第28話 雨の口づけ
「西部を目指します」
アウロワルリスを越えたとして、その後どうするのか。
共に進む皆に、歩きながら方針を説明する。
「北部なら安全に進めますから、西部を目指します。途中の清廊族の村に彼らをお願いしましょう」
非戦闘員を置いていけば足も速くなる。
幼児や赤子、妊婦も。その方がいい。
「北部は危険がないんですか?」
セサーカの質問に、ルゥナも答えは持ち合わせていない。
「人間はいませんから。私も北部に行ったことはありませんが」
「それが一番いいよ。人間がいないって」
ミアデの笑顔は見ている人を勇気づける。
ルゥナには出来ないことだし、アヴィとも違ったミアデの性質はありがたい。
仲間にしてよかった。
「人間がいない世界を目指してるあたしたちの楽園って、ね」
「この大地の全てをそうする為に、西部に向かいます」
「世界ぜんぶだよ」
「ええ、まずはカナンラダからです。エシュメノ」
エシュメノの言葉に頷きながら応じる。
人間への恨みを固定させる為に、少し洗脳染みたことを言い聞かせてしまった。
意識はそれでいいが、やることはまず一つ一つ。
「なんで西部から?」
ニーレの疑問に、ルゥナは目を閉じる。
過去を思い返して、つい拳に力が入ってしまった。
「西部に、いるのです」
「……」
「清廊族の守護者とも言うべき方が。氷乙女オルガーラ……絶防のオルガーラと、希望のティアッテ」
かつて会ったことがある。
「氷乙女……御伽噺の?」
「御伽噺ではありません、ニーレ。実在します」
ルゥナは、勇者シフィーク一行に村を滅ぼされて囚われるまで西部で戦っていた。
戦えていた。
「人間の中に勇者、英雄といった突出した力を持つ者が現れるように、清廊族にも存在するのです。守護者たる氷乙女と呼ばれる方が」
必ず女なのは、魔神が女性だったからだとか。強大な力を男ではなく女に預けたと言われている。
清廊族の中に稀に現れる非常に強い力を持つ女戦士。
「オルガーラとティアッテがいるから、北西部はサジュ湖周辺で人間の進行を食い止められているんです」
「強いの?」
「おそらくアヴィと同じくらいに」
その領域にないルゥナには量りきれないが、人間の軍勢を押し返すだけの力があるとすれば、人間の言う英雄級の力があるのだと考える。
ルゥナが見たことがあるのはティアッテだけだ。
かつて生まれ故郷のイザットが窮地に陥った時に、サジュという湖の町から救援に駆け付けてくれた希望のティアッテ。
圧倒的に劣勢だった清廊族を助け、人間どもを退ける姿に憧れを抱いたものだ。
「清廊族の守り手。知れば誰もが憧れる戦士です」
「……それほどお強いなら、それだけでどうにかなるのでは?」
ルゥナが褒めたことが気に入らなかったのか、トワが少しつまらなさそうに言う。
少し熱が入っていたかもしれない。アヴィの表情もトワに近いものがあった。
「他の清廊族が……共に戦うべき私などが、弱すぎたのです」
氷乙女の戦いについていけなかった。
当時のルゥナも、他の清廊族の戦士たちも。
二柱の戦士だけで人間全てと戦うことは出来ないし、全てを守ることも出来ない。
結局ルゥナの村が攻め落とされた時も、別の場所で人間の軍勢を相手に戦っていたのだと聞いている。
「今なら……力になれると思うのです。彼女らと共に、人間を倒すことが出来ると」
「……わかったわ」
アヴィの力もある。仲間を増やして西部の彼女らと合流できれば、きっと可能だ。
ルゥナの目指す道筋を聞いてアヴィが頷き、他の仲間たちもそれに倣う。
(……たぶん、私が確認したかったから)
だから話した。
アウロワルリスを越える方法もわからない中で、いまだ人間の追手に怯えている。
この状況で、本当に人間に勝利することが出来るのか不安で。
(可能性は……希望はある)
そう信じなければ、不安で重くなる歩みを進めなくなりそうだった。
※ ※ ※
「ルゥナ、どうして?」
「この距離では倒せても一体です。あまり手の内を晒したくありません」
先日のグワンに騎乗した兵士がいたことから想定した最悪の可能性が、曇り空の向こうに姿を現しただけだ。
空を飛ぶ魔物。それ自体が珍しいわけではない。
だが人間がそれに乗っているとなれば、珍しいどころの話ではなかった。
ルゥナは初めて見る。
飛竜を操る精鋭部隊がいるという噂は聞いたことがあった。
グワンに騎乗している兵士がいるのなら、グワン以外の魔物も使役しているかもしれない。
最悪、空を飛ぶような魔物も。
その想定が確認出来ただけのこと。
ミアデは悔し気に届かない空を睨んでいるし、セサーカは冥銀の杖を構えている。
ニーレも弓を手にしているが、有効射程ではないとわかっているのか、矢はつがえていない。
トワもユウラも、他の清廊族たちも、空に見えた三つの影に動揺している。
恐れを抱いている。
「三体とも倒せるのなら意味もありますが、逃げられたら余計に警戒させます。エシュメノ、やめて下さい」
黒い短槍を握り狙いを定めようとするエシュメノを止める。
「だけど」
「投げたら失くしてしまうかもしれませんよ」
考えていなかったのか、ルゥナの言葉に慌てたように短槍を籠手形状に戻した。
エシュメノの力はミアデを越えている。ルゥナと同等くらいだ。
アヴィほどではないにしろ、この中では現時点で二番手の戦力。槍の投擲で一体仕留めることも可能かもしれない。
見えているのは三体だ。
だが他にもいるのかもしれない。斥候のような役割のものが。
あの三体を運よく仕留められたとして、トゴールトの戦力全てが差し向けられるような事態になれば、今の状態では対応しきれない。
「何も出来ない振りを……ニーレ、セサーカ」
遠距離攻撃手段を持つ二人を呼ぶ。
「この距離なら当たらないと思いますが、その程度で構いません。二度ほど撃って下さい。当てるつもりで、です」
「どうしてですか?」
ルゥナの指示に疑問を挟んだのはミアデだった。
アヴィもエシュメノも不思議そうな目を向けている。
「こちらの戦力を出来るだけ誤認させたいからです。もっと近づいてくるようであれば倒してしまってもいいのですが」
「飛び道具の手段が少ない。射程も足りないと思わせればいいんですね?」
「そうです、セサーカ。でも手抜きだと思われないように、当てるつもりでです」
荷車を引いた清廊族たちは、敵の目から逃げるように速足で進んでいる。
上から見れば、石の下に隠れていた虫けらが、慌てて逃げているように見えているはず。
グワンの部隊を倒したことは伝わっていても、正確にこちらの戦力を把握しているわけではない。
この距離なら有効な攻撃手段はない。
非戦闘員を庇いながらの逃避行。
そう報告してもらう方が都合がいい。半端な戦果で敵を本気にさせてはいけない。
出来るだけ危険度を低く見積もってほしい。
「天嶮より下れ、零銀なる垂氷」
「っ!」
セサーカの打ち出した氷の杭と、ニーレの放った矢が、こちらから見て一番近くを飛んでいた敵に向かう。
茶色の馬型の魔物。翔翼馬に騎乗した敵兵士へ。
距離は目測で三丁(一丁=約110m)ほど。高さも二丁ほど高い。
矢は弧を描いて敵の足元辺りに落ちていく。ただ遠くに飛ばしただけの、攻撃手段としてはお粗末なもの。
氷の杭は敵に届いたが、距離がありすぎて余裕で切り払われた。
本気で戦うのなら、エシュメノの投擲槍やアヴィの魔法であれば、あれも落とせるだろう。
それを見せるつもりはない。
「向かってきます!」
「!」
攻撃を受けたことで怒り狂った、というわけでもないだろうが、先頭の一体が猛然と突っ込んできた。
「誰も手出しをしないで!」
ルゥナの指示に、反応しかけていたエシュメノがびくっと動きを止める。
敵の武装は槍だ。
エシュメノの短槍は短いが太い形状をしている。
敵の槍は、長く細身だ。空を飛ぶ魔物なので、あまり分厚い槍だと重さに耐えかねるのだろう。
翔翼馬の顔や首回りには防具があり、露出が少ない。
「影陋族ごときが、しゃらくさい!」
「私が守ります!」
重力と羽ばたきの両方の力で加速した突きは、想像以上に速く力強かった。
ルゥナの手にした剣――柄にブラスヘレヴと銘打たれた長剣――が、その槍を払う。
「なにっ!?」
「くぁっ!」
想像以上の切れ味だった。
これまで使っていた時とは感覚が違う。どうやらこの剣は特殊な力を帯びているらしい。
ルゥナの込めた力に応じて切れ味が増すのか。
敵の槍の柄を切り裂いた。
だが――
「ルゥナ!」
「っ、こないで!」
アヴィが駆け寄ろうとするのを制する。
翔翼馬は、突いた勢いのまま地面を二歩ほど蹴って、また空中に逃れている。
その後ろからニーレが矢を放ったが、素早い方向転換で回避した。
「う、くぅ……」
「ちぃ」
ルゥナの苦悶の呻きと、敵の舌打ち。
斬った槍の柄の先端が、ルゥナの足を傷つけていた。
(また、太腿を……)
すれ違いざまに折れた切っ先を横にして当てていった。敵の技量も侮れない。
「任務は偵察だ! もういい!」
「はっ、わかってる! 挨拶ってやつだ!」
さらに矢を放つニーレを嘲るように、翔翼馬が尻を振って避けていく。
「俺ら天翔騎士から逃げられると思うなよ! 影陋族!」
そう言葉を残して、上空で待機していた二体と合わせて飛び去っていった。
「……あのような形で良かったですか?」
ニーレの淡々とした声に、額に汗を浮かせながら苦笑いを浮かべる。
「ええ、見事です」
当てるつもりで、当てないように。
弓矢の弱さを程よく相手に示しながらの反撃は、ルゥナが指示した以上にうまくやってくれた。
こちらに碌な武装がない。そう思わせるのに足りただろう。
「ルゥナ、大丈夫?」
「今、癒して差し上げますからね、ルゥナ様」
アヴィとトワが駆け寄ってきた。
斬り落とした槍の穂先が近くに落ちている。それをエシュメノが拾う。
「なんで避けなかった?」
エシュメノは目が良い。
ルゥナは悦んで足に舌を這わせようとするトワの頭を押さえながら、また苦笑した。
「この方が油断してくれるだろうと」
「だけど、ルゥナが痛い」
「ルゥナ様は私が癒しますから大丈夫です。ね、ルゥナ様」
さらに迫るトワに鬼気迫るものを感じる。
ルゥナが怪我をしたことを楽しんでいるのではないだろうか。
「ええ、わかっていますトワ。皆は先に進んでください」
足の痛みをこらえて指示した。
「敵が来る前に出来るだけ先へ。トワに治してもらったらすぐ追いかけますから」
曇り空の色が段々と濃くなってきている。
雨になるだろう。
天候は、あの天翔騎士とやらの足を止めてくれるだろうか。晴天よりは飛行に困難だと思うが。
「ルゥナ」
「すぐに追いつきますから、アヴィ」
何か言いたげなアヴィだったが、痛みで目を瞑ってその視線から逃げる。
つまらないことだ。
私よりエシュメノの方が心配なんでしょう、とか。
「先行して、アウロワルリスを目指してください」
「……わかった」
視線から逃げたルゥナの拒絶を感じたのか、アヴィもまたルゥナから視線を逸らして答えた。
傍から見ていたセサーカなどからは、痴話喧嘩のように見えていたのだと、だいぶ後になってから言われたものだった。
※ ※ ※
降り出した雨を避けて、木陰でルゥナの傷を癒す。
傷の範囲は広いが深くはない。
そうなるように受けたようなので、我慢をすれば歩けないこともなかっただろう。
「ルゥナ様……」
「……」
トワにはわかっている。
ルゥナが少し皆と距離を置きたかったのだと。アヴィと距離を置きたかったのだろうと。
(私だけと……)
見ていればわかる。
トワは常に目を光らせてルゥナの様子を見ているのだから、当然わかっている。
エシュメノにアヴィを取られてしまって、ルゥナが寒がっていることくらい。
本人に自覚があるかどうかは別として、隙間が空いている。
そこに都合よくトワを置こうとしているのだ。無自覚かもしれないが。
(都合のいい女として……)
ルゥナの足の傷を、舐めて癒す。
その傷の範囲を超えても、気づいていない振りをして止めない。
今日は。
(とても……とっても、身勝手で。ずるい)
トワの心に火が灯る。
(なんて、可愛いんだろう)
気づかれていないと思って、トワの慕う気持ちを利用しようとしているのだ。
寂しさを埋めるために利用される。都合のいい存在として。
(幸せ)
ルゥナにとって都合がいい場所に収まるのなら、他のことなどどうでもよかった。
「ルゥナ様」
「……終わりましたか?」
とっくに傷の治療は終わっていたが、トワが楽しんでいただけだ。
いや、だけではない。
きっとルゥナも愉しんでいたのだから。一緒に。
「私とルゥナ様だけ、です」
「……そうですね」
「誰もいません」
「そう……ですね」
顔を上げて、ルゥナの胸に顔を埋める。
木に寄り掛かった姿勢のルゥナは逃げない。
「……無理をされないで下さいね」
「無理などしていません」
「我慢されなくていいんですよ」
強がる彼女に囁く。
「私は、ルゥナ様のことだけが好きですから」
「……」
「だけどルゥナ様の迷惑にはなりません。アヴィ様のいる前では甘えません」
都合のいい言葉を囁く。
甘えているのは、トワなのか、ルゥナなのか。
ルゥナの性格からして、自分が誰かに甘えることは許さないだろう。
だから、甘えるのはトワという体裁で。
「トワ、頑張っていますよ」
「……ええ」
「ルゥナ様の言うことをちゃんと聞いています」
「わかっています」
「約束だったじゃないですか」
責める。
堅物のルゥナに、ルゥナ自身の言葉を盾にして責める。
「頑張ったら接吻して下さるって」
「……どうぞ」
許された。
誰も見ていない今だからだとしても、許された。
「約束、でしたから」
過去の自分の言葉を盾にして、自分への甘えを許した。
「……ん」
「ふ、ぁ……」
遠慮なくその唇を奪う。
鼻と鼻が触れ合う。瞳を固く閉じているルゥナが可愛い。
震えている。
「……これで」
顔を離したトワに、開けた瞼の下の赤い瞳が揺れている。
不安と、罪悪感で。
その罪悪感はアヴィに対してなのだろうけれど。
「……ルゥナ様、違うんじゃないですか?」
つい、冷たい声が出てしまった。
「っ……その、なんの……ことです?」
不安に揺れる。
今度はトワの瞳を見て、おそらくその中の狂気を見て。
(ああ、いけない。怖がらせてしまった)
弱っているルゥナを責めるのも悪くはないが、今はそういう場合ではない。
そういうのは、もっと安全な場所に行ってからだ。
「頑張ったご褒美……のはず、ですよね?」
今はまだ、トワが甘える姿勢を崩してはいけない。
この関係を維持した方が、きっともっと深くルゥナに入っていける。
愛しい彼女の奥深くに這い回らせる。トワの指先を。
「え、ええ……そのつもり、ですが……」
何かまずかっただろうかと、窺うような顔色で。
トワの心情を思いやっている。
それは優しさではなく怖れからなのかもしれないが、それでもトワの内面を探ろうとしている。
「だったら、逆です」
先ほど味わったルゥナの唇に、人差し指を当てた。
「逆……?」
「ルゥナ様から、トワに、口づけをして下さるのが筋なのでは?」
「……」
「初めての時みたいに……ダメ、ですか?」
わざと、弱々しく。
すでに唇はいただいたが、それはそれ。
いいよって言われて、つい勢いでキスしてしまった。
でもそれでは順番が違う。
だから、もう一度責める。攻める。
今日のルゥナなら落とせる。きっと。
「ダメなら……」
「トワ……」
それでも、一度引く。
あくまで甘えているのはトワだと、そういう立場だと表向きは示してあげる。
「……もっと、頑張ります……けど……」
「トワ、その……」
一歩引く。
ルゥナから離れたトワに、ルゥナが言い淀んだ。
立ち上がり背中を向けたトワに、ルゥナの気配が近づく。
木陰から外れると、雨が直接かかってきた。
いつの間にか雨粒が大きくなってきている。
「……そう、ですね。私が間違っていました」
そう、それでいい。
「ルゥナ様……?」
にやけそうになる頬をこらえきれないが、ちょうど良かった。
振り返りながら、雨粒を拭うように手の甲で目元を押さえて誤魔化す。
「これからも……お願いしますね。トワ」
まるでトワを気遣うような顔で、優しく語り掛けて。
「……はい、ルゥナ様の仰る通りに」
ルゥナの指がトワの頬に触れて、雨で濡れた唇に暖かい気持ちが押し当てられる。
義務ではなくて、少しばかりかもしれないけれど感情を込められた唇が。
(堕ちた)
ただ一度の口づけだと、そう思っているかもしれない。
誰も知らない二人だけの秘密で、自覚の薄い自らの寂しさを誤魔化す一時しのぎのことだと。
(ほんの少しの隙間ですが、入れましたよ)
ルゥナの中の甘える心の隙間に作り上げる。トワの心の居場所を。
最初は遠慮がちだったルゥナの口づけが、雨と共に激しさを増していくのを受け入れる。
(私だけには、甘えていいんですからね)
その立場を確立しつつあるのを感じて、可愛く強がるルゥナの身勝手な口づけを楽しむのだった。
※ ※ ※