第349話 果ての微睡
戦乱の時代からずっと後に。
ニアミカルムの山中、壊れかけた小さな山小屋に骨が見つかった。
山奥でたった独り暮らしていたらしい女の骨。
見つけた者はそれを弔い、山小屋の様子を里に伝えた。
壁、天井。隙間なく埋められた言葉の数々。
数多の詩が刻みつけられたそこは、愛の山小屋と話題となる。
戦士ビムベリセと『私』との愛の物語。
日常のようなものもあれば、勇壮な戦いを描いたものも。
しかし、このビムベリセという戦士。登場する逸話により性格がまるで違っている。
詩を読んだ者の印象では、『私』は空想の男に恋焦がれるあまり里にいられず、山奥で独り住むことを選んだのだろうと。
知られるに連れて、憐れな女の墓標として近付く者も減り、やがてほとんど忘れ去られた。
後にその山小屋の扉に刻んだ者がいた。
――ビムベリセは、『私』の幸福を願っている。いつまでも。
叶わぬ恋に朽ちた女に、ビムベリセの願いが届くことを祈って。
※ ※ ※
「……付き合わせて、悪かったね」
世界の果てまで付き合わせた。
文句も言わずに来てくれた相棒に詫びる。
いや、言えないか。
そんな首輪をされて文句など言えるわけもない。
言いたくても言葉も持たない。
「グリズヒート」
もうどれくらい過ぎたのか。
一年や二年ではない。
老いた。
かつてトゴールト天翔勇士団で立身出世を夢見た女騎士も、すっかり老いた。
どれくらい、というのがわからない。
人間は、他者がいて初めて自分を認識できるものらしい。
比べる者がいないと認識できない。
自分が人間であるという認知だけは忘れないのは、相棒の翔翼馬グリズヒートのおかげだろう。
彼女がいるから、ガーサはガーサでいられた。
他に誰もいない世界で。
トゴールトが滅びる時に逃げ出した。
翔翼馬という手段があったから逃げ延びることが出来た。
逃げて、逃げて。
海まで逃げて、さらに東に逃げた。
大断崖アウロワルリスから東の海は暗礁が多い。船が行き来することはまずない。
船底をやられるか、暗礁による複雑な海流に飲まれるか。
暗礁ばかりでもない。群島もあるが、この環境で住む人間がいるはずもない。
火山活動により出来た群島。
その中の比較的大きな島に逃げ込んだ。
地下から湧いてくる水は熱く、地熱が高く植物も少なくない。
そんな環境で生き延びた。
今日まで。
しかし、ガーサはただの人間だ。
食べるものに困らなくても、いつまでも生きられるわけではない。
トゴールトはどうなったか。周辺の町などは。
今さら戻る理由も気力もない。すっかりこの島での暮らしに慣れてしまっていた。
そうして迎える最期。
こんな死に方もある。
「すまなかったね、相棒」
弱った手でグリズヒートの首を撫でた。
病か、老いか。どちらにしてももう力が入らない。死期を悟る。
「相棒、なんて……お前には不愉快かもしれないけどさ」
呪いの首輪で言うことを聞かせていただけ。
グリズヒートがいなければガーサは生きられなかったのだから、外すことは出来なかった。
それも今日まで。
「……後は、自由に生きなよ」
ぷつりと、翔翼馬を縛り付けていた黒い首輪をガーサの手で絶ち切る。
自由になればガーサを襲うかもしれないが、それも仕方がない。
「ありがとう、グリズヒート」
翔翼馬はガーサを見て、声はなく嘶く素振りだけ見せた。
そして振り返り、数歩の助走の後に飛び立つ。
空に駆け上がり、座り込んだガーサの頭上を飛んでいた。
ぐるぐる、ぐるぐると。
それを見上げ、大地に転がる。
「ありがとう」
世界には、ガーサとグリズヒートだけ。
そんなことはないだろう。
けれど、今のガーサの目に映る世界には他の誰もいない。
青い空に、地熱から上がる白い蒸気。
輪を描いて飛ぶ焦げ茶色の美しい翔翼馬の姿。
「……幸せな死に方じゃないか。天翔騎士にしたら、最高」
命のやりとりの心配もない。
金銭や、他者との軋轢などの不安も何もない。
ただ命を終えて、美しい愛馬の飛ぶ空を見上げて死ねるのなら。
世界で、きっとガーサよりいい死に方をした女はいない。
孤島で不便な生活だったけれど、己の死に様に満足できるのなら良い人生だった。
「悪くない、ね……」
まるで世界で最後の人間のような気分で、ガーサは笑って目を閉じた。
清廊族東部の集落ではよく知られている話。
東の海は嵐の王が守る海と。
千年を生きる翔翼馬は、何かを守るように東の空に現れ、清廊族が近付かぬよう嵐を起こしてみせるのだとか。
誰が言ったか、古い友の墓を守っているなどと言い伝えられる。
※ ※ ※
「ここが、真白き清廊……ですか?」
「お入りなさい」
町を出て一日半。ようやく辿り着いた。
思っていたよりも小さい。深緑の木々の中にそっと、静かに佇むように現れた白い石材の社。
警護と案内を兼ねて付き添ってくれた先輩の巫女に促され、両開きの戸の片側から中に入る。
もうひとつ扉が。
北部の山脈の中だ。冬になればその寒さはつとに厳しい。
二重扉は里でも珍しくない。
二つ目の扉を潜ると、中は思ったよりも広かった。
無駄なものがないから広く感じるのか。
「魔石を足せばもっと明るくなりますが、この泉の広間では控えなさい」
「はい」
泉の広間。北部最大の町クジャの中央神殿、紡紗廟にもある。
冬でも凍らぬ水が湧く泉。
町の者の生きる水として敬われる泉。それと同じものがこの真白き清廊にも。
順序が違う。
この真白き清廊を模して、クジャの町に紡紗廟が作られた。
似ていて当たり前。
「ここに……」
「御覧なさい。あまり大きな声は出さないよう」
夢にまで見た場所。
清廊族の巫女に選ばれなければ、この真白き清廊に立ち入ることは出来ない。
九年間のお努め。それは清廊族の娘なら誰もが夢見ること。
姉神が遣わした伝説の氷乙女のお世話係として。
「本当に、ああ」
丸く囲われた泉の中央。
黒い水の中で眠る二つの裸身。
「言い伝えの通り……」
「アヴィ様と、ルゥナ様です」
互いに向き合い、少しだけ体を丸めて。
額を寄せ、水の中なのに息遣いを伝えようとしているかに見える。
そっと絡む小指と小指も。
長く真っ直ぐな黒髪がアヴィ様。両腕に巻かれた黒布もまた伝説のまま。
細く毛先が少し内巻きになっているのがルゥナ様。アヴィ様を助け支え続けたという。
「……ああ、本当に。本当にお美しい」
「清廊族の救い。姉神の化身とも呼ばれるお二方です」
「ええ、もちろん存じ上げています。清廊族で知らぬ者なんていません」
伝説で、憧れの存在。
誰もが恋焦がれる清廊族の救い主。
「この地を支配し、時の清廊族に暴虐の限りを尽くした人間を滅ぼしたと」
「苦しく、つらい戦いです。伝説の氷乙女たちも傷つき、失われ……」
ただの活劇物語ではない。
忌まわしい呪いと人間という種の圧倒的な数の力で、当時の清廊族は塗炭の苦しみの中にあったと伝えられる。
蹂躙され、滅ぼされる。そんな未来しか見えなかった時代があったのだと。
そこに現れた救い主。アヴィ様とルゥナ様。
彼女らの下に集い、共に戦った清廊族の守り手、氷乙女たち。傷つき、命を落とした者も。
仲間の犠牲や、伝えることさえ禁じられた苦難を乗り越えて果たした。
人間を駆逐してこの地を清廊族に取り戻した。
「アヴィ様は、案じられていたそうです」
先輩巫女が語り聞かせる。
「再び人間が現れることを」
「ですが……」
後輩としては、自然な疑問。
「人間は、滅びたのでしょう?」
「……」
「この地の人間は全て消え、旧大陸の人間は人間同士の争いで滅びたと。そう教わっています」
清廊族として子供の頃から教わる歴史。
苦難と悲劇の末に安らかな時を得た。その原因となった人間は滅びたのだと。
「ええ、確かに。氷乙女たちが旧大陸を目にした時には、既に何者も生きられぬ枯れた死の大地となっていたと」
「他にどこか?」
「その後数十年の探索、そして千年を過ぎた今も。人間の姿はもう世界のどこにもありません」
よかった。胸をなでおろす。
恐ろしい人間という種族がまだ世界にいて、一部の者だけがそれを知っているとか。そんな想像をしてしまった。
世界から人間は消えた。
この地での戦いと、人間同士の争いで。
言い伝えの通り。
「それでも」
先輩巫女が、泉の中のアヴィ様とルゥナ様を見やって続ける。
「アヴィ様は案じられていたそうです。いつか、どこからか。人間が再び現れるかもしれないと」
「それは……」
「その時の為にご自身は眠りにつかれると。氷乙女の中、ルゥナ様だけはそれに伴うことを許されたそうです」
一番の理解者で、大切な伴侶として。
寄り添い眠る二つの裸身。
「未来の清廊族に災厄が訪れ、危難に見舞われた時の為に。ここで眠ると」
「千年を越えて……」
まさに姉神の化身。清廊族の救い主。
眠る姿は、ただの少女のようにしか見えないけれど。
「他の氷乙女の方々がどう思われたのか、それは様々ですが。そうですね、貴女は……」
「はい」
「氷乙女の一柱の名を継いでいるのでしたね。トワ」
トワ。
氷乙女に名を連ねる祖先の名前で、自身の名。
トワの先祖は、伝説の中で彼女らと共に戦ったのだ。だからこそ憧れも強かった。
「はい」
「……どうですか?」
先輩巫女がトワに訊ねる。
いまいち意図がわからない質問にトワは首を傾けた。
「……アヴィ様とルゥナ様に、起きていただきたいと思いますか?」
「起きて……」
もう一度あらためて、眠る彼女らを見つめる。
美しい。
想像していた以上に美しい姿が、伝説ではなく手の届くところにある。
トワの手が届く場所に、恋焦がれた氷乙女が。
「……正直を言えば、起きていただきたいと。そう思っていました」
「……」
「こうしてお二方をこの目で見るまでは」
嘘はつかない。
つく必要がなくなったから。
「今は、ただ静かに。見守ることを許してほしいです」
先輩は心配していたのだろう。
不心得な者が役目を継げば、彼女らの眠りを妨げるかもしれない。
トワも、そんな邪心がなかったとは言い切れない。あった。
「だって、こんなに」
きっと、眠る子を見守る母の気持ち。
丸まって眠る獣の赤子のよう。
「こんなに穏やかに……幸せそうに、眠っておられるのですもの」
「そうですか」
ふ、と。
先輩巫女が息を吐いた。安堵の息。
「……合格です、トワ。清廊の巫女として貴女を認めましょう」
「?」
「起こしたいなど考えたこともないとか、つまらぬ嘘を言えば里に返すところだったのですよ」
試されていた。
まだ巫女として認められていたわけではなかったのか。
嘘をつけば失格。
変に取り繕わなくてよかったと、トワも安堵の息を吐く。
「十日に一度ほど、泉に小さな魔石を一つ。それ以上は不要です」
「多すぎたり、忘れてしまったりしたら?」
「あまりよくはありませんが、私たち以外に山の壱角の御方も時折見に来られますから。普段の生活はこの奥の部屋で――」
巫女として認め、ここでの暮らしを説明し始める先輩の後を追いかけ、立ち止る。
もう一度、黒い水の中の彼女らを見た。
穏やかに、安らかに。
何の不安もないような幸せそうな表情で、額を寄せ合うアヴィ様とルゥナ様。
黒い水に抱かれ、満ち足りた顔で。
「……」
ずっとこの姿を守りたい。
そう思うことが、たぶん清廊の巫女に求められる資質なのだろう。
――ずっと、いつまでも。お二方が幸せでいてくれたら。
母が願うように、トワもまたそう願う。
そう思い続けられる清廊族の生き方こそ、彼女らが守りたかったものなのだろうから。
※ ※ ※
戦禍の大地に咲く百華
完結:Normalエンドです。
ここから6話+1話
本当の救いまで辿り着くお話になります。




