第33話 燻る希望
もうどれほど前のことなのだろう。
ネネランの記憶にある明るい記憶の中で、最も新しいもの。唯一のもの。
他にもあったのかもしれないが、全て忘れてしまった。
汚泥と屈辱の中で、幸せな記憶など全て色褪せて、剥がれ落ちていった。
なのにそのことは覚えている。
それは希望だったから。
清廊族の希望。
いよいよ東部も人間にほぼ支配されたという中で、暗い雰囲気に占められた清廊族の村に聞こえてきた夢のような話。
近隣の、ニアミカルム山脈東南の麓の村に、壱角の赤子が生まれたのだと。
伝説の壱角。
人間どもに攻められ、次々と滅ぼされ、虜囚とされていく清廊族にとって、それは一つの希望として広まった。
この赤子が、きっと清廊族を救うのだと。
残虐で卑劣な人間どもを打ち滅ぼし、清廊族が生きる緩やかな時を刻む大地を取り戻してくれる魔神の使いなのだと、皆が口々に言った。
当時、まだ幼かったネネランも聞いている。
大人たちがその赤子のことを話すのを。
だが、現実はもう目の前に迫っていて、ネネランが安らぎの日々を過ごす時間は残っていなかった。
ネネランの村も人間の襲撃を受け、多くの者が死に、囚われた。
幼かったネネランが、それからどういう扱いを受けてきたのか。
つらい。
そんな言葉では言い表せないが、他に何を言っても変わらない。
救われない日々。
苦痛と絶望だけの生活の中で、ネネランが思っていたこと。
いつかきっと、壱角の子が強く成長して、清廊族を救ってくれるのだと。
清廊族を――私を、救い出してくれる。
そんな夢想だけがネネランの心の拠り所になっていた。
それも、何十年と年月を経れば薄れる。忘れる。
もう希望などないのだと、そう思っていたのに。
「エステノ、様……?」
幼心に聞いていたあの壱角の赤子。
年齢は、およそネネランから見て二巡り(14年)ほど若い。清廊族の年齢から考えれば、ネネランが幼児期に産まれた赤子と合致する。
何より、その額にある小さな角が。
よく言われる。
忘れた頃に希望が叶う。そんなことがあると。
だがネネランは思うのだ。
どれだけ残酷な毎日を積み重ねてきたとしても、自分の心の片隅には、いつも忘れずにあったのではないかと。
――いつか、壱角の子が、私を助けにきてくれる。
そんなおとぎ話のような夢物語を忘れられずにいたとして、誰がネネランを責められるのか。
※ ※ ※
翔翼馬は恐れていた。
野生の翔翼馬の話だが、サフゼンの父が捕えた翔翼馬の群れは、この断崖に近付くのを嫌がり暴れたという。
彼らは知っていたのか。
崖の下に、何がいるのかを。
「な、にが……」
「あれです! あれが、ムーヒトを……ひいぃぃっ!」
錯乱して逃げていく部下を、サフゼンは止められなかった。
見れば確かに悍ましい。
崖から、大地を埋め尽くすように、またそれら同士が重なるようにのたうちながら迫ってくる白い紐のような魔物。
その動きは生理的な嫌悪感と恐怖を湧き起こす。
サフゼンもまた、肌が泡立ち逃げ出したくなる気持ちを覚えていた。
「だ、誰かあれを、知っているか?」
それでもサフゼンはリーダーだ。敵を前に逃げ出すなど出来ない。
震える声で部下に聞いたが、返事はなかった。
「ま、魔法だ! 焼き払え!」
波のように迫ってくるそれらに向けて、炎の魔法を放つように指示する。
言ってから、我ながら的確な指示だったと思った。
正体が知れぬ不気味な魔物ではあるが、一匹一匹は決して大きくない。
せいぜいが手から肘くらいまでの長さの筒のような生き物だ。
大きな蚯蚓のようなものか。地面を埋め尽くすように迫ってくるから恐ろしく感じるだけで、手の付けられない戦闘力を持っているとは思えない。
「は、はいっ!」
「他の者は、逃げ出す影陋族を出来るだけ捕えろ! 足を狙って、捕えた者はヘリクルの荷車に乗せろ!」
「わかりました!」
魔物が出たとしても、サフゼンたち天翔勇士団がやるべきことは変わらない。
敵対行動を取る影陋族の討伐、拿捕と、魔物がいるのならその討伐だ。
むしろ状況は悪くないとも言える。影陋族は崖とサフゼン達に挟まれ、火が燻る木々の間で進退窮まっているのだから。
そもそもこちらは空にいる。地を這う魔物など恐れる必要はない。
「貴様ら! 武器を捨て投降するのなら命は助けてやるぞ!」
言うべきことはこうだ。
あの魔物の波に飲まれて死ぬのか、それとも降伏するのか。
命に代えられるものなどない。選択肢は決まったようなものだと。
「人間は皆殺し」
静かだが、よく通る声だった。
サフゼンの言葉をあっさりと切り捨てる。
「人間なんかに降伏するくらいなら死にます」
「セサーカ、死ぬ時は一緒だよ」
続けて他の者も。
頭の悪い連中だ。だから入植してきた人間に簡単に支配されたのだろうが。
「団長?」
「構わん、やれ!」
話していても仕方がない。
いざ魔物を目の前にすれば、いよいよ命惜しさに逃げてくるだろう。
サフゼンが示した方向に、残った魔法使いが自分の杖を向けた。
「祝焦の炎篝より、立て焼尽の赤塔」
放たれた火炎の渦が、影陋族が身を寄せる針のような葉をつける木々の、その上を焼き焦がしながら白い魔物の波に広がった。
※ ※ ※
頭の上を過ぎる炎熱に、皆が身を伏せる。
燻っていた火がさらに強くなり、木が燃え始めた。本来、生木というのは燃えにくい物だが。
敵の放った火炎の魔法が、びちゃびちゃと音を立ててながら波打つように迫ってくる魔物の群れを焼く。
(火炎の魔法は、私には……)
清廊族は水や氷、風の魔法は得意とするものが多いが、炎の魔法は苦手なことが多い。
ルゥナもそうだし、アヴィも炎の魔法は使えない。
魔法の詠唱に童話の一節を用いることから、炎に関係する神話伝承が少ないことも原因なのかもしれない。
ただ、こんな時には、使えればと思う。
炎に焼かれて平気な生き物は少ない。
高熱で体表を焼かれれば生命維持が出来ないことが多いし、熱すぎる空気を吸い込めば肺が焼ける。呼吸が出来なくなる。
それに、そもそもかなりの苦痛を感じるものだ。
即効性という観点で、氷雪の魔法よりも有利な部分がある。
『PIWIIIII』
『PYOHIIIIII』
甲高いというか、金属同士を擦り合わせるような悲鳴を上げながら、白い管状の魔物が炎の中でうねり、力尽きていく。
やはり効果がある。
このまま続ければ、いずれ魔物の数は減るだろうが……
(その場合に、この敵が……)
「ルゥナ様、まだ何かきます」
ユウラが小声で耳打ちした。
この状況で全員に聞かせて、さらに絶望させたくなかったのだろう。
「いえ、崖からではなくて……何か、走ってきます」
指さすのは、天翔騎士どもの後ろ側だ。
伏せた状態から顔を上げて、それを確認する。
「なんて、こと……」
グワンだ。
グワンに乗った兵士が、連中の後ろから走ってくる姿が見えた。
敵の増援。
(こんな……)
最悪な状況で、絶望的な情報だった。
「ルゥナ様! ダメです!」
トワの悲鳴は、今度は崖側を指していた。
振り返れば、炎の中からうねる魔物たちが溢れ出してくる。
焼けた仲間の体の下から、横から、隙間から。
這いずり出して、こちらに向かってくる。
「セサーカ、貸して」
アヴィが立ちあがった。
セサーカから冥銀の魔術杖を受け取り、魔物の群れに相対する。
「ルゥナ、あの男……見ていて」
アヴィが崖に向かえば、天翔騎士に背中を向けることになる。
先ほど投降を呼び掛けてきた天翔騎士のリーダーは槍を二本持っていた。投擲用だろう。
背中を向けたアヴィを狙うかもしれない。
「……はい。任せて下さい」
アヴィは諦めていない。
なら、ルゥナが折れている場合ではない。
アヴィを信じてほしい。
そう言ったのはルゥナだ。自分が信じないでどうするのか。
「ルゥナ」
「はい?」
「……ううん」
崖から迫る魔物は、アヴィが何とかする。
なら、残る敵はこの天翔騎士どもだ。まだ十騎ほどいるが、それらを倒す。
その後は、敵の増援を倒す。それで解決する。
「冷厳たる大地より、奔れ永刹の氷獄」
アヴィの詠唱を聞くのは好きだ。
謡うように諳んじて、清涼さと温かさを合わせた響きを残す。
普段は感情を感じさせないような声で話すのに、詠唱の時だけは少し違う。
ルゥナは、アヴィの詠唱を聞くのが好きだった。
「まだ……っ」
止めきれないのか。
氷柱を立てて防ごうとしているのだろうが、それを乗り越え、あるいは横から這い寄ろうとしているのだろう。
ルゥナは振り返らない。
燻る木々の煙の臭いと、アヴィが発したのであろう魔法の冷気を感じながら、空からこちらを睨む敵から目を逸らさない。
振り返れば、あの槍で貫かれるかもしれない。
このままなら、後ろから魔物に食い殺されるかもしれない。
どちらにしても死ぬのなら、アヴィを信じて死のう。
トワのことで色々と間違えてしまったという気持ちもあるが、せめて最期くらいはアヴィを信じて――
「な、なんで――」
ミアデの戸惑う声。
「どうして、こんな……」
ニーレが動揺するのは珍しいのではないだろうか。
敵を見据えるルゥナも気になった。
天翔騎士どもが狼狽している。
「あ、ああぁぁっ!」
声を上げたのは、地面を這う大トカゲの荷車に乗った男だ。
「ヘリクル!」
「う、うああぁぁぁつ!」
何を思ったのか、こちらに突っ込んできた。
大トカゲが荷車ごと、清廊族の皆が身を寄せる木々の間に突進してくる。
「アヴィ! ミアデ!」
エシュメノが叫んだ。
燻る木々の煙の中を突き進んでくる大トカゲに、三人が立ちはだかった。
「止める!」
「ん」
「わかった!」
後ろには戦えない者も、妊婦も赤子もいる。
仮にこの大トカゲを切り裂いても、このまま突っ込まれたら怪我では済まない。誰かが死ぬ。
エシュメノの判断は、正面から力押しで止める、だった。
アヴィとミアデにも声を掛けたのは、翔翼馬を越える大きさの魔物に、一人では力が不足すると思ったからだろう。
(崖からの魔物は?)
ルゥナは振り返ってしまった。
なぜ誰もあの白い魔物への対応をしようとしないのか。
そもそも天翔騎士どもは何を見て狼狽しているのか。
答えは簡単だった。
白い魔物の波が、割れている。
清廊族が身を隠す木々。その木と木の間には巨大な氷柱が立っているとはいえ、隙間もある。
だが、まるで清廊族のいる場所を避けるかのように、その白く悍ましい波が左右に割れていた。
「何が……」
何が起きているのか、ルゥナにもわからない。
だが少なくとも、この白い魔物はなぜだかこちらを避けて、その向こうにいる人間どもを餌と見做したようだ。
だから、あの大トカゲを操る男は、白い魔物が来ないこの場所を目指して――
「ふん、ぬぁぁぁぁぁ!」
「やああぁぁぁぁっ!」
「く、うっ!」
ルゥナの斜め前で、大トカゲとエシュメノ、ミアデ、アヴィが衝突した。
体当たりをする大トカゲに、三人がかりでそれを押し留める。
いくらか押し込まれたが、アヴィの力は常人では計り知れない。
エシュメノもミアデも相当な筋力を有している。その突進を押し留めた。
「う、わぁぁっ!」
衝突したはずみで、乗っていた男と、その奴隷らしい清廊族の女が荷車から跳ねだされてしまう。
「きゃああぁぁっ!」
どさりと、後方の清廊族の前に投げ出される男。
女の方は、咄嗟に何かに掴まろうとしたのか、エシュメノたちのすぐ横に落ちていた。
「う、うわぁぁぁぁ!」
天翔騎士の悲鳴は、白い魔物の一匹が、近くまで跳ねて来たからだ。
「うろたえるな! 魔法を――」
「サフゼン団長!」
大きな声を上げたのは、後ろから来たグワンに騎乗した兵士だった。
異常な状況に足を止めて、少し離れた場所から大声とあげた。
一人だ。
ルゥナは増援が来たと思ったが、その後続がいない。
「そ、そうだ、応援が来たぞ! これで――」
そのようには見えなかったが、味方を鼓舞するように声を張り上げる男。
本来ならこちらに伝えるべき事柄ではなかったのだろうが、天翔騎士の言葉を否定するように、グワンに騎乗した人間もさらに声を張り上げた。
「サフゼン団長! 大至急、トゴールトに帰還を!」
増援ではなかった。
そのグワン騎兵が一騎で駆けてきたのは、緊急の伝令のためで。
「トゴールトが襲われています! 天翔勇士団は大至急救援に!」
増援が来ることはなかった。
※ ※ ※
飛び去る前に、悪足掻きのように投げられた槍は、ルゥナが切り払った。
何やら罵声も残していたが、聞く価値はない。
それよりも。
「……汚い」
ぐしゃりと、トワが包丁を振り下ろした。
自分の目の前に転がり、トワに向けて手を伸ばしかけていた男の目に、逆手に持った包丁が突き刺さった。
脳まで突き刺さったそれが、男の最期に見たものだっただろう。
トワの顔は美しい。これを目に収めて死んだとしたら、人間の死に様としては幸せすぎる。
「う、うぅ」
エシュメノが呻く。
いまだ三人は、大トカゲと押し合いをしている。
おそらく主人の最後の命令が、ここへの突進だったのだろう。それを繰り返そうとする大トカゲとの力比べ。
「今、止めを」
呪枷があるのはわかるが、外したとしても魔物として行動するだけだ。
命令通りに突進しようとしているだけの今と違い、尻尾や牙を使って暴れられたら面倒になる。
三名が押し留めている間にルゥナがブラスヘレヴで首を落とす。
構えたところだった。
「ま、待ってください!」
間に入られた。
先ほどまでこの大トカゲが引く荷車に乗っていた清廊族の女が、大トカゲを庇うように手を広げて訴える。。
「ラッケルタを殺さないで!」
名前など知らない。危険な魔物だとしかわからない。
「……どきなさい」
「お願いです! この子は悪い子じゃないんです!」
「魔物です。呪枷がなければ制御出来ません」
問答するつもりはなかった。
おそらく奴隷として共に過ごしてきた時間での愛着があるのだろうが、それと他の仲間の安全と引き換えになど出来ないのだから。
「ルゥナ……」
だが、アヴィの気持ちは違うだろう。
清廊族と魔物が、何かの絆を結んでいるかもしれないと聞けば、アヴィが甘い判断をするのは予想出来ていた。
「首輪を、斬って」
「……切ったら、左右に暴れるかもしれません。気を付けて」
「その時は私が殺す」
結局、アヴィの言葉に甘くなる。
それにエシュメノも、きっと望むだろう。
もしかしたら魔物との絆があるのかもしれない、と。
(……私も、毒されていますか)
ソーシャのことを思えば、そうあってほしいと願ってしまうのだ。
ブラスヘレヴを一閃する。
はらりと、大トカゲの首に巻かれていた黒い呪枷が地面に落ちて、塵となって崩れ去った。
相変わらず不気味な呪いの道具だと思う。一体どうやって出来ているのか。
「あ……ラッケルタ」
女が、大トカゲの首に触れて語り掛ける。
「もういいの……もう、大丈夫だから……」
撫でながら、優しく語り掛ける。
「う、う……」
エシュメノが呻いた。
「こい、つ……押すのが、強くなって……」
ミアデの顔が歪む。
願いは、所詮は夢物語か。
女の言葉がトカゲの魔物の心に届くことはない。
「……仕方がありません」
再度、ルゥナが剣を構えた。
止まらないのであれば、始末するしかない。
「あ! ラッケルタ! いま、ごはんを用意しますね!」
ずるり、と。
ミアデが前のめりに転んだ。
エシュメノも、アヴィも、たたらを踏んでいる。
急に突進をやめて、まるで幼い子供のように足を揃えて引いた大トカゲに、それまで押し返していた力が抜けてしまって。
「ほら……ほら、言うこと聞くんです! ラッケルタはいい子なんです!」
「……いい子かどうかは、よくわかりませんが」
瞬きをするように、黒い目に瞼を被せて小首を傾げる大トカゲ。
「危険ではなさそう……ですかね」
「ああ、ラッケルタのごはん。すみません、そこに落ちてるの取ってもらえますか?」
「これ?」
荷車から放り出された荷物の中から、肉の塊らしいものをユウラが拾い上げた。
礼を言いながらそれを受け取り、大トカゲの口に運ぶ女。
それを、細い舌で器用にぺろりと掬い上げて、咀嚼もせずに飲み込む大トカゲ。
とりあえず餌付けは出来ているようだが。
「貴女はいったい……」
「ルゥナ様、まだです」
セサーカが、周囲に目を走らせながら緊張した面持ちで告げる。
「……」
ルゥナも周囲を見て、状況の悪さに眩暈がする思いだった。
白い管状の魔物。
その群れは、一度は天翔騎士どもを追いかけたが、戻ってきていた。
波打ちながら、ルゥナたちが固まる木々の周囲を取り囲んでいる。
「いたぁっ!」
「ミアデ!」
大トカゲを見回して一番外側にいたミアデが悲鳴を上げた。
その足の内腿に、白い紐が一本ぶら下がるように噛みついている。
「こ、このっ!」
咄嗟にそれを掴み、強引に引き剥がすミアデ。
内腿に血が流れ、顔を苦痛に歪める。
大トカゲもまたその白い魔物に怯えるように、木々の中心側に寄ってきた。
取り囲む白い波。
燃える枝と燻る幹が、ぱちぱちと音を立てて。
「……なぜ、襲ってこないんでしょうか」
先ほどもそうだった。
完全に波に飲み込まれると思ったのに、この魔物はこちらを避けていった。
もしかしてエシュメノの壱角の力か、とも思ったのだが、どうやら違う。
都合よく清廊族にだけ味方する魔物、というわけでもなさそうだ。
そんなものがいるとは聞いたこともないが。
大体、今はミアデが襲われた。
握って引きはがしたその白い管の先端に、鋭い棘がついた顎のような口がある。
これで食らいつくのか。
「幼虫……のような」
見た目は、芋虫だとかそういう昆虫の幼生体に思えた。
「これ……」
アヴィが、周囲を見回した。
周囲と言っても、大地を埋め尽くすような白い魔物と、燃えて燻る木々。その煙くらいだが。
「針木の松明……」
「あ……」
針のような葉をつける木。
針葉樹のそれは、その幹の中に含む脂の成分が強力な虫除けの効果を発揮する。
アリなどの昆虫系の魔物が忌避して逃げ出す臭いを出す為、針木の脂を含んだ松明は、独特な臭気で嫌われることもあるが、洞窟探査の冒険者などにはよく使われるもので。
針木の松明と言われていた。
かつて冒険者の奴隷だったルゥナも知っている。荷物として持たされていたこともあったのだから。
黒涎山にも、メラニアントというアリの大群がいるとかで、針木の松明が必要だと。
アヴィが言うまで気付かなかったが。
「これの、煙で……」
摩訶不思議な力ではなかった。
ただ単に、燃えたこの木の煙を嫌がって避けて行っただけのこと。
今も燻るこの煙のおかげで近付いてこないのか。
「みんな、中心に寄って下さい! なるべく煙の中に!」
敵の炎の魔法がなければ助からなかった。皮肉なものだ。
尖った針のような葉をつけた木だったので、翔翼馬を避けるのにちょうどいいだろうと思っただけだったが。
非戦闘員を含めて、全員をより密集させる。
ラッケルタも、この状況の危険さをわかっているのか、運命共同体のように一緒に身を寄せた。
「とりあえず……火が消えないように、その辺りに落ちている枝にも火をつけましょう」
枝に火を移らせて、白い魔物を牽制しながら煙が少ない方にも燃える枝をくべる。
今日が晴天なのは良かった。風も少ない。
空を飛ぶ敵にとっても有利だったのだろうが、この状況に至ってはとにかく煙が吹き消されないのが有り難い。
「ふっ!」
トワの投げた石が、数匹の魔物を砕いた。
ユウラとニーレも、煙で牽制しつつ、ラッケルタが乗っていた荷車に積まれていた槍を使って魔物を倒す。
木々が燃え尽きたり、雨が降ったりしたらお終いだ。
湧いてくる大群の魔物を、少しずつだが全員で倒し続けた。
無限にいるわけではない。少しずつでも数を減らしていく。
また、どうやら普段はやはり海の中にいるようで、長く地上に留まるつもりはないらしい。
夕刻くらいになると波が引くように崖の下に消えていった。
残された大量の白い死骸。
魔石は残らなかった。
やはり幼生体なのだろう。成熟した魔物ではないので、魔石は生成されないようだ。
地面に残された白い管状の死骸をラッケルタが拾い食いしている間に、周囲の針葉樹から手ごろな枝を伐採して火を灯した。
またあの魔物が戻ってくるかもしれないのだから。
「きっと、昔の誰かがあの魔物を追い払う為に植えたんでしょうね」
セサーカの言葉を聞いてみれば、確かにそうかもしれない。
環境から考えて、ずっと過去の清廊族の誰かがそうしたのだろう。
「ルゥナ……」
「アヴィ、良かった」
ほっとしたら、我慢が出来なかった。
涙が堪えられず溢れ出す。それはルゥナだけではなく他の皆も。
アヴィの元に、仲間たちが涙ながらに縋る。
正面の一番の場所はルゥナだ。どれだけずるくても譲らない。
中心で皆を受け止めるアヴィは、何も言わずに集う皆を受け止めるように手を広げていた。
ラッケルタを連れた女は、その輪からは外れていたが、やはり涙していた。
※ ※ ※