第307話 気まぐれな女と目論む男
「愁優の高空より、木漏れよ指窓の窈窕」
マルセナの謡う声が温かくイリアを包む。
やわらかく、優しい。
「マルセナ、寒くない?」
「これでしばらくは持つでしょうが、イリア」
案じたイリアに対して少しズレた返事をしたのは緊張しているからか。
視線を外したままのマルセナの表情は硬い。
輝く息吹のような吹雪。飲まれればあっという間に命を失いかねない。
そんな中に向かっていかなければならないのだから。
「わたくしのことは心配いりません。あの男を何としても仕留めます」
「うん」
頷いてはみるが、心配するななど無理な話。
ダァバという男がどれほど危険なのかは身に染みている。ここで仕留めなければならないこともわかる。
「この様子だと、よほどガヌーザに手を焼いているのでしょう」
「みたいね」
レカン西門の戦いの気配と、見境の無い範囲攻撃。
正面切っての力比べならイリアはガヌーザに負けないつもりだが、そもそもガヌーザはそういうタイプではない。
様々な手管で相手を引っ掻き回す。
元の実力もさることながら、あの呪術師を相手にするのはさぞ苛立つだろう。
腹立ちまぎれにとにかく全部を氷漬けにしようとした。まんまと術中に嵌まっているのではないか。
「……」
「放っておいてかまいません。あれも清廊族、この寒さでも簡単には死なないでしょう」
イリア達を追って屋根を駆けてきた灰色の娘に、マルセナは首を振った。
あの娘もダァバとは対立しているようだ。今は相手にしている場合ではない。
「いきま――」
「マルセナ!」
進もうとした瞬間に、猛圧を感じた。
凍り付いた西門が迫ってくるような。
「っ!」
砕け散る。
凄まじい速度で巨石でもぶつかったのかという破壊力。
凍り付いた西門が砕け散り、降り注ぐ氷や岩の破片からマルセナを守った。
「はあぁぁ!」
弾き返す。
西門に近すぎて避けていられない。マルセナを背中に庇ってぶつかる破片を短剣と拳で打ち払った。
「ぐうぅ!」
「しネえィ!」
降り注ぐ瓦礫の中、猛禽の爪を剣で受け止める男が吹っ飛んできた。
鷹鴟梟と、清廊族の奴隷の男。壮年から初老の。
受け止めきれない爪を肩に食い込ませながら、右手を振り上げるのが見えた。
さらに食い込む爪。
それと刺し違えるように、振り上げた右掌底を鷹鴟梟の横頭に叩きつけた。
「ブえ、あアぁなめルなアァァ!」
「が、はっ」
深く、爪が突き刺さった。
命に届くだけの深さ。しかし――
「――っ!」
名前など知らないが、男が鷹鴟梟に一撃を食らわせた。
それを殺そうと意識が向いている今ならば。
イリアの一閃。
エトセンで拾った短剣。クロエの命を奪った短剣が、届かない。
横頭を殴られた衝撃からか、あるいは一度離れて止めを刺し直そうということだったのか。
壮年の清廊族を離したことが鷹鴟梟にとっては幸い。イリアにとっては痛恨。
「貴様ラ!」
「勘のいい!」
どさりと男を投げ出して空に逃れる鷹鴟梟に舌打ちするが。
「極光の斑列より、鳴れ星振の響叉」
ふらついた。
左頭を強く殴られた直後、イリアの斬撃を避け飛んだところで別の衝撃を受けてわずかにバランスを崩した。
イリアとマルセナの存在に気を取られた次の瞬間に、凍てつく空気が爆ぜるように震えて鷹鴟梟を打つ。
灰色の娘。協力を約束したわけではないが、いいタイミングだ。
鷹鴟梟と戦っていた男はかなりの深手だがまだ命はある。
「チぃ! おまえラなど、に」
左頭から黒く濁った何かが少しだけ垂れていた。
頭を振り、忌々し気に見下ろしてから背を向けて飛び去る。
この清廊族の男を片付け、ダァバを支援するつもりだったのだろう。
憤りに任せてイリア達に構っているより、主であるダァバの安全を優先しなければと判断したのか。
「逃がさない!」
ダメージを負わせたのなら、今が攻め時。
伝説の魔物相手にそうそう好機など訪れない。態勢を整え直す時間など与えない。
それでなくとも、イリアもガヌーザと合流するつもりだったのだから、即座に追う。
「血道の疵口に、揮え偲悶の痍莎」
「愁優の高空より、木漏れよ指窓の窈窕」
意外。
というか、意表を突かれた。
マルセナと、灰色の娘。
深い傷を負った男に、ほとんど同時に治癒の――たぶん治癒の魔法を紡いで。
「……」
灰色の娘は呻く男には一瞥もしない。
ただマルセナとは一瞬だけ視線を交わして、すぐに駆け出した。
イリアにはわからないが、なんだか嫌な感じだ。マルセナがイリアとは別の誰かと心を通わせたようで。
「マルセナ?」
「ただの、気まぐれですわ」
ただの?
今まで、ただの一度だって、そんな風に見知らぬ誰かに優しさを分け与えたりしただろうか。
「……」
こんな時なのに、イリアの知らないマルセナの姿が、やけにイリアを不安にさせる。
だから。
だったら、猶更。
マルセナのことをしっかり掴まえておかなければ。イリアに出来るのはそれだけなのだから。
※ ※ ※
極みとはこういうものなのだろう。
ガヌーザは一つ充足を知った。
ダァバは不世出の魔法使いだ。歴史上、これより上は存在しない。
世界の果てを知る者。ガヌーザの望むものとは違っても、極みを知る者を知ることにある種の楽しさを覚える。
武の道を進む人間が、武の極みの技を見て心を震わせるように。
ガヌーザもまた、ダァバの容赦のない魔法を目にして似た感動を覚えた。
炎の魔法であればマルセナのそれも美しい。
敵味方の立場は違っても、ただ優れた技を見て喜びを感じる。
呪術の道では他の誰も見せてくれないもの。世界の果て。
「なんで生きてる?」
ダァバが顔を顰めた。
人間なら確実に凍え死んでいるはずの氷雪の中で笑うガヌーザに。
「師が言われた、ゆえ」
「?」
「にひゃく、ねんを生きる、と」
記憶にあった。
ダァバの知識がどこから来るのかという質問に対して、戯れのように答えていたことを。
「なれば人、ではなし……人でなくば、氷の魔法がある、かと」
「それで備えていたっていうのか。全く」
呪術の薬で、極寒に耐え体を温めるものがある。
トゴールトに遠征した際のエトセン騎士団も使っていた。
飲むことと合わせて首や脇に塗り込むことで体温を維持してくれる薬。
二百年を生きる人間などいない。清廊族なら有り得る。
ダァバが清廊族ならば氷雪の魔法を使うかもしれない。
尋常なものではあるまい。瞬く間に凍死する天災のような魔法だろう。
呪術の技であれば、ガヌーザは誰より卓絶している。
それを用いて備えただけのこと。
「真なる呪術の扉を開くは愛なくばならぬ」
すらりと、口にして。
「ひゃ、ひゃ」
おかしかった。
考えてみるまでもなく、最初からおかしかったのだ。
ダァバが呪術の扉を開いたのはなぜなのか。
「女神……姉神は清廊族で、あり」
「ああ」
「清廊族……憐れでか弱きそれへの愛、に、気づいたものだけ……が、呪術師となり」
呪術の素質。
女神を愛し慕うことで呪術の素養が芽生えると言うが、それだけなら多くの人間が有することになる。
けれど実際に呪術を扱える人間は多くない。
人間以外を愛する性質。
一部、獣を愛欲の対象とする者がいるように。
自覚のあるなしは関係なくそこが始点。
呪術見習いとなり、道を進むうちに気付く者がいる。
女神は清廊族なのだと。
カナンラダ大陸発見前から神話で伝わっていた。清廊族という種族の名は。
清廊族の実在を知る以前に呪術師として開眼した者は、本当に希少な存在だったのだろう。
あるいは妄想の中の存在にしか愛を抱けないような種類の奇人だったか。
ガヌーザが、夢想と思える花園の世界を夢見たように。
人間でありながら、人間ではない清廊族への愛を持つ者。
情愛、性愛、友愛、偏愛、妄愛。なんでも構わない。
それこそが呪いの道になる。
だとしても、ダァバが誰かに愛など抱くだろうか?
己以外に興味のないこの男が?
なんのことはない。
自己愛だ。ダァバは自分以外の何も愛してなどいない。それがたまたま清廊族というだけ。
長寿な種族特性については、実際に愛を感じていたのかもしれない。
わからないのは、ダァバは清廊族のはずなのにその魂は人間と見做されていること。だから制限はあっても呪術を使える。
清廊族から離反したようでもあるから、その辺りが理由なのか。それはガヌーザにもわからない。
「話していても仕方がない。素直に僕にその杖を渡さないのなら」
「なら、ば……?」
今さら何を。
この杖が必要だと言うのなら、必死で守ってみせよう。
ガヌーザがそうすればするだけ欲するのだろうから。
翳る瞳孔。ププラルーガ。
ダァバは言っていた。見たくないものを見せると。
ガヌーザは、見ることができた。見たいものを。
見たかった世界を。
マルセナの存在が見せてくれた。ガヌーザの望んだ世界。
どうやらそれは届かないようだが、しかし。
もうひとつ、その世界に届く道筋があるらしい。ガヌーザには見えていた。
「花だけ、でよい……花が花を産む、世界に……」
花を摘み、貪るものなどいらない。
ガヌーザが望んだのは、ただ美しい花たちが美しく咲くだけの花園。
そんな世界は有り得ないと諦め、枯れて、しかし今はその為に力を尽くす。
「師よ……必要ないの、だ……この世界にぬし、は」
「僕がこの世界の主だ。僕が決めることだ」
ぎろりと、濁った赤目がガヌーザを捕らえた。
頬がひくついている。よほど癇に障ったらしい。
「ひゃ」
それでいい。
出来るだけ強く濁るといい。都合がいい。
ダァバの杖が激烈な怒気と共にガヌーザに向けられた。
「至天の究み、命花の封疆を破れ、色無しの死令」
※ ※ ※