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戦禍の大地に咲く百華  作者: 大洲やっとこ
第一部 傷に芽吹く火種
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第26話 イリアの選択




 ラッケルタに乗っているのは好きだ。

 ヘリクルが不安を感じないのは、ラッケルタに乗っている時だけだから。


 他の者はほとんど寄ってこないし、ラッケルタの動きで押し付けた股間が擦れるのが心地よい。

 誰かが見ているのもいい。良い女であればより良いが、残念ながらこの養殖場に女は少なかった。

 ごく少ない天翔騎士の女どもの視線がある時は、必ずいつも蔑む視線だ。


 ラッケルタに乗り股間を固くするヘリクルを、彼女らはいつも冷たい目で見る。

 時には上空から唾を吐かれることもある。

 それはヘリクルをとてもとても興奮させた。


 つい跨る足に力が入り、ラッケルタが急ぎ足になると摩擦が激しくなる。

 彼女らはそれをヘリクルが嫌がって逃げようとしているのだと理解しているらしいが、事実は逆だった。



 父親……ヘリクルは父を、知らないわけではないが、話をした記憶はほとんどなかった。もう死んでしまったが。


 父のことを、母は大層恨んでいた。

 成功を手にしたら、あっさりと自分を捨てたのだと。


 幼かったヘリクルにはよくわからない。

 父は出ていく際にいくつかヘリクルたちに残していったものもあったし、その後も言葉をかけることはなかったが色々と気遣いはされていたと思う。

 この養殖場の警備という仕事も、父がそう取り成してくれたのだと知っている。


 父が出ていく頃は、まだラッケルタは小さかった。当時のヘリクルほどではなかったが。

 鎖につないでいただけのそれに、黒い呪枷をつけろとヘリクルに言ったのは父だった。


 安くはないだろう黒い呪枷――一度つけるとつけられた者には外せず、また成長と共に大きさを変えていく。その十日ほど前にヘリクルの血を瓶に採っていったのも、その呪枷の為だとか。


 ただの首輪ではなく呪いの道具だ。

 それをラッケルタに嵌めたことで、ヘリクルはラッケルタの主人になった。



 もう一つ、白い首輪があった。

 白い首輪をつけた少女がいた。


 それは、父が出ていくことになる少し前に、ヘリクルたちの家に来た少女だった。


 翔翼馬を捕えた報奨金は大きく、父はトゴールトに小さな家とその少女を買った。

 母には、家の雑事の為だと説明していたが、もちろんそれだけではなかったのだろうと今ならわかる。


 影陋族の奴隷少女。適当に伸びた前髪で目元がよく見えず、頬にソバカスも見える地味な印象の少女。

 見栄えの為だったのか知らないが、安く買えたのだとか。


 その少女も置いていった。

 父が行く新しい家には連れていけないということでだったのだが。



 置いて行かれたその奴隷少女とラッケルタはヘリクルのものになった。

 母はしばらく荒れていたが、いずれ父が残した金と共に町から姿を消した。

 どこかの男と別の町にでも流れたのか、それとも金も命も奪われたのか。


 残されたヘリクルは、影陋族の奴隷に家事をさせながら、ラッケルタと共に簡単な冒険者の真似事などをして成長する。



 そうしているうちに年齢も十三を過ぎた頃、トゴールトの兵士から言われた。

 町の北にある魔物の養殖場の警護の仕事をしないか、と。


 大きくなってきたラッケルタは町で暮らすのに不自由になりつつあったし、ヘリクルも人間の多い場所を億劫に感じていた。

 ラッケルタとヘリクル、またその奴隷も住める場所は用意してくれると。

 仕事さえすれば食べ物にも不自由はさせないということで、ヘリクルはその話を受ける。



 後で天翔騎士から言われた。

 町で暮らしていると、父や、父の新しい妻の目に留まるのだと。

 だから追い出されたのだとか。


 事実かもしれないが、別にどうでもいいと感じた。


 人の目が多すぎるのは好きではない。雑踏というのか、そういう場所は嫌いだ。

 あまり人気のない場所で、たまに蔑むような視線に気づくと股間が熱くなる。常に人目に晒されているのとは違う。


 ヘリクルが自分の性癖をはっきりと自覚したのは、ここにきてしばらく経ってからだった。




「……」


 住処に戻り、ラッケルタにそこで待つように指示して、体内に蓄積した鬱憤を晴らす。

 吐き出す。

 吐き出す相手はいる。相手というのか、道具というのか。


 この三十年近くでヘリクルは自分が年齢を重ねたと思うが、その道具はあまり色褪せない。

 いつも蔑むような冷たい目でヘリクルを見ている。


 そういう目で見るように命じているのもヘリクルなのだが。

 ここで良いのは、命じられたからそのような目をしているのではなく、心の根っこからヘリクルを侮蔑しているところだ。


 嫌悪し、厭い、唾棄する。

 けれど逆らうことは許されない。そういう関係が結ばれている。


 母は父を恨んでいたかもしれないが、ヘリクルにとって父は必要なものを全て与えてくれていた。

 恨みなどない。



 もう一対の瞳もある。

 赤黒い鱗の中に、感情を感じさせない黒い瞳。

 ヘリクルが小用を済ませている間、その黒い瞳がヘリクルを映している。


 冷たい瞳。

 トカゲの魔物であるラッケルタの瞳は、全く温度を感じさせない。

 それがまた良い。



 逆の組み合わせの場合もある。

 ヘリクルが跨るのが、逆の場合もある。その場合は見つめる瞳が逆の立場になるだけだ。

 特に意味はないが、その時の気分次第だった。


 白い首輪と黒い首輪。どちらを嵌めていても、ヘリクルの命令に逆らうことはないのだから。



  ※   ※   ※ 



 ヘリクルが眠った後に、彼女は体に残る唾液を拭って立ち上がった。

 拭ったところで汚れがなくなるわけでもないが、そのままにしていると臭いが残る。

 吐き気のする臭いが。

 いくら時を過ごしても変わらない。


 無防備に眠る男を殺してしまいたいと思わないわけではない。

 毎日、思っている。

 毎時、思っている。

 思わない瞬間はない。


 けれどそれは出来ない。白い首輪をつけた自分も、黒い首輪をつけた魔物も、この憎い男の身の安全を守るよう命じられていて、それには逆らえない。

 死んでしまえばいいと思っていたところで、いざ男の身に危険があるとわかれば、それを知らせ、身を挺して守ることになる。


 自由のない毎日。

 あとどれほど続くのだろうか。

 死ぬまで続くのだろうか。

 死ぬことさえ許されないのに。



「今、ごはん用意しますね」


 黒い瞳に、瞼がかぶさり、戻る。

 感情を読み取ることは出来ない。ただの条件反射として応じているのかもしれない。


 そういえば、魔物は人間の言葉による指示に従う。

 難しいことは出来ないが、進めとか止まれとか、見知らぬものに対して攻撃をしろだとか。


 ある程度は言葉を理解できるのかもしれない。

 話すことは出来ないから、ただ雰囲気で察しているだけなのかもしれないが。



「……」


 トカゲの魔物――ラッケルタの食事を用意するのは嫌いではない。

 作業的な話ではなく、ラッケルタは食べ物をもらうとほんの少しだが嬉しそうに尻尾を動かすのだ。

 忌まわしい男の食事を用意するよりも楽しいと思う。


 生肉を切るだけなので作業が楽なことも、もちろん多少は気が軽くなるのだけれど。。



 トカゲの食事は肉ばかりではなく、人間の足ほどもある昆虫の場合もある。あるいは小さな昆虫を桶一杯に与えることもあるのだが、精神的にきつい。


 ヘリクルが、生きたままの小さな昆虫を彼女の体にまぶして、ラッケルタにちろちろと舌で食べさせたことがあった。

 気が狂いそうだった。

 なぜあんなことを思いつくのだろうか。人間と言うのは。



 用意した肉の塊をぺろりと飲み込み、小さく尻尾を震わせるラッケルタを見て、少し落ち着く。

 彼女――そう、ラッケルタもメスなのだが――も、忌まわしい主が眠っている時間は少し気が休まるようだ。


 奴隷少女と奴隷の魔物とで、静かになった屋内に丸まって眠る。



「いつか……」


 こんな生活が終わる日が来るのだろうか。

 それは命が終わる時なのかもしれない。

 だとしても、今よりは良い。


 唾棄すべき人間の主と、境遇を同じとする魔物の世話をする清廊族の女の名は、ネネランと言った。



  ※   ※   ※ 



「……」


 もうやめて。

 嫌だ、いやだ。こんなのは嫌だ。

 聞きたくない。


 なぜこんなことをしている。

 なぜそんなことをする。


 聞きたくない。

 聞きたい彼女の声だけれど。聞きたい彼女の嬌声だけれど。

 聞きたくない。



 イリアは耳を塞ぎ、目を塞ぎ、木陰でうずくまっていた。

 塞いだ手の厚みなどほとんど意味はない。

 イリアは斥候だ。

 耳が良い。

 こんな時に自分の技能が、自分の特性が嫌になる。



 待てと命令された。

 マルセナに命じられた。

 だから待っているけれど。



(あの男……絶対に殺す)


 イリアの愛しいマルセナに何をしているのだ。

 わかっているけれど。わかっているけれど。


「……」


 森に響く愛しい嬌声は、イリアの心に昏い殺意を募らせる。積もらせる。

 降り積もった殺意は、心の底で腐葉土のように熟していくようだった。



  ※   ※   ※ 



「言ったはずですわ。あの勇者のお坊ちゃんより下手糞ってことはないでしょうと」

「だからって、あんな……」


「イリア」


 殺意交じりに不満を言うイリアに、マルセナは艶やかに嗤う。


「どうせ同じことなら、わたくしだって楽しみたいですわ」

「……」


 イリアの不愉快など、マルセナには関係がない。

 それは確かにそうなのだけれど、イリアの殺意は消えない。



「それよりも、決めましたの?」

「本気で言ってる……の?」


 マルセナの手には、今までなかったものが握られていた。

 黒い帯のような。


「……呪枷を……黒い呪枷を、私に……?」

「何でもする。そう仰ったのは貴女ですわ」



 そんなことの為に、それを手にする交換条件で、あんなことを。

 提案したマルセナは異常だ。

 相手が呪術師だと知って、そんなものを譲れだなんて。


 それを聞いた呪術師も異常だ。

 面白いから代償があればいいだろう、だとか。



「ねえ、マルセナ……本当に、何でもする。私は貴方の奴隷扱いでもいいの。だけど」

「なら問題ありませんわね」

「そんなものなくても! なくても、ちゃんと……ちゃんと、誓うから。女神に誓って、貴女に従うから……」


 信じてほしいと、再度繰り返す。

 何度も繰り返す。私の愛を信じてほしいと。


 呪枷などなくても、イリアはとうにマルセナに忠誠を誓っている。隷従しているつもりがある。


 黒い呪枷をつけられる人間など、よほど許されぬ悪行をした者だけだ。卑奴隷と呼ばれる死刑に等しい刑罰を受けた犯罪者。

 もしくは、金も分別もない主に飼われている影陋族か。


 白い呪枷を刻むよりは、黒い呪枷の方が安価だと言われる。

 そんなものをイリアに着けろと。




「わたくし、人の言葉は信じませんの」

「マルセナ……」

「どうしてもイヤだとおっしゃるのなら、そうですわね。この先は別々がよろしいのではなくて?」


 イリアの視界に、少し離れた場所で成り行きを見ている濁ったローブの男が映る。


 別々。

 その場合マルセナは、あのような汚らわしい男と行動を共にするのだろうか。



「マル……」

「イリア」


 なお言い募ろうとするイリアに、マルセナが距離を詰める。

 イリアの頬を撫で、つま先で立って唇を近づけた。


「……あぁ、マルセナ」


 とろける。

 愛しいマルセナの体温を感じて、とろけてしまう。



「他に、選択肢がほしいとおっしゃるの?」

「……」

「わたくしの奴隷として目に見える形で従う。それ以外の選択をしたいと?」

「だから……そんなものなくても、私は……イリアは、貴女の奴隷です……」

「可愛らしいことを」


 呪枷を手にしていない方のマルセナの指が、イリアの唇に触れた。



 ふっと緩んだイリアから、マルセナが一歩引いた。


「それでは」


 一歩引いた提案を。



 左手に呪枷を下げて、右手で自分の首を示す。


「イリア、貴女が……」

「……?」

「貴女が、わたくしに、これをつけるか。どちらがよろしいかしら?」


 両手を広げて、どっちを選びますかと嫣然と嗤った。


「ま……る、せな……?」


 何を言われているのかわからない。

 都合が良すぎて、あまりにそれはイリアの欲望を完璧に満たしすぎて。


 そんな選択肢があることが、理解できない。



「今なら、わたくしからこれを奪い取って、わたくしを押さえつけて、無理やりでもわたくしの首にこれを嵌める。そんなことも出来るのでは?」


 出来るの、では?


「……」


 可能性を示されて、あまりにその可能性が魅力的すぎて、言葉を失う。


 マルセナを隷属させる。


 考えもしなかった。

 なんていう素晴らしい提案なのだろうか。


 いや、イリアは決してマルセナにひどいことをしたいわけではない。

 むしろ、マルセナには自分を傷つけるような、自分を卑しめるようなことはしてほしくない。

 先ほどのような。



 マルセナは病んでいる。

 他人を信用できず、自分のことしか見えていない。


 同時に、ひどく自分を安く見積もっているというか、自分の体さえ手段の一つのように軽々に扱うことがある。

 勇者シフィークに対してもそうだった。今の呪術師に対してもそうだ。


 おそらくイリアの知らないところで、もっと別のこともしているのだろう。

 マルセナは、どこか壊れてしまっている。


 マルセナはマルセナ自身を大切にしない。

 イリアがどんなに願っても、聞き届けてくれることもない。


 けれど。


 ――呪枷があれば。


 それがあれば、マルセナを守ってあげられる。

 イリアの意志で、マルセナの身を、いずれはその心も、守ってあげられる。


 命令は絶対だ。マルセナが傷つくようなことを彼女が選ばないようにすればいい。


 素晴らしい。

 これこそがイリアの望む答えだ。



(……)


 マルセナが、イリアの言葉に絶対服従するというのなら。

 その身を、自由にすることも出来る。


 イリアがマルセナの体を堪能することが可能になる。隅々まで、好きなように。

 マルセナに、イリアの欲しいところへ口づけをさせることも。

 あのとろけるような舌で、もっと深い……



(……違う)


 ダメだ、違う。

 それは愛ではない。


「私は、貴女を愛しているだけなの。そう言ったわ」


 嘘偽りではない。

 それを証明したい。


「おっしゃいましたわね」


 マルセナは動かない。

 右手と左手を広げたまま、イリアの答えを待つ。


(呪枷を……マルセナにつける)


 そう決めた。

 それがイリアが示せる愛だ。


(呪枷をつけて、何も命令しないで外す)


 そうすればいい。

 イリアが心からマルセナを愛していると、わかってもらえるように。


 それが正しい答え。

 イリアの真意を伝えられるたった一つの方法。

 きっとマルセナも、イリアの言葉を信じてくれるようになるだろう。



 距離は近いし、マルセナは杖を持っていない。今は完全にイリアの間合いだ。

 だから彼女も言ったのだ。選べと。

 大人しく呪枷を受け入れるか、無理やり奪い取るか。



「本当に、好きなの」

「……ええ、そうでしたか」


 マルセナが笑った。

 イリアの大好きな微笑みだった。



  ※   ※   ※ 

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