第324話 穴の底
どうして。
マルセナのことは心配いらないと言ったのに。
うん、って。イリアは答えたのに。
マルセナは平気。
寒いのには慣れている。
ずっと、ずっと。寒くて暗い穴の底で生きていたのだもの。
母様が話し聞かせてくれた物語にあった、冥府の底みたいな場所で。
※ ※ ※
這いずるように生きていた。
暗い、暗い。穴蔵の底で。
穴蔵の底の水溜まり。地底湖。
手にしていたのは小さな杖。子供用の。
穴蔵で産まれてくる魔物を殺して食らって。
母様が言っていたことは本当。
マルセナは清廊族で、清廊族は寒さに強い。暗がりも見える目がある。
始樹の底で生きていられたのは、普通の清廊族以上に過酷な環境にも耐えられる体質なのだろうとも。
何年も、何年も。
小さな魔術杖を頼りに洞窟で産まれる魔物を殺し続けた。
ぷちぷち、ぷちぷち。
氷の魔法は得意だったけれど、使ってはいけない。
母様に言われているから。
あまり得意ではなかった炎の魔法だけれど、毎日毎日毎日毎日続けていたら、染みついてくる。
少しずつ増えていく力と共に、魔法も洗練されていくのがわかる。
マルセナの中で少しずつ噛み合っていく。
強くなっていくのがわかると嬉しい。
いずれ母様に褒めてもらえるくらいに。
その時は、自分が何者だったのか、母様とは誰なのかも忘れていたけれど。
ただ生きて、食べていた。
母様が言っていた。
マルセナは可愛いって。
世界で一番、誰よりも可愛いって。
だから綺麗にしていましょうね、とも。
母様が下さった服は、長い年月で擦り切れなくなってしまったけれど。
地底湖で体を清め、顔を洗い、髪を梳いた。
そうしてなければいけないと思ったから。何もかも忘れていた間も、母様の言いつけに従うことだけは忘れない。
どれくらい経ったのか。
深い山中の深い洞窟に訪れる者があった。
訪れたのか、迷い込んだだけだったのか。
マルセナを見つけて驚いて、何かを話しかけてきた。
喋る魔物。
気持ち悪いそれがマルセナを可愛いと言った。だから殺した。
殺したら、頭が晴れた。
ああ、そうだった。
この魔物――人間を殺さないといけないのだった、と。
もっとたくさんの人間を、上手に殺さないと。
その為に生きて、その為に強くなったのだもの。
その時に殺した人間は何匹かいて、中には雌もいた。
服を奪い、道具を奪い。
それから洞窟を出た。何日も彷徨いながら。
人間をたくさん殺す為には、人間のことをもっと知らないといけない。
母様も言っていた。人間と清廊族は違うけれど、お互いを知ればもっとうまくやれるはずだって。
きちんと覚えていたわけではない。
曖昧な記憶の中、微かな記憶を頼りに人間のことをもっと知ろうと。もっとうまくやろうと思って。
町に辿り着いたところで聞かれる。
――その恰好、お嬢ちゃんも冒険者ってか?
ええ、そうですわ。
よくわからないまま、頷いてみる。
――見かけねえ顔だな。
初めて来た町なのだから、見覚えなどなくて当然。
どうしたらいいか尋ねてみると、その人間は馬鹿にしたように冒険者の集まる場所を教えてくれた。
駆け出しの小娘が痛い目に遭うだろうと。
そんな気持ちだったのかもしれない。
返り討ちにした。
マルセナを襲おうとした冒険者を返り討ちにして、殺して、奪った。
殺しても力は奪えないけれど、金銭や所持品は奪える。
冒険者同士の殺傷沙汰など珍しくもない。
けれど恨みに思う者もいるかもしれないからと、やや年齢の高い女冒険者がマルセナに言った。
この町を離れた方がいいと。
年を重ねた女の言葉だったからだろうか。素直に助言を聞いたのは。
ふらふらと、町から町へと移る。
少しずつうまくやることを覚えながら。
気が付いたら港町にいた。
マルセナに、いつもと毛色の違う人間が仕事を持ちかける。
娘と一緒に少しの間だけ探索をしてほしい。そんな依頼だったと思う。
優秀な娘だった。
驚くほど。マルセナが驚くほど優秀な。
どこか懐かしい誰かに似た顔立ちの少女。
相手からも、マルセナは魅力に映ったらしい。
可愛い、綺麗、美しい。大好き。
思い出す。そうだった、マルセナは可愛くて綺麗なのだと。
求められ、受け入れた。
なんでそんな気分になったのかわからなかったけれど。
でも、その後に怖くなった。
暖かさに。
奇妙な暖かさが怖くて、すぐに逃げ出した。
もっと強くならなければ。
マルセナはもっと強い力を得なければならない。何を犠牲にしても。
そうしないと目的が……目的は、なんだったか。それすら曖昧なまま。
強くなるためには魔物を殺さないと。
記憶の中に残っている魔物の物語。無限の力をくれるという黒い粘液状の魔物の言い伝え。本当にどこかにいるのなら。
もっと冒険者を利用する。
利用して、可愛い自分の体も利用して、さらなる力を得る。
強くなって、どうするのだったか。
何のために生きているのだったのか、わからなくなりかけていた。
そんな時に瞳に焼き付いた。
赤く舞う蝶のような戦士。
鮮烈で、綺麗で。
初めてほしいと思った。何かが。
なのにその蝶は自分の美しさにも気づかず、泥水を啜るような生き方をしていて。
不愉快だった。
どうせ腐った泥水を啜るのなら、マルセナのそれでもいいだろう、と。
※ ※ ※
「嘘つき……」
心配しなくていいって、うんって答えたのに。
「嘘つき」
違う。
偽ったのは自分。
ずっと偽り続けた。嘘をついて生きてきたから。
「イリア、わたくしは……」
トゴールトで焼け落ちる篝火を目にして、黒く焦げていた記憶が戻ってきた。
自分が何者だったのか、何の為に生きてきたのかを思い出した。
力への執着の理由も。
イリアを愛しても、信じきれない自分の疚しさの根っこも。
わかったけれど、話せなかった。今さら。
知られたら嫌われる。
イリアは清廊族を蛆虫のように思っている。マルセナのことだって、清廊族だと知れば……
隷従の呪枷があったから、それでよかった。
けれどいよいよ大陸に不穏な空気が広がってきて。
エトセン騎士団が本気でマルセナを殺そうとするのなら、イリアも死んでしまう。だって、あの母様でさえ殺されてしまったのだもの。
逃がした。
籠から蝶を放した。
二度とマルセナの下に戻らず、自由に飛んでいってほしい。
いってほしくない。
蝶は、マルセナの願い通りに舞い戻った。
母様が言っていたように、本当の愛というものなのかもしれない。
女神はきっと清廊族。
清廊族でありながら人を愛した女神なのだと。母様が言っていた。
話してもいいのだろうか。
嫌われないだろうか。
裏切り者と謗られ、憎しみの感情をぶつけられないか。怖かった。
言えなかった。
マルセナが清廊族だと伝えていたら、氷の魔法からマルセナを庇ったりしなかったのに。
言わなかったから、イリアが。
イリアが――
小さな懐かしい家で、紅蓮の炎の中に消えた母様のように。
つい先日、青白い炎の中で空に消えていったクロエのように。
消えてしまう。
「いや……いやです、イリア」
死なせない。死んでいない。
繋ぎとめている。時も凍る氷の魔法だもの。マルセナは上手に出来たはずだもの。
「わたくしが……わたくし、謝りますから。ちゃんと話しますから、お願いです」
偽り続けたことが罪なら、真実を話す。
話して謝るから、だから死なないで。
マルセナを、また独りぼっちにしないで。こんな世界に。なんでも言うことを聞くから。
「神洙草は、母様に命を下さったって」
崩れた山の残骸。
地割れと砕けた岩石や土砂が積もった跡。
「ここですわ、ディニ!」
この辺り。
山の中腹だっただろう場所。
氷の柩と共にそこに降りる。
このどこか地中深くにあるはず。神洙草が。
枯れ葉でも、一片でもいい。どうして前に来た時に神洙草のことを思い出さなかったのか悔やんでも悔やみきれない。
「……」
途方にくれる。
どれだけの時間が必要なのだろう。
草木の影もない瓦礫の中で、伝説の水草を探すなど。
その間に死んでしまうのではないか。
暗い冥府の底に、イリアの魂が連れていかれてしまうのではないか。
マルセナは正気ではなかった。
イリアの命を拾わなければ、マルセナは枯れ果てた世界で、永遠の孤独を過ごす。
恐怖。
そんな絶望を知っていて、だからこそ怖れる。
何がどうなっても、もう二度とそんな世界は見たくない。その為になら世界なんて滅んだって構わない。
「ディニ!」
世界を滅ぼす力なら、ある。
「山の魔物全てに命じて! 町の人間……世界中に生きる全てを殺して!」
冥府に、底があるのなら。
埋めてしまえばいい。
世界中の命を冥府に送り込み、屍を積み上げる。
全ての命を放り込めば冥府だって塞がる。埋まる。
イリアがそんな暗い場所に行けないように。
「世界を、殺しなさい! 今すぐ!」
嘶いた。
空の上からディニの嘶きが山々に響く。
響いていった先から、狂気が渡る。殺意が満ちる。
狂った殺意が山々に響き渡り、さらに狂気を呼び起こす。
かつてエトセンの英雄が危惧したように。
魔物に命ずる力を持つ魔物がいた。
そして、命が下された。
一年前にも狂気に駆られた魔物の群れはあったが、それはあくまで異質な魔物――混じりものに怯えた為の暴走。
これは違う。
ニアミカルムに生きる魔物たちが殺意に駆られて一斉に山から溢れ出した。
そこから一番近く大きなレカンの町に向けて、雪崩のように。
※ ※ ※
 




