第281話 異端質問
「くひ、痛いぃっ!」
情けない。
いい年をして、これだけ不遜な言動をしておきながら。
子供のような悲鳴を上げた。
叩かれる痛みを怖れ及び腰になった。冷やされた体がうまく動かなかった。
その隙を逃すルゥナではない。メメトハももちろん。
自然と息が合い重なったラーナタレアの響叉が、打撃の手応え以上にダァバの体の内部まで震撼させる。
「ぼ、僕の体が……あぁぁっ!」
「ダァバ様!」
亀裂が走るダァバの体と、焦る声音。
サジュの時と同じ。絶対の勝利を確信している裏切り者に痛撃を加えた。
だが、そう。
サジュの時と同じ。あるいはそれ以上に。
「おのれぇぇぇあぁぁっ‼」
激憤した。
鳥の混じりもの、パッシオが発した怒号。
破裂するように翼を広げ、生き物では有り得ない速度で回転する。
瞬時に竜巻を巻き起こした。
「うぁっ!」
「エシュメノ!」
突風に弾き飛ばされたエシュメノをミアデが受け止める。
彼女が踏ん張りきれないほどの暴風を巻き起こしたのか。
嵐のような回転からぴたりと静止したパッシオ。
それまでは、人間の体に鳥の翼、猛禽の爪という姿だったのに。
一瞬で変化した。
顔が鳥に。
金色の瞳と黒く鋭い嘴の、鷹。
体が一回り膨れた。
「これは――」
「クジャの時のロックモールと同じ!」
アヴィが叫ぶ。
全員に警戒をさせる為に。
クジャの時、死の淵まで追い込んだ混じりものが、魔物に飲み込まれるように変化して、獰猛さを増したと。
それと同じことを、自らの意思で。
「鷹鴟梟!」
「伝説の!?」
エシュメノが口にした名は、もう長く目撃されていないニアミカルムの伝説の魔物だ。三角鬼馬に並ぶ。
鷹と、トビと、フクロウ。朝昼から夜、空の全てを意味する鳥の王。
鷹鴟梟。
「ちっちゃいときにソーシャと見た!」
「っ!」
ならば本物か。ソーシャが教えたというのなら。
とんでもない魔物の混じりもの。怨魔石を残すような魔物だとすれば、そのほとんどが規格外のものなのかもしれないが。
「KuIii!」
瞬いたつもりはない。けれどルゥナの視界が一変する。
大気を貫く嘶きを発したかと思えば、ルゥナの目の前にいた。
「ルゥナ!」
アヴィの声より先にラーナタレアで防いだ。咄嗟に前に構えただけだったが。
鋼よりも硬い翼の一撃で、この魔術杖は折れぬもののルゥナは思い切り吹き飛ばされてしまう。
そのルゥナをアヴィが受け止め、まだ苦痛に喘ぐダァバに止めを刺せない。
「ぬぅ!」
メメトハに向けて飛ばした羽が数本、顔は庇ったけれど腕に突き刺さった。
羽なのに重撃だったのか、受けたメメトハが大きく態勢を崩される。
速く、強靭。
そして何より――
「ワガアルジ!」
「パッシオ!」
苦悶に呻いたダァバを、掻っ攫われた。
正気を失っていない。より魔物に近くなったが、ダァバを守る意識は残ったまま。
次の瞬間には、飛行船を繋いだ縄を切り、そのまま空に駆け上がる。
こちらの手が届かぬ先に。
やたらと不遜な態度を取るくせに、不測の事態に対しての逃げが早い。確かにダァバからすればルゥナ達との戦いなど優先事項ではないにしても。
卑怯者。
勝てるとみれば傲り、少し痛い目を見れば逃げ出す卑劣漢。
「逃がすわけには!」
追う。
町へと入っていくダァバを乗せた飛行船を追わなければ。
「ルゥナ様、メメトハの怪我を」
「エシュメノも、貴女もだ」
即座に駆けだそうとしたルゥナに、ミアデとニーレが落ち着けと言うように声を掛けた。
見ればミアデもパッシオに弾き飛ばされた時にか、頬をひどく擦り剝いている。頭も打っているのか少し顔を顰めて。
自分も口の中に錆の味を感じて頬を拭えば、血がべとりと着く。
メメトハに刺さった羽は、その周囲を赤黒く大きく腫れさせていた。
只物ではない。鷹鴟梟の混じりもの、パッシオ。
正面から戦っても勝てるかどうかわからない。それだけの脅威だったが、主と仰ぐダァバの安全を優先した。
焦るあまり負傷したまま追っては、今度は返り討ちに遭うのはこちらかもしれない。町にもまだ人間が残っているだろう。
ニーレの言葉に頷く。急ぐ時だからこそ冷静にならなければ。
「すぐに治療を……」
「これ抜く」
「ああ、頼む……んぐぅっ!」
ここにトワがいない。別行動させたことを悔いる。
アヴィがメメトハに刺さった羽を抜き、その傷口に舌を這わせる。
「セサーカ、エシュメノを見て下さい。ミアデはこちらに」
「て、てて……」
いないトワを頼れない。手分けして怪我の様子を確認、手当をしてすぐに追わなければ見失う。
一つ、疑問に思うべきだった。
なぜダァバがこのエトセンの町の中に向かったのか。
ラーナタレアに打たれ苦痛に呻いたダァバが、なぜ町に。
※ ※ ※
胸騒ぎ。
嫌な気分。
トワに近付くのを忌避させる何か。
人間の姿は、町の中心にはもうほとんどなかった。
北側の火の手が強い。
戦況は混沌としていて、略奪者が手にしたものもまた暴力で奪われる始末。
走れるような多くの者は命だけを持って逃げ去り、逃げ遅れた人間は多くが死んでいる。
死んでいない者は、今オルガーラを中心とした清廊族に殺されていく。南門近くからラッケルタの鳴き声も聞こえるから、ネネランと共に門の内側にまだ残る人間を殺しているのだろう。
今ほどこの町で解放した清廊族も、その戦いの中に。
恨みを晴らす。
まさに今日まで虜囚の苦界にあった清廊族は、解放されたことで積年の憎悪が爆発した者が多い。
混乱の中、嘆き悲しむだけの者もいるけれど。
エトセンの町は、トワ達が来る前に人間同士の争いによる狂気に満ちていた。
自由を取り戻した清廊族が、自分たちも溢れる狂気に染まるのも無理はない。
トワは狂気が嫌いではない。
清廊族にしろ人間にしろ、平素は取り繕った顔をしているけれど。
皮を剥いた中身が見える。
トワは嘘が嫌いだ。
人間の奴隷をさせられていた頃、外面を取り繕う人間であればあるほど、その本性を意地汚く感じさせられた。
ならば最初から素でいればいいのに。
もちろん、いつも素のままでいたら面倒なこともわかっている。
トワも嘘は使う。他人の嘘は嫌いだけれど。
だって、ちょっと涙すると、ルゥナはすぐに優しくしてくれるのだもの。
馬鹿だなぁって、とっても可愛い。
だけどさっき。
ルゥナは、本当にトワが不安で嫌な気持ちだったのに。
トワの手を離した。
行きたくない。
一緒にいてほしいって、トワの手が言っているのはわかっていたはずなのに。
アヴィが正気に戻ったから。
あの女が、狂気に歪んでいたあの女が。
素に帰った。
嘘や取り繕う顔ではなくて、本当に素直に心を開いてルゥナの方を向いたから。
そうしたらルゥナは……トワの気持ちを断ち切った。
繋いだ手を振り切って、トワの方を見ないで行ってしまった。
許せない。
許さない。
貴女が今振り切ったのは、トワの手じゃない。
自分を縛る枷から逃げた。
逃がすものか。
逃がしてなるものか。
トワがかける。嵌める。
その心を縛る枷を。貴女がどれだけ外そうとしても、絶対に。永遠に。
彼女の心の一番奥底にトワを刻み、繋がなければ。
しかし、嫌な気配を感じたのも本当だ。
ルゥナと共にいたいはずのトワを、留めるような何か。
予感などと曖昧な言葉よりも、もっと重苦しいもの。
南の空を見上げる。
見上げて、見つけた。
城壁を越えて近付いてくるものは、忘れるはずもない。忘れようはずがない。
「飛行船……」
「まぁたあれぇ?」
ユウラの命を奪った災厄の象徴。
トワと血を分け、共に生まれ育ったユウラの。
「でも、低い」
低いせいなのか、サジュで見た時よりも速いように見える。
実際に小さいから速いのか判別できないが、かなり急速に。
真っ直ぐに、トワのいる方角に。
「やあ」
鳥の魔物に掴まり、降りてきた男がトワを見て嗤う。
その体から溢れ蠢くのは、濁塑滔の粘液。
白髪の老躯。だが顔の肌は妙に瑞々しく、老齢だと聞いているがもう少し若く感じる。
「一目でわかったよ」
馴れ馴れしい。
トワを見つけたと。
「この町にあった反応は君か。僕の子……にしては」
「……」
清廊族の裏切り者。
忌むべき敵で、凶悪な力を持つ男。
しかし。
嘘はない。
何も偽る色は感じない。ただ己の欲望に素直な。
「となると……孫、かな?」
「……」
ああ、そうか。
理解した。納得した。実感した。
嫌な予感。行きたくないと思った気持ち。
ルゥナと共にいれば聞かれたかもしれない。
こんな、最悪な関係を。
やはりトワは正しかった。トワが正しくないことなどない。
異質な清廊族。トワが清廊族に何の親愛も抱かないのは、きっとこの血のせいなのだろう。
トワが悪いんじゃない。
トワは絶対に悪くない。
「一つ聞きたいことがある。答えなよ」
なぜトワが答えなければならないのだろうか。
こんな男の質問にトワが答える必要もないはず。
「……私からも聞きたいことがあります」
交換条件ならば。
トワにも何か利があるのなら。
お前は、ユウラを失わせたお前は、その代わりになるものを差し出せるのか。
トワの心を埋めるに足りる何かを。
「なぜお前は呪術を使えるのですか?」
「うん?」
なぜ、清廊族のお前が、使えないとされる呪術を使えるのか。
女神の道具を使ったから。そういう理由だけとは思えない。
「さて……」
「アルジ」
「わかってるよ、パッシオ」
蠢き、体から溢れ出そうとする濁塑滔。
ダァバは片手でそれを押さえつけようとしているように見える。
無理やり。
「ちっ……なんでまた、こう、馴染まないかな」
「ハヤ、ク」
「ああ、でもこれを拾っていった方が良さそうだ」
町を去ろうとしている。
その前に、この男も何か予兆めいたものを感じたのだろうか。
ここにいるトワの存在に。
「君の親……どっちかわからないけど、どこにいるんだい?」
「わたし、の……親?」
親?
トワが生まれ育った牧場では、そうした絆めいた関係を薄れさせる為に、引き離されて育てられた。
家畜に親子の絆など必要ないだろうと。
ただ産ませ、ただ利用する。それだけ。
しかし、どこにいると聞かれれば。
トワの灰色の瞳が東の空を映す。生きているのならその方角にいるだろうと。
「……君は賢いらしい。さすがだね」
その視線だけで答えになったのか。
ダァバは満足げにトワを称え、継ぎ足した言葉は自賛のようにも聞こえた。
「低能なこれを馴染ませるのに役に立ちそうだ」
ならばお前は、どうなのだ。
トワが必要なものをトワの鎖に繋ぐのに、お前が役に立つのなら。
使ってやってもいいのだけれど。
※ ※ ※