第266話 葬列に歩む足
動き出すまでに一瞬の迷いが。
――わたくしの邪魔にならぬよう。
そう言われた。
無敵の姉リュドミラに危機などあるのか。
危機だとして、ハルマニーがそれを助けようと飛び込んだら。
姉は、唱えている魔法でハルマニーを焼かないだろうか。
復讐の怨嗟に囚われ、憤怒の微笑みを浮かべる姉。
それを見てしまったから。
――怖い。
幼い頃から刷り込まれたきた感情。
足が竦んだ。
それはハルマニーの罪なのだろうか。
きっと姉は許してくれない。きっと。
※ ※ ※
リュドミラとて痛いものは痛い。
万物を裂く灼熱の杖の魔法。
あれが消されるとは思わなかった。
消されたのではない。強引に切り離された感じ。
わずかな狼狽の隙に捨て身の体当たりを受け、朝日のような光の剣で斜めに斬られ。
その傷口に爪を立てられ、痛くないわけはない。
もう一つ、わずかに迷った。
助けようと飛び込んでくるハルマニー。信じて片方を任せていいのか。
リュドミラより弱い。信じて、母は死んだ。
ハルマニーはどうなのか。リュドミラに手傷を負わせるほどの敵に。
考える時間はなかった。
敵の爪が肩口に届き、振るった右のラーナタレアが敵の左腕を鋭く切断した。
リュドミラが振れば並の剣よりもよほど鋭い。
「お前もこれで――」
「うがああぁぁ!」
「っ!?」
信じられない。
腕を切り落としたのだ。どんな者だろうが痛みで一瞬は怯むはず。力が弱まるはず。
わずかな逡巡もなく、噛みついた。
リュドミラの反対の肩口に。
「くっ! けだものが‼」
「ぶぅぅああはぁぁ!」
リュドミラの血で口を濡らして、顔に頭を叩きつけた。
見えている。歯を食いしばりそれを見据えて。
「退きなさい!」
「ぶぇっ」
打ち返した。
見苦しく眉間で、影陋族の女を打ち返した。
情けない声を上げて後ろに転がる女。
ハルマニーは何を――
見なければ良かった。
見るべきではなかった。
噛みついてきた女を頭突きで引き剥がして、ちらりと送った瞳に映ったのは。
目測を誤ったのか、幻でも見たのか。
空を打つハルマニーの拳と、その下に潜り込み包丁を差し込む灰色の影陋族。
「あ――」
「ね、え……」
真っ赤に染まった。
真っ白に染まった。
頭が、視界が。激情に飲み込まれ。
何をやっている。愚昧な妹は。
何をやっている。下劣な奴隷が。
やられるはずがない。少なくともそんな女に負けるはずはないのに。
奥歯が一度音を立てて、その激情を食い千切った。
「お前たちはぁぁぁ!」
許さない。許さない。
決して許しはしない。
リュドミラにこんな思いを再びさせた妹も、許さない。
「全て!」
「霰雪……っ!」
ハルマニーを見なければ、絶対に受けなかっただろうつまらない攻撃。
簡易詠唱。ただ冷たい霰をほんのわずかに吹かせるだけの。
怒りに染まったリュドミラの目に、かすかに染みた。
零れかけた水滴に凍みた。
「母さんのまふらぁぁっ!」
頭突きを受けて後ろに転がった姿勢から、飛び込まれた。
リュドミラの腹に。
破れた服から、リュドミラの腹に突き立てた。
尖った指を。
「……が……ふ……」
力が、抜けた。
激しい熱を感じて、それが自分のものなのか、自分を貫く獣のものなのかもわからず。
膝から崩れ落ちた。
ずるり、と。
涙が零れる。
さっき凍った雫が、目頭の熱で溶けて零れ落ちる。
泣くなんて、どれくらい前のことだろう。
奇妙な安らぎ。
お父様と、お母様と、お爺様と。ハルマニーも一緒に。
これならもう、弟ユゼフに言い訳をしなくて済む。
ただ安らかに。何も心配せずに。
「や、った……母さん、わたし……」
「……アヴィ、さま」
残った影陋族の声が耳に届いた。
目がかすむ。暗い。何も見えない。
この世界にこいつらを残して……いけない。
弟の為に、この危険な影陋族を残してはおけない。
目は見えないが、手の感触が教えてくれた。
ラーナタレアがまだ手元にある。だから。
「天地果つる……陽窯の、扉獄……に……」
呟いた。
紡いだ。
「つき……よ……」
こんな世界など、全て。
焼き尽くされればいい。
「いかん! 真白き清廊より――」
もう遅い。
「……ぬれずみ、の……そうれ、つ……」
女神に見放された魂は、日輪の業火に焼かれながら列を作り自らの葬送を歩むのだと。
自らを焼く窯に向かって、黒く煤けながら焼き尽くされるまで歩き続ける。
ここにいる連中も皆。
「来たれ絶禍の凍嵐!」
双対のラーナタレアから、白く輝く太陽と、冷たく凍える嵐がそれぞれ放たれた。
※ ※ ※




