第254話 血の汚れ
総大将ラドバーグ候ニコディオであってもこれだけの大戦、血が滾ったのだろう。
門を破ったと聞いて、自ら仕上げに向かうと行ってしまった。
紛うことなき最強の菫獅子。
いざ動けばその速さも他の追随を許さない。部下は遅れてしまったが、向かう先が激戦地であれば他の騎士たちもいる。
心配はない。むしろニコディオの戦いに巻き込まれて被害が出ないか、その方が懸念される。
全員がエトセンに突撃というわけにもいかない。
参謀長クィンテーロは、町から溢れてくる住民や敗残兵に備えて東に布陣していた。
手勢は三百程度。全員を捕らえたりできるわけではない。見過ごせないと思われる者だけを。
そんな中に、人を抱えて飛び出してくる姿。
人間を抱えて相当な速度で走れる者など、只者であるはずがない。
女。
小柄な女が、怪我をした女を抱えて。
いや、死体か。
「捕えよ!」
クィンテーロの指揮下の騎士たちがそれを囲んだ。
「退きなさい」
立ち止り、女の死体を抱いたまま命ずる。
焼けた町から出てきてあちこち煤けているが、堂々と。
焦げた衣服の中、朱色の片掛けだけが妙に色鮮やかに彼女を彩っていた。
美しい。
金糸の髪を風がふわりと撫でる。
「……退きなさい」
もう一度。
死体を置いて逃げれば、一人なら逃げ切れるだろうに。
「よほど大事な死体らしい」
「関係ありません、お前たちなどに」
ぎ、と。持っていた上等そうな魔術杖を握り締めた。
「お前たちなどに、クロエを」
「そうか、貴様か」
筋力も相当にあるが、本分は魔法使い。だとすれば相当な力を持つ魔法使いで、クィンテーロがこの数日探していた相手。
「エトセンのチューザを討ち取った冒険者だな」
この美貌。存在感を見落とすとは中々考えにくいが。
「これほどの器量とは思わなかったが、見事である」
危険な魔法使いだということはわかっている。
油断していい相手ではない。
そもそも敵に回す必要もないのだ。
「チューザを討つ其方の力、高く評価しておる。我が主も褒美を与えたいと仰せだ」
そうは言っていなかったが方便として。
冒険者であれば報酬を求めないことはないだろう。
「……褒美?」
聞き返したという風でもなかった。ただ繰り返したようで。
視線が抱えている死体に移り、眉が僅かに揺れた。
「そうだ、望む褒美を与えても良い」
「……」
迷う表情が浮かんだ後に、口元が緩んだ。
笑う。
嗤う。
嘲るように。
「では、この子を生き返らせて」
何でも望みを叶えようと言うのなら。
出来もしない望みを口にした。
「……残念だが」
「構いませんわ。お前たちに出来るはずもない」
再び笑う。
嘲っているのはこちらのことではない。それを死なせた己自身に向けて。
恋人だったのだろうか。
女同士だが、そういうこともあるだろう。特に強い力を持つ者同士であれば理解者は少ない。
「人を生き返らせることは女神ならぬ我らには出来ん。しかし、大人しく従うのであれば悪いようにはせん」
このまま見過ごしていい相手ではない。
これだけの力を持つ魔法使いを放置して、敵に回られたら厄介だ。
「其方の力。ルラバダール王国栄光の菫獅子騎士団に預けよ」
田舎の冒険者風情が、正騎士団に迎えられるなどあることではない。
光河騎士団であれば力ある外部の者を勧誘、入団させることもあるが、菫獅子騎士団ではほとんど前例がない。身元の確かな王国の有力者のみ。
外部の強者については、婚姻でその血を取り込むことはあっても。
そう、婚姻だ。
これだけの魔法使いの血統。騎士団幹部との間に子をもうけさせるのもいい。この女も貴族になれるのだから望外の待遇。
「力だけではない。其方ほどの美貌、器量。その姿であれば貴族――」
どうせ口約束だけなら大きなことを言ってもいい。
「我が主君であっても、側室にと迎えられるかもしれん。王国最大の侯爵の家柄ぞ」
およそ一般人に望めるはずもない栄誉。大貴族の妻など。
「……わたくし、を?」
小首を傾げた。
そうだろう。理解も出来ないほどの夢物語。
薄汚い冒険者稼業から、華やかなお姫様になるような。
「そうだ。最高級のドレスに美酒。金銀珠玉など望むだけ捧げられる」
「……ああ、あぁ」
息を漏らした。
冷たい吐息。
再び浮かんだ嗤いは、明らかに蔑みを含んでいた。
「……下らない」
「愚かものが」
「わたくしが美しい? この身がそれほどに?」
首を振る。
「こんな、下らないものを……わたくしは、どうして……母様」
もう一度、首を振った。
何を思い返しているのか。
そっと、抱いていた女の死体を地面に置く。
壊れないように優しく。
「……指一本、触れさせませんわ」
魔術杖を構えるまで動けなかったのは、自尊心から。
菫獅子騎士団の参謀長として、この女の雰囲気に飲まれて先に手を出すなど。
そう感じていた時点で無意識に自覚していたのかもしれない。
己の方が格下だと。
煤けた冒険者ごときを相手に、ルラバダールの名家の出であるクィンテーロが。
「わたくしにも、クロエにも」
「ならば死ぬしかない。いや、魔法使いであったな」
片手を掲げて部下たちに指示を出した。
「杖を取り上げ力尽きたところを捕らえよ」
魔術杖がなければ大した魔法は使えない。
「捕え、我が騎士団の為に延々子を産ませてやろう。薄汚い血が、栄光の菫獅子に継がれることを誇りに思うがいい」
「……薄汚い。ええ、確かに」
笑い方がころころ変わる女だ。今度の笑みは寂し気に。
「この汚れた血は、母様の為だけに」
杖が掲げられた。
「九天の環涯より、繚れ紅炎の蓮華」
「対魔法使い戦闘! 英雄をも倒す牙を見せてやれ!」
「はっ!」
エトセン開戦の夜に見た巨大な炎の蛇が、再び戦いの幕を焼き破った。
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