第24話 駆けた日々
走っていた。
思えばずっと野山を駆けていたような気がする。
今よりずっと昔。多くのことを知り、様々なものを感じる前は、ただ走っていた。
生きる為に走っていた。
己より強い生き物から逃げることもあった。
四本の足は山を駆けるのにこれ以上ないほど適していたし、また走ることで生を実感した。
ひどく清々しいほど晴れた日に峰を駆けると、鳥でもないのに大空を舞っているかのような気分にもなれた。
嵐の中を駆けると、己も嵐の一部なのだと思った。
ある時、気が付いた。
己が他の魔物と違うということに。
その瞬間は唐突に訪れたような気もしたし、薄々感じていたことがゆっくりと明らかになっていったようにも思う。
それからは、少し変わった。
ただ走るだけで爽快な気分になっていたそれまでと違い、何をしているのかと考えるようになった。
長く生きて、何を長く生きているのかと考え、答えのない思索をしながら歩む。
そういう日々を、いったいどれほど続けたのだろうか。
今思えば、そんな日々のことはあまり思い出さない。
思い出すのは、気まぐれに拾った清廊族の娘のことばかり。
最初の頃の苦労や失敗は、今思い出しても情けない。
赤子など、同じ系統の魔物の赤子のことも知らない。
知識だけは拾えたが、知識と実際とではまるで違った。
本当に、ただ長く生きてきただけで何をしていたのかと。
魔物と違い、庇護する者がいなければ生きていけない貧弱な生き物。
どういう経緯でも託された以上はどうにかしようと思い、まともに言葉にならない赤子の感情を、真ん中の角で受け止めながら手探りに進んだ。
食べ物の世話。汚れたり破れたりした衣服を繕ったり洗ったり。
次第に大きくなっていく赤子に、自身の名前をエシュメノだと教えたが、最初はなかなかうまく喋れなかった。
熱を出した時には薬になる植物を探して、だがその苦さに大きく泣かれた。
山や森には食べられる草花が多かったが、冬になるとそれらも減った。
魔物の肉を食う為に、あまり得意ではない炎の魔法を使うことを覚えたりもした。エシュメノに生肉は食べさせられない。
エシュメノが大きくなり、自分でも魔物を狩ったりするようになった。
つい、良い所を見せてやろうとエシュメノよりも大きな獲物を狩って、不貞腐れたエシュメノが家出したこともある。
どこに隠れているかなどすぐにわかったが、すぐに見つけたらまた拗ねてしまう。
仕方なく、探している振りをしながら時間を過ごして、眠ったエシュメノを迎えにいった。
うまくいかないことも多かったが、いつもエシュメノと一緒だった。
思い出は、全てエシュメノと共にある日々だ。
そうだ。
今ならわかる。
己が生きてきたのは、この子の為だったのだと。
最初からそう決まっていたわけではない。
エシュメノがくれた。
ソーシャが生きる意味を、生きてきた意味を、エシュメノが与えてくれた。
生きる理由ができた。
無為に思索して過ごしていた日々は何だったのか。
生き物なのだ。己の子の成長を喜びと感じるのが自然な営みだと、当たり前のことをエシュメノに教えてもらった。
たとえ血の繋がりなどなくとも、ソーシャはエシュメノの親であり、エシュメノはソーシャの子だった。
そんなことばかりを思い出す。
そんなことしか思い出さない。
幸せだった。
ソーシャは、エシュメノと共に歩み、駆けてきた日々を、幸せなのだと知ることが出来た。
「ソーシャ! ソーシャ!」
気が付けば、川のせせらぎと共にエシュメノの泣き声が聞こえる。
駆けてきた。
力を振り絞り敵を撃つ魔法を放って、エシュメノを無理やり担いで駆けてきた。
その間もずっと呼びかけられていた。
「ソーシャ、しっかり! エシュメノが薬草取ってくるから」
山で怪我をした時に、普段なら魔法で癒してやれた。
だが、いつかエシュメノがソーシャから離れて暮らす時の為に、有用な植物などのことは教えていた。
覚えているのなら、教えたことは無駄ではない。
「こんなの、すぐ治るから……エシュメノが治すから」
「トワ!」
他の者の声も聞こえる。
駆けてきて、彼女らの所に辿り着き、足が止まったのか。
エシュメノを託せる相手だと。
後ろから追ってきたのは、戦いの場にいた者たち。
やむを得ず空間破砕の魔法に巻き込んでしまったが、無事だったようだ。
「ルゥナ様! これは……」
「話は後です。トワ、ソーシャを癒してください」
「はい……ですけど……」
遠慮がちに、後ろ脚の辺りに手の感触が触れる。
そのまま少し暖かい感触が、腹に当てられた。
痛みは、なかった。
「む……う、これが……」
「それを……」
彼女らが戸惑う気持ちはわかる。
理解している。
「ルゥナ、ソーシャを……」
「わかっています、アヴィ。ですが……」
そうだ、わかっている。
今の自分の状態など、己がよくわかっている。
『エシュ……メ、ノ……』
「ソーシャ!」
喉の近くの空気を振動させて喋る魔法も、すっかり使い慣れた。
壱角の特性でもある程度の意思疎通は出来るが、エシュメノの声を聞くのは嫌いではない。
山々に響き渡るエシュメノの声は気持ちが良い。
『これを……』
「うん」
『……お前の手で、抜いてくれ』
「……うん、わかった」
私の体を貫くそれを、エシュメノの手で抜いてほしい。
濁塑滔の気持ちは、今ならよくわかる。
それしかないのなら、誰もがそうするだろう。子を愛する親であれば。
「エシュ――」
「アヴィ!」
濁塑滔の娘たちはわかっている。
止めようとした。
そして、それを止めた。
「……アヴィ、だめです」
「でも……だけど……っ」
「駄目です」
「だって」
「聞き分けなさい!」
「っ!」
そうだ。
彼女らの葛藤と悲痛な想いはわかる。
同じことを経験してきているのだから。
「母さんの、望みです……聞き分けてください」
「……」
そんな彼女らだから、エシュメノを託せる。
エシュメノの手が、私の体を貫くそれに掛かるのがわかった。
力を抜く。
力が入っていたら、うまく抜けないだろう。
体を貫いたそれと共に、他の何かも抜けていくような感覚と共に、もう力を抜く必要はなかった。
もう、力は入らなかった。
「抜けた、よ……トワ、治して! お願い」
「はい……」
銀糸の娘が、無駄と知りつつも癒しを繰り返す。
濁塑滔の娘は震えていた。
こんな光景を二度も見せてしまうとは、少しばかり申し訳がない。
『エシュメノ……感謝する』
「うん、ソーシャ。大丈夫だよ、今……」
『角を……』
その言葉だけで伝わる。
抜いた刃を放り出して、エシュメノが顔を寄せた。
彼女の小さな角と、私の角が触れ合う。
『……』
伝えられる思いは、選べなかった。
濁流のように押し寄せる思い出と、温もり。
これでは私が何を言いたいのか伝わらないだろう。
だが、それでもいい。
エシュメノがこの先も生きていけるのなら、それが私が生まれてきた意味になる。
千年の時を生きて、今日死ぬ。
理由を持つことも出来ない死などいくらでもあるだろう。
私は幸せだ。
わかってくれるだろうか。
きっと、わかってくれるだろう。
『エシュメノ』
「ソーシャ……?」
『私のため、に……生きて……』
※ ※ ※
亡骸は、塵となって風に消えていった。
天高く聳えるニアミカルム山脈の峰々に舞い、千年の想いをその雄大な風景に飲み込んでしまう。
残されたのは、嘆きの声と、深緑の魔石と、二本の角だけ。
捻じれたような深紫の角と、真っ直ぐに伸びる漆黒の角と、それを掻き抱いて泣く少女。
アヴィが、山の魔物の娘を抱きしめて、共に泣いた。
エシュメノはアヴィと同じだ。
本当に、同じになってしまった。
誰も望まなかったのに。
それをもたらした敵でさえ、そんなことを望まなかったのに。
「……すみません、ルゥナ様」
「いえ、トワ……私の方が謝罪すべきです」
トワも泣いている。
無駄だとわかっていて、彼女に治癒を頼んでしまった。
頼まなかったとしてもそうしていたかもしれないが、指示したのはルゥナだ。
涙を耐えられる者はいなかった。
「……敵は?」
涙目でルゥナに訊ねたのはニーレだ。
彼女は責任感が強い。ただ悲しんでいるだけではいけないことを知っている。
先行していた為に、戦いの状況は把握していない。
ここで嘆いていて大丈夫なのかと。
「あれは……敵も、追っては来れないでしょう」
「そう……」
「来るならば」
ルゥナの目からも大粒の涙が溢れている。
先ほどエシュメノが放り出した刃を拾い、それを強く握りしめた。
あの英雄が使っていた剣を。
ソーシャの体を貫いたそれを握り締めて。
「……今度は、必ず殺します」
「そう……だね」
涙でぼやける視界で、遠い山を眺める。
「必ず、報いを」
天を貫くような遠い峰々は、勇壮な角を持つ獣が駆ける姿のようにも見えて、どこまでも美しかった。
※ ※ ※
「逃げろ……って、命令した……だろうが」
気配のおかげで目が覚めた。
意識が飛んでいた。
「……は、はは……その前に」
渇いた笑い声がわざとらしい。
「どいて、くれませんか? 男に押し倒されるのは、ちょっと」
組み伏せて喉に手を掛けられた状態で、よくもまあ笑えるものだ。
肝が太いのか、どこかずれているのか。
「ああ……わりい」
無意識状態で気配を感じて、咄嗟に体が動いていた。
誰であろうと近付く者は殺すと、そんな無意識状態で。
立ち上がろうとして、強烈な痛みと眩暈でふらついて、膝をつく。
「大丈夫……ですか?」
「ば、かか……阿呆」
間抜けなことを聞くな、と。
喉を擦りながら立ち上がり訊ねてくるツァリセに、罵声以外が口から出てこない。
「大丈夫そう、ですね」
「……阿呆が」
こんな大丈夫があってたまるか。
まともに立ち上がることも出来ずに、意識も朦朧としていた。
ただ近付く気配に咄嗟に動いただけで。
ツァリセかスーリリャでなければ殺していただろう。意識が戻ると今度は痛みで身動きが取れない。
「閣下!」
「……っとに、よ」
体だけの問題でもない。
気分も最悪だ。
子供を庇う母親を殺すなんざ、こんなことを平気で出来るやつの気がしれない。
仮に体が万全だったとしても、今はもう戦える状態ではなかった。
心が戦いを拒絶してしまう。
「……逃げろ、って……言っただろうが」
「でも……」
困ったように口籠るスーリリャだが、悪いのはツァリセだ。
あいつは隊長の命令をなんだと思っているのか。
「僕は逃げたかったですよ、そりゃあね」
なんだと思っているのか。
「スーリリャがどうしても戻るって聞かないので……あの破裂音を聞いて勝手に走り出しちゃうし」
「すみません」
この野郎、スーリリャに謝らせやがった。
自分が命令を遂行できなかったくせに、婦女子の頭を下げさせるとは。
スーリリャの服はびしょ濡れだった。川で濡れたのか。
「やられたんですか?」
本当に間抜けな質問をしやがる。
「だったら……俺が、生きてねえ……だろ」
「負けず嫌いですねぇ。とても勝ったようには見えないんですが」
軽口を叩くのは、ツァリセなりに心配していたからなのかもしれない。
「痛み分け、ってところ……か」
「逃げられたってことですね」
「閣下がですか?」
結果をみればそういうことになる。
俺はやりたくもない仕事をして、自分も深刻なダメージを受けて、肝心の連中には逃げられた。
「……俺の、負けだな」
「そんな……」
認めるしかない。
やりたかったことは何も出来ず、珍しい魔物を仕留めただけで、自分はこの体たらく。
敗北以外の何でもない。
「追いますか?」
「……やめとけ」
頭を振って立ち上がるが、腹の奥に残る痛みに顔が歪んだ。
やはりまともに動けそうにない。
「お前じゃ返り討ちだ」
「そうですね」
体を動かしながら自分の状況を把握しようとするが、あちこちの痛みでどこにダメージがあるのかわからないほど。
蹄をガードした腕にも無視できない痛みがあるし、角で削られた肩にも脳髄を掻き回すような苦痛を感じる。
最後の破裂の魔法で、全身を振り回されながら四方から殴られたようなダメージも小さくない。死んでいないのが不思議な程度に。
いくらか清廊族も余波に巻き込まれていたが、その中心で直撃を受けた自分ほどの影響はないだろう。
「あの魔物は?」
「……死んだ」
それは確信がある。あの一撃は命に届いている。
反撃の魔法は、死に瀕した魔物の最期の力だったとも思う。
当面の、カナンラダに生きる人間にとって最大の脅威になるだろうあれだけは、ここで討つことが出来た。
それを良かったと思うべきか、違うのか。
「伝説級の魔物を単独討伐ですか。報告書が嘘みたいな内容になっちゃいますけど」
「阿呆」
ただでさえ痛い頭に、阿呆な部下の能天気な言葉が不快さを増す。
はっきりしてきた意識を、軽く頭を振ることでもう少し明瞭にした。
「もう一度やったら俺が死ぬわ」
「閣下……」
「手加減された……ってな」
最期の魔法は、全力ではなかった。
至近距離にいた壱角の娘や他の清廊族を気にしてか、全力ではなかった。
それを言えば最初から全力ではなかったのかもしれない。
周囲への影響を考えて、力加減をされていた。
だから討つことが出来た。濡牙槍マウリスクレスもなく、万全ではない装備で。
「あれ、ブラスヘレヴは?」
ツァリセが、転がっていた鞘を拾いながら辺りを見回した。
鞘に納めるべき刃がない。
「ああ……なくした」
「はぁ? 影剣ブラスヘレヴをですか? またそれは、団長になんて言われるか……」
返してくれと言いに行けるはずもない。
長く愛用していた剣だが、失われた。
「ありゃあ俺の私物だ。ボルドに言われる筋合いじゃねえ」
「そういうの、通じる人ですかね。団長」
確かに、騎士としての心構えがどうだとか言い出しそうな気がした。
面倒な奴だ。口ばかりというわけでもなく、腕前と責任者としての振る舞いが両立しているのは認めるが。
「……少し休んだら、帰る」
「隊長、本当に負傷しているんですね」
今まで何だと思っていたんだろうか。怪我をした演技をしていたわけではない。
ツァリセが部下になってから怪我らしい怪我などしたことがなかったわけで、初めて目にする光景が信じきれないらしい。
こいつが弱っている俺を見たことなど、慣れないものを食って腹を下していた時くらいか。
「大丈夫ですか、閣下?」
「ああ」
不安げに問いかけてくるスーリリャに、少しばかり強がりの笑顔を見せる。
「ちっと休めば平気だ、このくらい」
娘を守るために命を張った魔物。
同じことを、自分はスーリリャの為に出来るだろうか。
それまで生きてきた自分の生涯や、その未来。全てを捨てても守りたいと。
「僕が聞いた時はバカとかアホとかしか……」
馬鹿で阿呆な部下の不満を聞き流しながら、思い返す。
「……」
俺は、何をしたのだろうか。
放って置いたら当面の人間の脅威となる敵。恐ろしい魔物。それを倒したつもりだ。
だのに、すっきりしない。
「閣下……?」
遠くに聳えるニアミカルムの峰々を見ていると、取り返しのつかない失敗をしたのかと、苦く重い何かが圧し掛かってくるような気がした。
俺は、何をしただろうか。
※ ※ ※