第275話 匪徒の探求者
終章 第五部になります。
ブクマが増えず、折れそうな心で完結まで早く書こうとして、かなり急ぎ足になっております。お見苦しい点があるかと思います。申し訳ありません。
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匪 わるもの
徒 罪人
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「っ……はぁ……はあ……」
荒い呼吸と、全身に浮かぶ汗。
久しく記憶にない。
いや、そうでもない。半年ほど前にもあった。
理解できないものに対する焦燥と恐怖心。
つい半年前の記憶。その前に似たような経験をしたのは、もう百六十年以上も昔になる。
長い時を生きてきたのに、たった一年の間に二度も。
平穏に済むと思っていたわけではないが、予想を大きく上回る脅威と言える。
ダァバの想定外の出来事がまだ起きるか。この旧大陸は。
※ ※ ※
ダァバは短慮な愚者ではない。
考えず行動に移してしまったのは、かつて兄と呼んだ男に己の内面を看破された時だけ。
兄は愚かだった。
ダァバの心に清廊族への親愛など全くないと知っていたのなら、ダァバと自分だけで向き合うべきではなかった。
兄として、弟の心根を変えようと思ったのか。
あるいは自分だけでダァバを制圧できるとでも。
確かに優秀な男ではあったが、ダァバには及ばない。
いつものように、表面を取り繕って受け流せばよかった。
出来なかったのは、ダァバが手に入れたいと思っていた里の女を、兄が娶ることになったから。
そこに加え次点をつけていた女に冷淡な対応を受けた。さらにその女に訓練の体で一撃を食らってしまう。
全体はダァバ優勢だったが、一撃を入れられた。
苛立ちが溜まっていたところに兄の詰問、説教。
そんな言葉の中に、いつか生まれる前に聞いたような言葉を吐かれたから。
――お前自身の為を思って言っているんだ。
自制が利かず、兄を殺した。
祝言を前にした花嫁が現れたので、兄の命のついでにそれの貞操も奪った。
そして出奔した。
追手もかかる。さすがに腕利きが多い。
逃げ延び、湖に出た。
湖には名のある化け物がいるとか。
この世界の神となるべく生まれたダァバに対して、この世界の人間どもときたら。
神の声を聞くと言われる化け物。
この化け物を従えれば連中も考えを改めるだろう。
そう思い、声をかけてやった。
だが所詮は化け物。会話が通じるものではない。
手荒い返答と、また追手。
忌々しい気持ちを爆発させそうになったが、ダァバは愚者ではない。
重傷の自分では不利。船を盗み、海に出た。
風の魔法は苦手ではない。
海風の冷たさにもダァバの身は強く耐え、夜目も利く。
船を走らせた。
途中でふと考えてしまったのだ。
あの湖の魔物は、執念深くダァバを追ってくるかもしれない。
深い海の底から、小舟に乗るダァバを一飲みにしようと。今にも齧りつこうとするのではないかと。
だだっ広い海原。
自分の目でも見通せぬ海の底。
恐怖を覚えた。
この世界に生まれて初めて強い恐怖を。
夢中で船を走らせた。
真っ直ぐ、だったのかどうなのか。とにかく可能な限り。
本当の人間の国に辿り着いた。
ダァバは愚者ではない。
見知らぬ世界の、さらに見知らぬ土地。
素性を隠し、情報を集める。
ロッザロンドと呼ばれる土地。
彼らにとっては、ダァバが生まれ育った場所の人間――清廊族は、神話伝承の類に扱われていた。
ダァバは、この世界では神話の住民。
神として君臨するにふさわしい。
どうすればいい。
元の場所など忘れこの地に君臨するか。
いや、ダァバを追いやった連中を許しては置けない。
苦しみ、後悔し、嘆き赦しを請う姿を見なければ。
新大陸ロッザロンドにも相応の強者がいる。数も少なくない。
社会の仕組みがそれなりに完成していて、富める者はその富と力を失わぬような形になっている。
ダァバの寿命は長い。今は焦るべきではない。
入念に準備を。
人間に旧大陸を見つけさせ、航路を確立する。
ダァバ自身も、もっと新たな力を得なければならない。
願った通り、最強格の肉体はある。だがそれだけでは足りない。
絶対に負けない力が必要だ。
怠惰に、安穏と、何でも食べられて静かに生きるなどというつまらない願いをする者とは、ダァバは違う。
呪術。
魔法とは違った技術体系の異能。
それを知り、研究した。
根本は魔法と同じだ。
世界に染みついた言い伝えなどから、それに倣った現象を発現させる。
魔法と違うのは、物理的な作用ではなく精神的な作用が大きいところ。
精神魔法、と呼ぶべきではないか。
清廊族に比べ肉体に執着する人間だからこそ、外圧で精神の形を押し曲げようと出来るのか。ダァバなら使えると考えた。
心の内側に作用する。
その為には、そうなるのも当然と思わせるだけの材料が必要。
赤子を焼いた灰だとか、罪人の骨だとか。最も愛しいものの心臓などという場合も。
納得させるだけの材料を揃えてようやく通じる。
異例なこともある。
たとえば女神の視線であれば。女神の声であれば。
材料を抜きにしても呪いが発現する。原初の女神が言うのだからと、材料を端折って呪いをかけられる。
先に手に入れた瞳の方は駄目だった。
ダァバに合わない。
次に探したのは声に近い部位。
軸椎。
旧大陸で人間と清廊族が争う中、ダァバは焦らなかった。
絶対に勝つ準備をしてから臨む。自分が勝つ為の準備。
魔法より不便と軽視されていた火薬。知っている知識と、ここで手に入る材料は違う。
様々なものを使い、試して。何度もやり直して。
金も必要。手も必要。
腰を据えて研究が出来る場所も必要で、海に近い国を出資者として知識を分け与える代わりに協力を得た。
研究は満足に進み、探していた軸椎も手に入る。
協力は得るが、ダァバは他人など信用しない。
女神の軸椎を使って何人か呪術で隷従させたが、一定数以上出来なかった。片手の指の股ほど。最大で四人。
しかし隷従の呪術は命令には従わせられるが意志は消せない。奴隷同士でも無用な諍いを起こしたこともあり、よほどの場合でなければ面倒だと控えた。
愛隷の呪いも、もちろん試した。見目のいい女に。
こちらは意志も消し去る。使い勝手がいいと思ったのは数年だけ。
人間は老ける。
年を重ねても呪いは解けない。ダァバに愛を囁き求めてくる。
鬱陶しい。
解呪の方法など知らない。ないのではないか。
呪枷と違って女神の声でかけた呪いだ。世界が終わるまで消えぬ呪い。
殺した。
不要になった道具を捨てるように。
だというのにその女は、命が尽きるその瞬間まで囁き続けたのだ。ダァバを愛しているだのと空言を。
気持ち悪い。
殺されてなお愛だのと、まるで母親だ。
あまりに気持ちが悪くて、それきり使うのをやめた。
元よりダァバの力は英雄を越えている。そして、この世界の常識を破るだけの知恵もある。他人など必要ない。
爆薬の生産も出来るようになり、準備は整った。
次の問題は、追われた故郷にどのように戻るかだ。
ただ船で帰るのでは、あまりに劇的でない。
神らしくない。
空を飛んで帰ろう。
決して海を行くのが恐ろしいとかそんな理由ではなく、上空から愚かな者どもを見下ろす為に。
空を飛ぶ方法。
魔法の風で瞬間的にそんなことも出来なくはないが、大陸間を渡るほど連続では無理だ。
飛竜を乗りこなす連中もいる。それとて海を渡ることは出来ない。
そもそも、化け物に乗るなどごめんだ。
他の方法を探す。
圧倒的優位な状況で臨むのがダァバの信条だ。
「僕の為のげえむなんだ、これは」
飛行船。
それがいい。飛行船。幻想と現実を兼ねる粋な道具だと思う。
また研究に時間を割いた。
普通の船でさえ事故、沈没がある。
試作した飛行船に搭乗して即座に向かうようなことはしない。
呪術を修め、技術を極め。
ダァバは十分に、入念に準備を進めた。
オエスアクシスで湖の化け物を従え、ダァバに逆らった清廊族どもに復讐する。思い知らせる。
完璧な計画が狂わされた。
ただの清廊族の女に。
「我が主よ、いったいどうなされましたか」
「……」
パッシオの声に意識が戻る。
全身を襲った不快感に、思わず嫌な記憶を思い出してしまっていた。
「いや……なん、だろう」
額に浮いた汗を拭った。
地平の端に町が見え、その町から煙が上がるのを見ていたのだが。
不意に右腕がひどく熱くなり、ダァバではないものがダァバの体内で暴れ、荒れ狂った。
何かに呼び起こされるように。
「……この、死んだ魔物が暴れたみたいだ」
「まさか」
パッシオが驚きの声を上げる。
驚いているのはダァバの方だ。
「あれには意識などないと……」
「ああ、そうだ」
ダァバは短慮な愚者ではない。
狂無の朱環に使う魔物の素材についても、散々研究を重ねてきた。
過去には手に入りにくかった清廊族の奴隷。
処女童貞のそれらも、国から融通してもらって研究している。
パッシオに使ったように、強力な魔物が遺した怨魔石。
これには意思が残っていることがある。弱者に朱環を使うと、元の魔物の意識に飲み込まれるようなことも。
同じ怨魔石から作る朱環でも、複数に分けてしまうと意思もバラバラに。
数多く妖奴兵を作ることも可能だが、一体ずつの力は弱まる。
意思のない魔物もいる。本能だけで生きている知能のないタイプの。
不定のアメーバ状の魔物であったり、植物的な生態の魔物。それらは滅多に怨魔石を残すことはない。
通常の怨魔石も稀だが、それよりずっと希少なもの。
当初はそこまで知らず、海に生きるナメクジのような魔物の怨魔石を実験体に使った。
切っても二つに分かれて生きるような生き物。
完成した実験体を二つに分けたら、やはりどちらも死なない。
ただ、元の人間の意識は片方に。もう片方は知性の欠片もない塊になって。
こういうものかと分かったので焼いた。
不死性は高いが、焼けば死ぬ。
これが灼爛のように火に強い魔物だったらどうなのだろうか。
ダァバなら氷雪の魔法で消し去ることも出来るだろう。
他の可能性は、という辺りで。
思い出した。
かつて自分が調べ集めたものを本の形にしたことがある。その中に書き留めたこと。
濁塑滔。
あれは神話の魔物であり、粘液状の魔物。
ダァバが身に宿すのなら、どうせなら不死性の高いそういうものがいいのではないか。
しかし、焦ることはない。
完成した飛行船で旧大陸に行けば、まだ知らぬ魔物があるかもしれない。
天馬のような魔物がいた。あれを身に宿せば神々しいかもしれない。など。
色々と考え、しかし湖の町で予測と違う事態があって予定を変えて。
結局、手に入れたのだ。ロッザロンドで、太古の魔物の残した怨魔石を。
「……大丈夫、落ち着いたみたいだよ」
「そうであればよいのですが」
町の煙を見て、急に体内の濁塑滔が勝手な意思を持ったようにダァバに反発した。
けれど、それも一時的なこと。
改めて冷静に自分の体内に意識を巡らせる。
少し違和感は残るが、突然に点火した熱さは消えていく。
もうどこにもダァバの意思を無視するような力はない。
心身を引き締め直した。
何もない。濁塑滔の力は全てダァバに取り込まれ、ダァバの砕けた手も完全に治っている。
「平気だ」
「わかりました」
パッシオは納得したらしく、短く切り上げる。
余計な言葉を重ねればダァバの気分を害する。
弁えた下僕としての振る舞いは、呪術関係の弟子とは異なり悪くない。呪術の適性がある者は変わり者が多い。
「あれらはどうなさいます?」
「うん」
血の探査の魔法で指し示した方角。
ダァバの血に連なる者を探して向かってきたが、飛行船より先に町に向かう集団がある。
「邪魔であれば」
「残っているそれを使えばすぐに片付くけど」
小型の飛行船に積んできた爆弾は、先の港町で全て使い切った。
興が乗って、花火をばら撒くように使ってしまった。子供っぽい所は自分の悪癖かもしれないと思わなくもない。
残っている爆弾に似たもの。
どうしたものか。
「速度を落として、見物しよう」
ダァバは子供っぽいが、短慮な愚者ではない。
先ほどのような不測の事態もある。もうないと思うが、それでも警戒する。
「あれだろう。港町に流れ着いていた」
「その旗印かと」
「面白そうじゃないか」
海を渡った軍と、燃える町。
急ぐこともない。回り道をするわけでもない。
「何か食べながらゆっくり進もう」
「主の仰せのままに」
急に荒れた意思にダァバも注意力を欠いていたのだろう。
血の探査の魔法が指し示す方角が、進行方向の町から変わっていたことに気付くのは少し後になってからだった。
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