第292話 孫の背
カチナが拘った理由は、強情ばかりではないとわかっている。
意地もあったにせよ戦局を見てのこと。
指揮官であり強者でもある男を倒せば、当然ながら組織が崩れる。
指導力のある者を残しておけば、後に体勢を整え直して挑まれた時にこちらが不利になるのだから、倒せる時に倒すのも当然。
使い慣れた得意な武器と手にしておらず、また状況の変化に動揺も大きかった。
カチナは口にしないが、急な冷気や凍った足場で動きもいくらか悪い。その好機を逃さず強敵を倒す。
指揮官を失った軍は指示が混乱する。不要な被害も出しながら四散していった。
「メメトハ、ルゥナ。皆を退かせなさい」
「はい、大長老」
逃げていく人間を追う戦士もいる。
ここで深追いは必要ない。やっている場合でもない。
多くの人間が集まっていた敵本隊は、異様な巨体が暴れ回り壊滅状態。敵とはいえ悲惨な有様だ。
たくさんいる場所に向けて突進。体から伸びた手でそれらを掴んで食う。
応戦する人間もいて、それで体表がいくらか傷つきこそぎ取られても、またその下から手足が生えてくる。
化け物としか言いようがない。
「あれは、ダメだ」
壱角の娘が戻り、首を振る。
見れば、東から溢れてきた魔物の群れは森の茂みに集まり身を潜めていた。
およそ自然に存在してはならない化け物の気配に怯えて。
「あんなの生き物じゃない」
「その通りです」
大量の生き物を貪り荒れ狂うだけの存在。
ひどく歪つなもの。
「あれもダァバの仕業ですね」
「下衆め。あの男は今度こそ私が斬ってやりましょう」
カチナの気持ちはパニケヤも同じだ。
あれを今の時代まで生かしてしまったことこそパニケヤ達の責任。この手で始末を。
「無理じゃ、大叔母よ」
「私があれに劣るとでも――」
「違う、大叔母の腕ではない。あやつは」
「濁塑滔の混じりものになっています。斬っても叩いても死にません」
カチナを侮っての言葉ではなく、そもそも効果がないのだと。
濁塑滔。粘液状の伝説の魔物の特性を身に宿しているとは。
「斬っても……あの卑怯者が」
「倒す算段はある。だが何にしろ奴を追わねばならん」
東に逃げたダァバを追い、倒す手段がある。メメトハが見慣れぬ小振りの魔術杖を握り訴える。
一手間違えたかと悔やむが、今さら仕方がない。
「神洙草。あれはこちらに持ってくるべきでしたか」
「あるのですか!?」
驚きの声を上げるルゥナに、苦く首を振る。
「そう伝わる一片の葉が、ずっと昔に南部から届けられたと。クジャの紡紗廟の宝物として氷漬けのまま納められていました」
「永くそのままだった氷が融けていたのです。私たちが旅立つ前に」
戦える戦士たちを集めて山を越えようという前に、少しでも使えるものがあればと蔵を覗いた。
蔵の奥に忘れられていた神洙草と伝えられる氷漬けの葉。それが入った小瓶には、薄っすらと光る水だけが。
「かつての南部の清廊族が……」
「ええ、ですがあなた達の助けになればと、サジュに送ったのです」
魔物を払い、あらゆる傷や病を癒すと伝わる神洙草の露。ここでもたらされたのも何かの理由があるはず。
苦しい戦いを続けるメメトハ達を思い、サジュから彼女らに届けようと。
「サジュに……逆じゃったか」
「元よりなかったものです、メメトハ。ダァバに効果があるかもわかりません」
山脈を挟んでどう動くのが正しかったのか。
連絡を取り合うことはできず、最善と思った選択がここにきて間違いとは。
今さら悔やんでも仕方がないとルゥナが促し、メメトハも頷いた。
彼女らは少ない手数でどうにか進んできた。ここまで。
ないものを願っても仕方がないと。
「大長老たちも、今後ダァバと相対しても決して近付かないで下さい」
今ここで会えた機会にと、ルゥナがパニケヤに真剣な瞳を向けた。
近付くな、とはまた妙な助言。忠告。
「他にまだ濁塑滔の力が?」
「それも危険なのですが、別の理由です。あれに近付いた戦士が音もなく死にましたから」
「音もなく……近付いただけで、ですか?」
「あ奴の呪術は得体が知れません。隙に見えたとしても不用意に近付いてはどうなるか」
音もなく、近付けば死ぬ。
カチナがどれだけの腕だろうが、それでは戦いにもならない。その上で斬っても死なないというのでは。
「あれは風で飛ばせる」
「アヴィ」
南で敵を防いでいたアヴィも戻ってきた。
クジャで見た時と雰囲気が違う。
血塗られた戦地で、より殺伐としていても不思議はない。
しかしそうではなかった。
なぜだか以前よりも柔らかく、優しい包容力。と同時に、年齢の割に幼さも感じた。悪い意味ではなくて、拒絶の壁が消えたように。
「死の呪術は風で飛ばせる。強風なら使えない。はず」
「ええ、昨日と同様ということですね」
「みんな、破夜蛙の空気袋は持ってる?」
破夜蛙。喉の袋で爆音を立てる小型の魔物。
ルゥナもメメトハも懐にその喉袋があると示すと、アヴィの表情がまた少し和らいだ。
「それでいい。忘れないで」
「ええ、港町でウヤルカを助けてくれたのもこれのお陰でしたから」
懐に入れた破夜蛙の喉袋。
小さなそれに膨大な空気が詰め込まれているのだろう。破裂すれば相当な衝撃があるはず。
アヴィの言いつけに対して、ルゥナは強い信頼を示して応じた。
良い関係だ。
クジャで過ごした時よりもずっと強く絆が結ばれている。
メメトハも、彼女らと距離が近くなっているようで。それもパニケヤの心を温かくしてくれた。
我が子の出生について負い目のあったパニケヤは、産んだ双子をしっかりと愛せたとは言えない。深く後悔している。
その反動でメメトハには甘くしすぎたという自覚もあった。
クジャにいる短い時間、パニケヤの態度は行き過ぎた甘さだっただろう。目付け役のカチナは、入れ替わりで真なる清廊にいて誰も諫める者がいない中、メメトハを溺愛した。
パニケヤの孫として特別な扱いをされて育ったメメトハ。皆から大事にされて当たり前の育ち方をしたメメトハの性格に歪みが現れたのもパニケヤの責任。
そのメメトハが、確かな友を得て成長した姿を見せてくれる。
心の閊えがまたひとつ解れた。
ルゥナ達がクジャに来てくれたのは、やはり姉神が紡いでくれた良い出会いだった。
閊えが取れれば、また別の懊悩が胸に広がる。
孫よりも先に、本来ならパニケヤが責任と愛を持って接しなければならなかった者のことが。
※ ※ ※
「トワが攫われたという話ですが。トワの親はどこにいるか知っていますか?」
パニケヤの口からは聞けなかった。
長老として、我が子の話題を優先など出来ない。
カチナからの質問に、やや面食らったようにメメトハが目を瞬かせる。
急にトワの親の話など何事か。
しかしメメトハの方も、その話をしなければと首肯する。
「それじゃ、大叔母。ニーレが言うには東の町に」
「町じゃあないんだ。町から外れた牧場……隔離施設で囚われているはず」
氷弓皎冽を手にしたニーレの答えを受け、カチナの視線がパニケヤに刺さる。
一番聞きたいこと。
だから、自分から聞けないことを、カチナが訊ねた。
「彼の名前は、知っていますか? ニーレ」
「え?」
「トワとユウラの父親の名です」
ユウラの名に、ニーレの眉間が僅かに歪む。
失われた大切な家族の名。トワとユウラの共通の親。
「私は、ほとんど話したことがなくて……すごく薄い金色、銀灰色みたいな髪をした……たしか」
「……ヤヤニル」
「あ……」
パニケヤの口から漏れた名に、曖昧な記憶の中を泳いでいたニーレが顔を上げ、口を開きかけて。
止まる。
「そう……そうだった、はず」
「……大長老?」
「婆様? どうしたのじゃ」
もうずっと、失ったと思っていた名前。
ルゥナとメメトハの問いに答えられず、胸を抑えた。
そう、メメトハには聞かせたことはなかったのか。この子が生まれるよりだいぶ前に死んだ伯父の名は。存在さえ知らなかったかもしれない。
苦しい。息が出来ない。
とうの昔に枯れ果てたと思った涙が込み上げてしまいそうで、言葉が出てこない。
死んだと思った息子が生きている。
人間の虜囚となり、ずっと苦しい想いをしながら生きていたのか。
そして、クジャに辿り着いたトワとユウラは、知らぬこととはいえ……
「……パニケヤ、貴女もすぐに東へ」
カチナの、公私を弁えぬ思いやり。
この場はまだ収まらぬというのに、息子を助けに行けと言う。
彼女とて息子夫婦を失っているのだ。人間との戦いの中で。
「……いいえ、カチナ」
息子が、ヤヤニルが生きていると言うのならば。
誰よりも深く傷ついているはず。責任感の強い子だった。
人間の虜囚となり、望まぬ形で更に不幸な清廊族の子らを作ってしまったと。
「私は氷巫女。クジャの大長老です」
ただ母として迎えに行たところで、ヤヤニルは己を許せる性分ではない。
多くの同胞を泣かせた自分がなぜ母に救われるのかと、さらに自身を責め苛むに違いない。
「息子だから助けると言うのでは、あの子も受け入れられないでしょう」
「む、す……」
「強情を言っている場合では」
「あの子の為に!」
正しくあらねばならない。
清廊族の代表として、正しい姿勢でなければ息子を救えない。
息子だから特別にではないと、特別だからこそ意地を通す。
「ダァバが、今なお私たちの敵としてこの大地に害成すというのであれば、それを阻むのが大長老たる私の役目」
きつと睨んだ。
散り散りに逃げた人間どもを追わず、次の標的を探す巨大な化け物を。
「あれもまたダァバの残した災禍。そして、無垢なる清廊族の魂が囚われています」
「……そうでしょうが、あれは」
「あれは生き物ではありません。森も生き物も枯れ果てるまで食らい尽くす忌まわしい存在……あの様子で大きくなれば身動き出来るかも怪しいですが」
あまりにも歪な形。肥大化しすぎた巨体。
食い続けなければ死ぬ。
大きくなり続けても死ぬと思われるが。
「……切り離された部位も蠢いています。尋常な生き物ではありませんから、さらに分裂して広がるかもしれません。全てを食らい尽くすまで」
放っておけば、この大地全てが死に絶え、あれも滅びるだろう。
救われぬ魂と共に。
「どちらにしろ、多くの生き物がある方に寄せられるようです」
散り散りに逃げていく人間たちに対して、この森の外れに集まった清廊族の戦士たち。
全ての数なら人間の方が多いが、まとまっているのはこちらが多い。
このまま皆で東を目指せば、追ってくると考えらえる
こちらを追うか、山を目指した戦えぬ者たちを追うか。どちらにせよ被害は避けられない。
「ちょっとあれは無理じゃないかな、ボクでも?」
「私もやる。食い止める」
誰かが対処しなければならない。食い止めなければまた多くの同胞が死ぬ。
この大地を食い荒らし、さらなる悲嘆を振り撒く。そんなことはさせない。
「アヴィ、メメトハ。貴女達は東に向かいなさい」
「婆様、いくらなんでも」
誰がやるべきか。
若者たちがダァバを倒すというのなら、パニケヤの担う役目はここだ。
「ダァバを倒す手立てがあると言いましたね」
先ほどはカチナが恰好をつけた。
今度はパニケヤの番。
「ならば私にも、氷巫女として出来ることがあります」
「……」
「母として。東の町にいるという息子を……ヤヤニルを、貴女達に。助けてほしいと言うのは、いけませんか?」
意地を張る。
それだけで納得してくれるほど甘い子たちではないけれど、母としてパニケヤが頼むのなら、聞いてくれるだろうと思った。
「……出来るのですね、大長老?」
「だから言っています。オルガーラの力は借ります」
死ぬつもりなどない。
あの化け物を防ぎ、忌まわしい術に使われただろう清廊族を解放する。
「カチナが氷乙女としての矜持を見せました。今度は私が、この巡りにある氷巫女としての役目を果たす時です」
カチナがダァバに勝ったことがあるというのなら、今ここでパニケヤも越えよう。卑劣な裏切り者を。
「アヴィ、メメトハ。向かいましょう」
「……婆様よ」
「メメトハ」
巨体が、こちらに向かって動き始めた。
時間はない。
少数精鋭の彼女らにはダァバを追ってもらう。あの化け物はパニケヤがどうにかする。そう決まった。
「ヤヤニルを……あなたの伯父を、お願いします」
「……しかと、任されよう」
メメトハは本当に成長したものだ。わずかな間に、こんなにも。
背丈は前と変わらないのに、その背中はずっと大きく、頼もしく。
「妾が確かに、婆様を息子と会わせてやる。ゆるりと追ってくるがいい」
「……わかりました」
一刻の猶予もない。
そんな中だから目にした孫娘の成長は、パニケヤを何よりも勇気づけてくれた。
※ ※ ※




