第35話 希望の子
「エステノ様、ですよね?」
「……」
白い呪枷をセサーカに切ってもらうと、その女給はやや興奮した鼻息でエシュメノに迫った。
「……」
エシュメノは答えずに、きょろきょろと周囲を見回す。
「エステノ様……その壱角、間違いないです」
「アヴィ」
両手を両手で包むように握られ、助けを求めてアヴィを呼んだ。
知らない女に迫られて困っている。
「?」
呼ばれたアヴィが、エシュメノの呼びかけに首を傾げた。
何をどうしろというのか。それはエシュメノの知り合いではないのかと。
「キース。キースぅ」
「……ん?」
「え?」
おそらくエシュメノは、急に顔を迫られて、この女にキスをされそうだと訴えたかったのだろうと思う。
助けて、と。
だけど彼女は言葉がたどたどしく、ましてアヴィも察しがいい方でもない。
とりあえずと言うように、女給の頬を両手で包んで、キスをした。
「ん、んんっ!?」
熱烈に。
エシュメノの手を握ったまま、横を向かされてアヴィに口づけをされる女給。
一連の流れを見ていたルゥナだが、とにかく脈絡がない。意味がわからない。
「……これで、いい?」
「ちが……」
「な、な……なにをするんですか。いったい……」
「エシュメノの、友達?」
エシュメノの知己だと思い、一緒に戦う力が欲しかったのかと。
アヴィの言い分はそうなのだろう。やはり言葉は不足しがちだが、ルゥナには伝わった。
「わ、私の体がお望みなら、その……優しくしていただけるのなら……」
「誤解をされているのだと思いますが」
放って置いても話が進みそうにない。
篝火を焚いているが、またどんな魔物が現れるかもわからない状況で、この一晩の休息を取ったらすぐ進まなければならない。
「……あなたは、エシュメノを知っているのですか?」
まず確認したいことはそこだった。
キスのことはもういい。済んでしまったことだし、共に進むとなればいずれしたかもしれないし。
そこを追求するのはルゥナの心をかさかささせる。
「あ、エシュ……エステノ様、では?」
「そうなのですか?」
響きは似ている。壱角の娘だということからも、娘違いだとは考えにくい。
問いかけるルゥナとエシュメノに視線を行き来させる女給。
ネネランと名乗った。大トカゲは友達のラッケルタだとか。
「エシュメノ、そんな名前じゃない」
「あ、れ? そうだったでしょうか」
「……なにか誤解があるのだと思うのです」
ぷいっと横を向くエシュメノに、困惑するネネラン。だけど手は握ったまま離さない。
なんだろう、この執着心は。
「事情を、聞かせて下さい」
「――というわけです。私の村が襲われた時には、エステノ様の村がどうなっていたのかは聞いていませんでしたが」
「なるほど、この辺りの村の出身ということで、当時生まれたばかりの壱角の噂を聞いていたのですね」
同じ清廊族で、近隣の村々ならばそう言うこともあるだろう。
希望のひとつとして、壱角の存在が広まった。
「エステノ、というのは?」
「あ、いえ……私も幼児期だったので、村の者がそんな風に呼んでいたと……思う、んですが」
聞き違いの可能性に思い至ったのか、自信なさげに言いながらエシュメノの顔色を伺う。
「ずっと、思っていたんです。いつか壱角のエステノ様が、私たち清廊族を助けに来てくれるって……」
心の拠り所として、暗い奴隷の日々を過ごしてきたのだと。
そんな彼女の心情を聞いて、エシュメノは口を尖らせるだけだったが、セサーカは少し目元を拭っていた。
ミアデはいない。足の傷をトワに治療してもらうということで離れていた。
「エシュメノはエシュメノだし。そんな変な名前じゃない」
「えっとぉ、はい。そうかもしれません」
いくつか考えられることはある。
ネネランが聞き違い、記憶違いをしている。あるいは噂が広がるうちに名前が間違って伝えられたか。
または、ソーシャが聞いた時に、死の間際だったエシュメノの母がはっきりと喋れなかった。あるいはソーシャが聞き違えた。
それとも、幼児だったエシュメノがエステノと発音できずに、エシュメノと言って過ごしているうちに、エシュメノが定着した。
「……ネネラン、貴女の記憶違いでしょう。彼女はエシュメノです」
今更、ソーシャに呼ばれていた名前が違うなどと判明したとしてもエシュメノは納得できないだろう。
別に何が困るわけでもない。これまで通りでいい。
「はい、エシュメノ様ですね」
ネネランの方も、自分の記憶に自信はなかったのだろう。
頷いて、改めてエシュメノの手を両手で握り、自分の胸元に引き寄せた。
「エシュメノ様、これからよろしくお願いします」
「……なにを?」
無下に振り払っていいのか迷いながら、エシュメノが問い返す。
「何をって、そんな……これから私ネネランがお仕えしますから、末永くよろしくお願いします」
「アヴィ、変なのがついた……」
変なの、と言われたネネランは少し呻いたが、それでも手は離さない。
長い奴隷生活の中で、妙な我慢強さが身についてしまっているのかもしれない。
「……いいのではないですか、エシュメノ」
ルゥナの言葉に渋い顔をするエシュメノと、嬉しそうな表情を浮かべるネネラン。
「貴女は少し他者との付き合いに不慣れなこともありますし、体を洗うのも適当にしているでしょう」
道すがら、天気の良い日に川で水浴びをして汚れを流したことがあったが、エシュメノの洗い方は雑だった。
その時はまだソーシャのことでショックも残っているだろうと思ったし、アヴィが流してあげていたのだが。
「……自分でできる」
「出来ていないから言っているんです。ちょうど彼女は誰かのお世話をするのは慣れているようですし」
「はい、お任せください!」
ついでにエシュメノを押し付けてしまえば、アヴィにべったりという状況も解消する。
ラッケルタという存在もある。
あの大トカゲは、呪枷を失くしてもネネランの言うことはある程度聞くようだった。
使える戦力になるのなら、エシュメノと合わせて引き入れておきたい。
(決して、エシュメノをアヴィと引き離したいと思っているわけではありません)
頭の中でそう言葉にしてみてから、付け加えた。
(少ししか)
色々と問題が解消して、アヴィにとっても有益なことだと思う。
「ネネランと言いましたね。話しておくことはありますが、まずはエシュメノをお願いします。ラッケルタのことも」
「はい、ルゥナ様! お任せください」
「むぅ」
むくれるエシュメノ。子供扱いされたことに腹を立てているのか、それともネネランとの距離感に苦手意識を持ったのか。
「エシュメノ」
アヴィが声を掛けた。
「良かった。友達」
「……わかんない」
彼女らの言葉はどちらも不足しがちだが、互いの間では通じているようだった。
「これは……トカゲの魔物の、まだ幼生ですね」
落ち着いた所で改めてラッケルタを確認する。
赤黒い鱗を持つ大トカゲ。だが尻尾の付け根、後ろ足の間辺りの腹だけ青々とした色をしていた。
馬より一回り大きいような体躯だが、下腹あたりの鱗が青いのは成熟していない証だと言われている。
触れば柔らかいのだとか。
嫌がって暴れられても困るので触れないが。
「トカゲの魔物……」
「アヴィ、どうかしましたか?」
ラッケルタを眺めるアヴィの表情が、僅かに緩んだ。
問われて、少し焦った様子で口元を拭う。
「?」
「昔、食べたこと……あるの」
何を考えていたのかと思えば。
意味がわかったのか知らないがラッケルタが数歩後ずさり、ネネランが間に入った。
「だ、だめですよぅ。ラッケルタ食べちゃ」
「……うん」
少し間があった。
「美味しいの?」
先ほどまで渋面だったエシュメノが、今度は自分が攻める番だと言うように目を輝かせる。
アヴィは少し目線を彷徨わせてから、
「……かなり」
「だめですよ!」
ネネランが声を張り上げた。
「尻尾ならいいんじゃないかな?」
「ユウラ、やめなさい。可哀そうじゃないか」
再生するんじゃないのかと意地悪な提案をするユウラをニーレが諫める。
ぶるぶると首をふるネネランが哀れだ。
「……とりあえず、ラッケルタは食べません。私たちに協力できるのなら」
「出来ます! ラッケルタはいい子なので、出来ます!」
少し残念そうなエシュメノが笑う。
笑顔を浮かべる。エシュメノが。
ソーシャのことで凍り付いていた彼女の時が、少しずつでも溶けていくのがわかる。
だとすれば、この出会いは無駄ではなかった。
「それにしても……」
ふと、不安になって周囲を見渡す。
「トワとミアデは、いったいどこまで行ったんでしょうか」
傷口を癒す前に洗うのだと水場を求めにいった彼女らの姿は、近くには見当たらなかった。
※ ※ ※
「う、ぐぅ……」
「いけませんね、ミアデさん」
責めるようなトワの声に、小さく首を振った。
震えた。
「……トワ、お願い」
「だめ、ですよ」
ぞわりと、背筋を撫でられるような、快感とも不快感ともつかない感覚が走る。
「や、ぁ……ん、意地悪しない、で……」
「だめですから、ね」
トワの舌が、ミアデの腹を伝う。
「う、うぅっ……」
「痛いですか?」
「んっ……それも、だけど……」
目尻に涙が浮かぶ。
「くすぐったい」
「駄目です。我慢してください」
トワに容赦はなかった。
「ミアデさんったら、こんなにしちゃって、もう……悪い子です」
「わざと、そういう言い方……してるでしょ、うっ」
「さあ、どうでしょうか」
ふふっと笑うトワの息がかかって、またこそばゆい。
「こういう方が、悦ばれるのでは?」
「……悪い子は君だよ、ほんと」
うすうす知ってはいたし、セサーカから気をつけなさいとは言われていたけれど。
トワの接し方はミアデから見ても、心の疚しい部分をくすぐり、熱い感情を湧き起こしてしまう。
セサーカへの罪悪感が増す一方だ。
「心外です。私はミアデさんを癒そうとしているだけなのに……ん、あふ……」
「そ……そうだけど、んっ……なんだか、ちょっと怖い……」
「そう言われてしまうと、少し傷つきます」
「ごめん」
「……」
ミアデの言葉にトワは目を伏せて、それから無言で舌を這わせる。
胸の下、肋骨の辺りに。
翔翼馬との衝突の後、痛むとは思っていたのだが、落ち着いてみたら随分とひどい打ち身になっていた。
肋骨に罅など入っているのかもしれない。
セサーカに心配をさせたくなかったので、トワに頼んで、噛まれた足の治療と言って連れ出してきたのだが。
「……ふぅ、ぁ……」
打ち身や骨折も多分治せるというトワの能力は有難かった。
唾液そのものが治癒なのではなくて、舐めるという行為で治療しているらしい。
そうして舐めて治癒する獣もそうなのだろうか。
「……」
だが、切り傷よりは時間がかかるようで、その間ミアデは耐えなければならない。
痛みと、くすぐったさと、それらが薄れていくにつれて強くなる快楽に。
(う、うぅ……セサーカぁ)
思い出してしまったのはまずかった。
まるでセサーカにそうされているような錯覚で、じわりと溢れる。汗が。
「……これくらいで、大丈夫でしょうか?」
「ふぅ……は、ぅ……うん、だいぶ。楽になった……」
必死で耐えていたミアデの息は荒く、温度が高い。
もう少し続いたら何だかどうにかなってしまいそうだったが、言われてみれば脇腹の痛みが薄れている。気にならないほどに。
明日からも楽ではない行程が続くはずだ。足手纏いにならなくて良かった。
「ごめん、ね……トワ」
「なんです?」
「いやあの……怖いなんて言ってさ。あたし……」
ああ、と思い出したように微笑むトワの表情には影がある。
「いいんです、ミアデさん」
首を振ると、彼女の銀糸の髪が揺れる。
夜の月明かりを返すトワの銀色の髪は美しい。
「私、ちょっと変みたいで……時々、ニーレにも言われます。何を考えているのかわからなくて、怖いって……」
「そんなこと……」
トワの造形は、アヴィやルゥナとは異なる美しさだ。
幻想的で儚い。
まるで別の世界の生き物のようなそれは、見ていると引き込まれそうで怖い。
「……トワ、違う。ごめん」
「ミアデさん?」
「ごめん、あたしが間違ってた。聞いて」
寂しそうな微笑みを浮かべるトワに、顔を近づけて囁く。
「トワは、大事な仲間だ。怖くなんてない」
「……ミアデさん」
「キスしてもいい?」
「ん……」
なんて話したらいいのかわからなくて、口づけをした。
ミアデは自分があまり喋り上手だとは思っていない。
どちらかと言えば行動で示す。それが性分に合っている。
「ん、む……」
「トワは怖くなんてない。優しい仲間だよ」
「……セサーカさんに怒られますよ」
「そこは内緒でお願い」
くすくすと笑う。今度は寂しそうな色は見えなかった。
(よかった、元気になってくれて)
セサーカを怒らせるのは怖い。きっとミアデは泣かされる。
不用意な言葉で仲間を傷つけてしまったとしたら、ミアデは自分を許せない。
親愛を表現するキスで解決するなら、許容してほしいところだが。
(……トワ、綺麗だからなぁ)
無用な誤解を生むくらいなら内緒にしておいてもらわないと。
「ミアデさん。足、開いて下さい」
「え?」
唐突な言葉に、一体何が始まるのかとどきりとする。
いやちょっとまって、今のキスはそういう意味ではなくて……
「ケガしているのは内腿でしょう?」
「あ」
そうだった。忘れていたけれど。
あの白い魔物に食いつかれた内腿は、少し肉を食い千切られている。少しだが。
それを治癒してもらうのも目的だった。
そうなのだが……
「あ、いや……その、今はちょっと……」
「今しないでいつするんですか? さあ」
「ええっと、その……う、あの……」
少しだけ都合が悪いような気がするのだ。
怪我をした場所と、ミアデの今の身体状況が。
「そのままにして化膿したり傷痕が残ったりしたら、セサーカさんも悲しむのでは?」
ミアデの気持ちがわかっているのかいないのか、トワは優し気な顔で軽くキスを返した。
「大丈夫です。セサーカさんには内緒にしてあげますから」
「……う、はい」
恥ずかしさを堪えて傷の場所を晒すミアデに、先ほど以上に丹念に治癒をするトワの吐息は、妙に荒く感じられた。
※ ※ ※