第246話 相違相愛
残っていた敵の強者をオルガーラが、エシュメノが倒して、戦況は決定的になった。
敵の大将ベラスケスが意識を途切れさせた次の一撃で、その頭が粉微塵に。砕けた氷と共に赤い飛沫が対岸に降り注いだ。
敵にとっては信頼の厚い将だったのだろう。橋が崩壊する中、あっという間の攻防の後に残った惨状。
判断が遅れた。
さらに副将、上位の指揮官を失い、収拾がつかなくなる。
まだ総戦力なら十分に戦えたはずだが、算を乱しての敗走。
それを追っていく清廊族の戦士たち。
「……私も」
「アヴィ」
ルゥナもまた遅れた。真っ先にアヴィに駆け寄ることが出来ず、息を飲んでしまった。
幸い、アヴィは倒した敵を掴んだまま呆けていて、他の戦士たちと共に追うのを忘れていたけれど。
「いけません、その体では」
思い出したように敵を追おうと言うアヴィに首を振った。
「から、だ……?」
まだ握っていた手から、ずるりと人間の死体が崩れ落ちる。
自分の手を見つめて茫然と。
「……」
痛ましい。砕け潰れた指は赤黒く。
左肩も、敵に砕かれて少しずれたような姿になっている。よく無事で。
「……平気よ」
「そんな――」
「ねえ、ルゥナ。ねえ」
馬鹿なことを言い出した彼女を宥めようとするが。
「ねえ」
妙に熱のこもった吐息で。
「平気、なの」
「アヴィ……?」
自分の手を見ていた瞳が震えて、それからルゥナを映す。
とても、嬉しそうに。
「平気なの。これ、何にも痛くない」
「そんなはずが」
「本当よ、ルゥナ」
折れていない人差し指と親指を握り、開いて。
「全然いたくない」
「……」
「母さんと……母さんと一緒……っ!」
ぱあぁっと、華が咲いた。
アヴィの色素の薄い頬に朱が差す。
「母さんもそうだった」
「アヴィ」
「母さんも、斬られても叩かれても平気だった」
「アヴィ!」
「私も、母さんと一緒! 母さんと一緒なのルゥナ!」
違う。
違う違う違う。
薬のせいだ。
忌まわしい人間の呪術の薬の作用。
この町で戦った人間の兵士もそうだった。どれほどの傷を負ってもそれを感じないで、わからないで、ただひたすら死ぬまで戦う。
呪い。
「アヴィ、違います。母さんとは違う!」
「違わない! 母さんが私にくれたの、この体を……この力は母さんと私の、絆の証」
違う。絶対に違う。
こんなものが絆であるはずがない。
愛ではない。この呪いのどこにも愛などあってはならない。
「やっとわかった。やっと、ここまでこれたの。ねえルゥナ」
「アヴィ、聞いて……聞いて下さい」
「母さんからもらった力、ちゃんと使える。私、ちゃんと出来る。ルゥナが言った通り、人間を全部殺す為の力よ。ねえっ!」
東部で、断崖アウロワルリスを目指す頃。確かにルゥナは言った。
大陸北部と西部の清廊族と合流して、人間と戦う力とすると。
呪いで失われたアヴィの力も取り戻すと。母さんからもらった大切な力を。
なのに。
こうじゃない。これではない。
確かに約束した。それを果たす為にここまで戦ってきたけれど、母さんが遺してルゥナが取り戻そうとしたのはこんな力ではないのに。
「よかったですね、アヴィ様」
感情が膨れ上がった。
仲間なのに。大切な仲間なのに、激しい怒気を。殺意にすら届くほど。
「セサーカ!」
「セサーカ、ありがとう。貴女のおかげ」
否定的なルゥナから顔を背けて、微笑むセサーカに寄るアヴィ。
負傷のせいで歩き方もおかしくなっているのに、本当に痛みを感じていないようだ。
「お役に立てたのなら嬉しいです。ですが」
バランスのおかしいアヴィの体にそっと手を添えるセサーカ。
「まだ敵は……人間はたくさんいます」
「そうね」
このアヴィをまだ戦わせようと言うのか。
だとしたら。
「お体を治しましょう」
「? どこも痛くないわ」
「ですけど、ほら」
セサーカがアヴィの手を取り、もう一度アヴィに見せる。
ひしゃげた指。セサーカの手と比較すれば明らかに。
「この手では武器を握りづらいでしょう?」
「……本当ね」
「肩も」
敵に打たれた肩。体に巻かれていた黒布のお陰で斬られはしなかったが、その下は鎖骨が砕けひどく腫れあがっている。
「これでは武器を振れません」
「痛くない、けど」
「上手に出来ないと、たくさんの人間を殺せませんから」
「そうね」
子供に言い聞かせるような話し方で、興奮気味のアヴィを宥めた。
「ルゥナ、治癒薬あるかしら?」
振り向いて尋ねる顔は、お腹が空いたと言うかのように邪気のない表情。
「……全部、皆の負傷の治療に使ってしまったので」
嘘ではない。
先の敗戦で、ウヤルカを始め皆が傷を負った。
敵から奪った治癒薬などすぐに使い果たし、トワ達が治癒をしても全員を万全にするには程遠い。
仮に残っていたとしても、今ここで出すのは躊躇っただろう。
傷が癒えればまたアヴィは敵を追う。
こんな状態で。
「敵の将官らしい者が持っていたものがありました」
ルゥナの気持ちを知ってか知らずか、前線にオルガーラと共に走っていたトワが戻って来た。
オルガーラはまともな状況判断が出来ない。放置しない為に続いたはずだが。
「トワ!」
余計なことを。
「ありがとう、トワ」
「いいえ」
何でもないと言うようにアヴィに手渡すトワに詰め寄る。
「なぜ……」
「ルゥナ様、落ち着いて下さい」
睨みつけるルゥナに静かに答える。
治癒薬の瓶を開けて飲むアヴィは、こちらの会話など聞いてもいない。
「あの傷では、放置しては危険です」
「……そう、ですけど」
「苦痛がないだけですから。重傷は治さないといけません」
その通りだ。
トワの言う通り。
明らかにルゥナの方が冷静でない。
薬の効果はいつも通り瞭然として、見る間にアヴィの肩の腫れが引いていき、指が真っ直ぐに戻っていく。
完全に、とはいかなかったが。
いつもならその様子に安堵を覚えた。
アヴィの傷が癒える。それを素直に喜べない日が来るなんて思いもしなかった。
治る過程でも激しい苦痛を感じるはずなのに。
痛くない。痛くない方がいいはずなのに、どうしてルゥナの心はこんなに痛むのか。
治っていく手を握り、開き。確かめて。
嬉しそうな顔をルゥナに向けかけて、ルゥナの顔があまりに険しかったからか、セサーカに向き直り笑いかける。
微笑み頷くセサーカ。その姿が正しい……のか。
トワといい、セサーカといい。
どうしてこうも。こんなはずじゃない。こうじゃないはずなのに。
うまく言えない。うまく言葉にならないけれど、違う。何かが違う。
けれど今の状況を見れば、敗戦を覚悟したところでの逆転。敵の強者を討ち取り、アヴィの復活が戦士たちに活力を与えてくれた。
うまく転がっている。
「……違う」
戦いだけではない。アヴィが生きる道は、こんな凄惨な方向ではない。
それはルゥナの望みなのか。ただルゥナがアヴィと共に逃げてしまいたいと、身勝手な願いを抱いたから。
「治ったら追わないと」
「アヴィ……ほとんど何も食べていません。貴女は、この数日」
虚ろなまま、満足な食事が出来ていなかった。口に運ばれたものを取り合えず飲み込んでいただけ。
「お腹は……」
瞬きをして、自分のお腹を擦る。
「……母さんも食べてた。戦った後は」
「そうでしょう」
今のアヴィが素直にルゥナの話を聞くとは思えないが、母さんと同じならば。
傷はまだ万全ではない。
少しでも休息の時間を作りたい。
「一度町に戻り、何か食べましょう。追うのはそれからです」
「でも……」
「母さんは」
何を言おうとしたのか、とりあえず母さんの名を挙げて。
「……母さんは、獲物を追いましたか?」
考えた。ゲル状の魔物だった母さんのことを考え、思いついたこと。
「ううん」
動きの遅い魔物だったのだから、獲物を追ったりしない。待ち構えて捕らえるのが主だったはず。
「落ち着いて、それから敵を倒しましょう。母さんがそうしたように」
「……わかった」
先ほどから返事の言葉が幼い。自分でもわかっていないだろうが。
セサーカが手を取る。
凍った川面を歩いて戻る姿。この川を凍り付かせたのはアヴィの力だけではない。
皆が戦いに目を奪われていた中で、セサーカは静かに魔法を使っていた。静々と、流れを凍らせた。
橋が砕かれた瞬間、水に落ちる前に。
アヴィの戦いを助ける。アヴィの邪魔をさせない。
セサーカはそれしか見ていなかった。
「……オルガーラは?」
「一刻したら戻るように命じてあります。あれのことですからうっかり忘れて深追いしそうですけど」
「そうですか」
他の戦士たちもいる。どこかできりを着けて帰ってくるだろう。
「……トワ、私は」
「大丈夫です、ルゥナ様」
なぜだか、戦い以上に疲れや不安を覚えるルゥナ。トワが背中を撫でてくれた。
「私がルゥナ様を守りますから」
「……」
「ルゥナ様は間違っていません。頑張っています。辛いことは全部、トワが赦して差し上げますから」
「……ありがとう、トワ」
違うのだけれど。
それはルゥナの求める言葉で、だからこそ欲しくない言葉。
トワの言葉はいつも甘い。
間違えた、失敗した。どうすればいいのかわからなくて不安。
ルゥナのそんな隙間に甘く染み入る。
だけど。
「……」
セサーカに手を引かれるアヴィの背中に、かける言葉は浮かばず。ただその背を見送るだけ。
苦いのに。
ルゥナとアヴィを繋ぐ道が見えない。崩れた橋のようになくなってしまったのか。
互いの間の溝は、この川のように凍り付いたまま。
迷いながら目を離せずにいるルゥナの後ろから、濁った熱を向けるトワに、背を向けたままで。
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