やはり清廊族の仲間であり、同じ想いを共有する家族のように感じる。
「……ルゥナ様」
「ずるいですか?」
素直に話したつもりだが、まだ不十分かもしれない。
そう思ったルゥナに、ミアデは悪戯っぽい笑顔を浮かべて、
「キスしてもいいですか?」
「ダメです」
ええ、と不満そうなミアデに、今度は応じるつもりはなかった。
その口は、トワに触れた唇なのだろう。
どういう意味合いがあったのかは知らないが、今はあまり触れたくない。
間接的にでも、トワに触れるのが怖い。
(私が、自分の間違いに怯えているだけですね)
トワを責めるような気持ちを抱いてしまったことに、また罪悪感を覚える。
悪いのは自分だ。彼女ではない。
「……休憩しなさい、ミアデ。貴女を頼りにしているから言います」
「ルゥナ様も休んでくださいね」
えへへ、と笑いながらセサーカの所に駆けていく彼女を見送り、溜息を吐く。
聞く必要はなかったかもしれない。
だが聞いてみないとわからなかったのだから、仕方がなかった。
トワの心に潜むどこか歪んだ感情が、誰かを傷つけたりしないかと。不安で。
(私は……あの子を、どうしたら……)
向けられているのは、今は好意だ。
だけど、何かを間違えれば狂気になってしまいそうな気がする。
(出来るだけ、トワを傷つけないようにしないと)
不安定な状況はまだ続く。
この集団の中に火種を作ることは避けたい。
とりあえず休息を取る形はしてみるものの、ルゥナの心中はなかなか穏やかにはなれなかった。
※ ※ ※