第311話 名も無い花
「捨ててきなさい!」
仕方がないことかもしれないが、心が痛む。
生まれてから二年もその姿を見てきたのだ。畜生とはいえ心が痛む。
「そんなもの、早く殺して捨ててしまいなさい!」
二十年仕えた主が、青ざめた唇で呪う言葉を吐く姿にも、胸が痛む。
アーノシュトは従者として、主人イナンナのことも幼い頃から見てきた。
ヘズの町に新たに赴任した高級官僚ビクトル・オーブリー。その妻であるイナンナ。
ネードラハから嫁いだ彼女に付き従い、ヘズの屋敷に来た。
アーノシュトだけではない。他の使用人もイナンナのお抱えは皆連れてきている。
ロッザロンド大陸育ちという点が、結婚をイナンナに頷かせたのだと思う。
田舎者ではない貴族階級。アトレ・ケノス本国からカナンラダ大陸に渡ってきた新人。
最近、名を轟かせる従姉妹の少女への対抗心もあったのかもしれない。
しかし、イナンナの期待と現実は違った。
アーノシュトが見る限り、ビクトルは全く悪い人間ではない。
真面目な堅物。悪く言えば面白みのない男。
イナンナ・ミルガーハの興味が薄れるまでさほど時間は必要なかった。
ヘズは歴史の浅い町だ。
前任のここの将校が不正を働いた――正確に言えば不正が表沙汰になった――ので、本国から新たに派遣されてきたのがビクトル・オーブリー。
この地に骨を埋めると言って妻を娶ることにして、それがミルガーハ家の耳に入った。
そうしてまとまった縁談だったのだが。
ビクトルは現在、カナンラダにいない。
結婚して一年も経たぬうちに、本国への調査報告などの為にロッザロンドに再び渡った。
アーノシュトにはわからないが、色々な仕事があるらしく三年は戻れないと。
夫に飽いたイナンナ。
元々奔放な性格だ。火遊びに手出しするまでほとんど時間は必要なかった。
影陋族の若いオス。
珍しい薄い金糸の髪を持つ美丈夫――美少年が捕らえられたと。
一目で気に入り、少なくない金額を即座に払って飼う。
ミルガーハ本家ならともかく、今のイナンナはオーブリー家の妻だというのに。
イナンナお抱えの使用人が、ロッザロンドにいる余所者の夫ビクトルに告げ口をするわけもない。
いや、その時点ならまだ海の上だったか。港を発っていたかも怪しい。
ほどなく、妊娠が発覚する。
誰も疑わなかった。疑問に思うことさえ許さなかった。
ロッザロンドに旅立つ前に、ビクトル・オーブリーがイナンナの腹に子を残していったのだと。
他に考える余地はなかったし、不貞を疑う言葉など吐けるわけもない。
アーノシュトにも身に覚えはなかった。
海の向こうの夫に手紙を出す。
あなたの子がお腹に。ヘズの町に。
お早いお帰りをお待ちしております、などと。文面を考えたのはアーノシュトだが。
船で数十日掛かる距離だし、陸についてからも同じほどかかる。
返事の手紙が届いたのは一年後だ。
ちょうど、その頃に生まれた。
その時点でおかしかったのだが。
我が侭なイナンナも、腹を痛めた我が子にはそれはもう愛情を見せた。
彼女に似た美しい金髪の赤子。
少しお腹にいた時間が長いくらいなんだ。そんなこともあるなどと、医者も適当なことを。
しかし、二年が過ぎようとしていて、今これでは言い訳のしようもない。
疑いようもない。
いまだ赤子の域を脱さない。
普通なら二本足で歩き、拙くとも会話を発するだろうに。この子は。
「殺して、捨ててきなさい」
青い唇で、震える唇で。
目を背けて首を振るイナンナは、この赤子と同じくひどく幼い。
「旦那様には……」
「赤子は逸り病で死んだと。わたくしはそれを苦に泣き伏せっているのです!」
「……」
そう言うしかあるまい。
手紙は出したが行き違いか届かなかったとか、そんな言い訳も通らなくもない。
もうじき夫ビクトルが帰ってくる。この赤子を見てどう思うのか。
「あれは……もう、処分したのでしょうね?」
「はい、間違いなく。お嬢様」
「……」
爪を噛む。
身を震わせて。
「だいたいあれが……あなたたちだって言ったでしょう! 人間とあれとでは違うって!」
「お声を静めて下さい、イナンナお嬢様」
「わたくしを騙したのですか、アーノシュト!?」
「滅相もない。女神に誓って、そのようなことは」
八つ当たり。
自分の火遊びが招いたことだろうに、長く仕えるアーノシュトに責任があるかのように。
かなり精神が不安定。ビクトルが帰ってきても、この様子なら本当に心を病んでいると信じてもらえるだろう。
あれ――イナンナの玩具の処分。
もちろんした。イナンナの意向とは違ったけれど。
経済観念がズレているイナンナに合わせていてはやっていけない。ミルガーハ本家もいつまでも金を出してはくれないだろう。
非常に希少な外見の影陋族だ。
近場ではどこで伝わるかわからない。伝手を使ってミルガーハとは別の、隣国ルラバダールの奴隷商に密かに買い上げてもらった。
それなりの金になったので、イナンナの散財の穴埋めに使える。若いオスの方が高いとは有り難い。
しかし、まさか影陋族とイナンナとの間に子が生まれるとは。
ごくわずかにそれらしい事例は過去にもあったが、全て死産だった。産まれぬものと決めつけていたアーノシュトに非が無いとは言い切れないか。
「殺して……そうね、魔物の巣に捨ててきなさい」
「お嬢様、それは……」
「いつまでもお嬢様ではなくってよ、アーノシュト。今はわたくしがこの家の主人だわ」
身勝手なことばかり。
夫の留守を守るどころか、こんな災厄を招き入れていた張本人が。
憐れになる。
妻を疑いもしない夫ビクトルのことも。
母に死を願われる赤子のことも。
「それをすぐ殺して、二度とわたくしの目に触れないところに捨ててきなさい!」
「……わかりました、奥方様」
頭を下げ、受け入れた。
問答をしていても仕方がない。
不貞の証拠になる赤子を生かしておけるわけもない。
アーノシュトがイナンナを嫌いだったのなら。
この場で赤子を縊り殺していたかもしれない。
お前の勝手がこの子を殺すのだと、仕返しとばかりに目を背ける馬鹿な女に見せつけてやっただろう。
しかし、アーノシュトはまだ若い頃から、幼いイナンナに仕えてきたのだ。
彼女の馬鹿さ加減などとうに承知していて、どれだけ馬鹿だと思っても泣かせてやりたいと思っているわけではなかった。
※ ※ ※
「アーノシュト様、万事滞りなく」
「戻っていたのか」
年若い少年。トーマ。
これは本当に若年の少年だ。見た目がアーノシュトより若いだけではなく、本当に。
妙に畏まった喋り方をするのは、上位の人間に対してうまく話せないからだとか。
「彼らは間違いなくルラバダール領内に入りましたもので。間違いなく」
「そうか」
「ミルガーハ本家にも悟られておりませんかと」
方々に気を遣う。
罷り間違ってミルガーハ本家に件の奴隷少年が戻っていたりしたら、さらに間違えてイナンナの目に触れることがあるかもしれない。
ミルガーハ本家にもどういう思惑があるとも限らない。全てがイナンナの味方でもない。
縁もゆかりもない地に出たことを確認しておきたかった。
心配しすぎかもしれないが、しすぎて悪いこともない。
「すまなかったな、雨の中」
「いえ、この程度は平気でございますが。ふむ、ふむ」
頷く。
何度も。
アーノシュトが抱える赤子を覗き込み、興味深そうに。
「……泣きませぬな」
「性格なのか、影陋族というものがそういうものなのか」
あまり大泣きをしない。
見た目は本当に母親似。イナンナの幼い頃を思い出させる。
「……もう一仕事、頼めるか?」
「それはもう、何なりと」
トーマ少年は喜んでというように両手を広げた。
アーノシュトが何を頼もうとしているのかわかっているのか、いないのか。
「町の近くに魔境があるだろう?」
「始樹の迷宮でございます。深さは不明、ですがさほど強い魔物は出ないと。とある方が迷宮の首魁を討伐したとか」
名前を出さないのは知らないからなのか、知っているからなのか。
イナンナがその名を嫌っていることを。
本当に、方々に気を回さねばならない。
「入り口まで……いや、中まで付き合ってくれるか?」
ヘズの町近くに異様な巨木がある。カナンラダ大陸最大の古木。
その地下に巡る根が作った迷宮。
迷宮とは言うが、根が作ったものなのでどこかしら地上に通じている。
深さは知れず。
中に巣食うのは虫系の魔物ばかり。古くから住み着いていた強大な魔物は数年前に討伐された。
特に旨みがなく、冒険者が潜ることもない洞窟だが。
「私は戦いは得手ではありません」
「荷物と赤子を抱いていてくれればいい。これでも準勇者に近い力はある」
「そういうことでしたら」
魔物の巣に赤子を捨ててこい、などと。無茶を言う。
普通ならその巣に行くまでにどれだけの魔物と戦わねばならないのか。わかっていないから言うのだろうが。
底知れぬ洞窟と、這いずる虫の巣窟。
猛獣のような魔物相手では面倒だが、噂で聞く限りこの魔境は少数でも十分に踏破できる。
魔境の奥底に赤子を捨ててくる。それだけで済む。後は魔物の餌食だ。
間違っても、この赤子の一切れでも日の下に出ることはあるまい。
イナンナの面影を宿す赤子を、アーノシュトの手で殺せなくとも。
数年後にイナンナはロッザロンドから戻った夫との間に子を産んだ。
それから程なく、アーノシュトは強く願いネードラハに戻ったと言う。慣れぬ土地での暮らしに疲れたのだというのが事実だったかどうか。
イナンナが、彼女をよく知る付き人が離れることを認めたのは、彼女にも離れたい理由があったのかもしれない。
ネードラハに戻ったアーノシュトが高齢になってから設けた子がいる。物心つく前にアーノシュトは他界したが。
その子が再びミルガーハ本家令嬢の付き人となり、エトセンに向かい、そこを襲う戦火から逃げ延びる途中で巨大な怪物に潰されて死ぬことなど知る由もない。
知ることがなくて幸いだっただろう。
アーノシュトと共に、始樹の迷宮探査に赴いたトーマ少年。
彼はその後、才を見出され呪術師に弟子入りしたとか。
――愛に生きる者に幸いあれ。
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