第319話 夢の残香
杖に響く。
ダァバの力が流れ込む。
ダァバの作る約定の枷。呪いの環を嵌める力が溢れる。
呪いを上書きする。
ここでようやく理解した。先のサジュでの失敗を。
女神の軸椎。あれで上書きできぬ呪いが既にあったのか。
同等の力。この翳る瞳孔により、既に枷が掛けられていた。だからうまく呪いがかからず、弾かれた力が返された。跳ね返った力で軸椎が砕けた。
並の呪術師ではない。ガヌーザが先に呪術の枷をかけていた。
呪術の一芸においてはダァバを上回るガヌーザだ。そこは素直に負けを認めよう。どうせもう死んだ男だ。
しかし、この娘は違う。
架された呪いの枠は当たり前のもの。特別なものではない。呪術を極めたダァバには感じ取ることができた。
上書きできる。今のダァバになら十分に。
翳る瞳孔がダァバの力を受け、赤黒く輝いた。
鈍い輝きと共に、頭痛が増す。やはり相性が悪い。残った連中は叩き潰すとしよう。
ダァバの愛奴となった女と共に。
想像すれば実に、気分がいい。
頭痛が少し和らぐ程度には。
「女神が見入る」
唱える。
既に翳る瞳孔に囚われ、荒れ地の真ん中で動きを止めた女に。
「ルゥナ!」
遅い。もう遅い。
詠唱の隙を計算できぬほど未熟な呪術師ではない。
「女神が見入る。衷心の腑底に根差す無私無極の愛寵を――」
杖に響くダァバの力。
残響のように震える声。
「――?」
響く。
勝手に。
ダァバの意思と無関係に、繰り返すように。
残った声。詠唱。
「これは……っ!?」
呪術の至高が先触れと言うのであれば。
外法。下法。
未熟な呪い士がやる失敗。
意図せぬ形で、意図せぬ時に過去に使った呪術が発動する事故。
残響。残滓。残り香。
「食べ滓……っ!」
そんな風に呼ばれる、名前すらない下らぬ現象。
なぜ今ここで。
ダァバではない。
そんな稚拙な失敗をするわけがない。
だとすれば。
「が、ぬーざぁぁ‼」
灼爛の飛沫も、偏頭痛の呪術も。
全てこの仕掛けを誤魔化すために。
ガヌーザが仕掛けていた。呪術の失道と呼ぶべき食べ滓を。
死んだガヌーザに力はない。死んだ者は死んだ者。
だからダァバの力を吸って発動するように。
ダァバの言葉で発動するように。
意図せず発動し、術者に返るような仕掛けを翳る瞳孔に仕掛けていた。
清廊族の女を捉えた濁る赤い宝珠は、その反対側にダァバを映している。
一度放った呪術を、残響として、もう一度力を込めた時に発動させた。意図と逆に。
「ぐ、あぁぁぁっ!」
懺睨の眸子。
先ほど勇者に切り裂かれた呪術が、自分自身の力で自分に降りかかる。
ダァバ自身の力だ。半端な力であるわけもない。
先ほど勇者は切り払ったが、ダァバは完全に無防備だった。
杖から手が離れない。赤黒い輝きがダァバ自身を包み――
「あのくそガキぃぃ‼」
打ち払った。
歯軋りをしながら、走っている途中で生やした左手で胸を掻き毟り。
ちくりとした痛みが首に。
短剣使いの女を殺した時だ。最後に投げつけられた短剣が首を掠めた。
痛みがあるということは、あれも何か特殊な力があったのかもしれない。掠っただけで助かった。
そうだ、ダァバはやはり不運ではない。
これだけ邪魔は入っているが、それも世界を制する為の障害。終局戦のようなもの。
永遠の神になるまでの最後の難関。それに立ち向かうだけの資格が自分にはある。
「お、まえら……なんか、に」
息が荒い。
自分の呪術に嵌まりかけた。
消耗もひどいが、なんとか枷を破った。ダァバもまた神に並ぶだけの実力者の証。
ガヌーザは見誤ったのだ。
ダァバの器量を。
「大丈夫、ルゥナ?」
「平気です、アヴィ」
並び立つ女戦士たち。
ダァバに強い敵意の視線を向ける。
荒い息で睨み返すダァバだが、動くのも億劫だ。その様子を受けて互いの視線を交わした。
「アヴィ……アヴィ、私は……」
「……」
「マルセナを……あの子を、助けて下さい」
逡巡。
頼む方も、頼まれた方も。息を飲んだ。
「あ……ご、めんなさ――」
静かに。アヴィと呼ばれた女が唇を重ねた。
「……いいの」
許す、と。
何の茶番を見せられているのか。
ひどく消耗して、頭痛と眩暈に苛まれるダァバの前で。
「……あの勇者は、私が殺す」
「ダァバは妾が討つ。ルゥナのことは任せよ」
逡巡はわずかだった。
頷き合い、長い黒髪をたなびかせて女は駆け出した。
ダァバの横を抜け、さらに北西に。
舐められたものだ。
確かにひどくダメージを受けた。半分以上自爆だが。
それでも、この期に及んでさらに戦力を分けるなどと。
「本当に……馬鹿な連中だな、お前たちは」
「お前ごとき、アヴィが相手にするまでもありません」
「本来なら妾だけでやるべきことじゃ。腐った裏切り者の始末なぞ」
本当に、愚か者め。
勘違いをしている。
先ほどは確かに呪術を失敗した。
しかし、呪術を失ったわけではない。
サジュの時のように砕けたわけではないのだ。この翳る瞳孔は。
ダァバが自らにかかった呪いを自力で振り切っただけ。
一度、失敗をしたのなら。
今度は確認する。
翳る瞳孔に仕掛けられた罠。ガヌーザの下法。
食べ滓はもうない。今度は正しく発動する。
息を整えれば、何も問題はない。
この二匹の女。両方を愛の奴隷として、先に進んだ女に見せてやったらどうだろうか。
泣き喚く姿を想像する。
その前に、あの実力では勇者とやらに返り討ちになるのも間違いないが。
至極残念。
まあ仕方がない。何もかもを手に入れようとして、これ以上の醜態を晒すのも嫌だ。
息を吐いた。
溜息を。
そして、息を吸う。
「女神は見入る――」
駆けてくる女ども。
中々の速度で、小振りな魔術杖をダァバに振り下ろそうと。
並の呪術師であれば、双対のその攻撃に対処できなかっただろうが。
ダァバは違う。肉弾戦でも英雄を上回る技量の戦士。
十分に対処して――
「?」
何かを投げつけた。
小さな拳ほどの袋。
見覚えがある。
転がった翳る瞳孔をトワと奪い合った時に、破裂した袋と似ている。
なるほど。
爆発する風でダァバの詠唱を止めようという作戦だったのか。
ダァバが杖を取りこぼすほどの風圧だった。確かに魔法使いの詠唱を止めることも可能だろう。
「衷心の腑底に根差す、無私無極の愛寵を――」
このタイミングだろう。
ここで息を継ぐのを、風で防ごうと。
運がない女どもだ。
知っていれば、わかっていれば。どうということもない。
さっきトワが無駄なことをしなければ、これを知らぬダァバは驚き戸惑っただろうに。
確かに、先ほどからのダメージのせいで息が切れ切れのダァバは吸い込む。
最後の発露をさせる為の言葉。それを紡ぐ為に。
そこに合わせて見事な仕掛け。
可愛いものだ。
こんな手でダァバを止められると思っている幼稚な手管。
愚かな蛮族の、年若い娘たちの頑張り。
それらがダァバに屈する未来が、瞳の奥に浮かび上がった。焼き付くように。最後の言葉を紡ぐ為に息を継ぐ。
「――――っ‼」
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