第238話 僭上廉恥
「間に合わぬ」
メメトハが首を振る。
「連中、かなりの速度のようじゃ。今からではとても逃げきれぬ」
気づくのが遅れたわけではない。
敵に気付いた斥候が全速力で伝令に走ったとしても、敵もまた進んでいるのだ。
ウヤルカが万全であれば、ユキリンと共にもっと早く……
ユウラがいれば、声の魔法などを駆使して……
「っ!」
頭を過ぎった考えの厚かましさに、思わず手元の卓を叩き割ってしまった。
「……ルゥナ、落ち着くのじゃ」
「……すみません」
恥知らずな考えだと。
ウヤルカの傷ついた姿を見ておきながら、まだ頼ろうと。
命を投げ出して献身してくれたユウラに対しても。
都合のいい手段のように考えた。
ウヤルカが傷つきユウラが死んだのは、ルゥナの力が足りなかったから。なのにまだ使えればなどと、どこまで恥を知らないことか。
「戦える者だけで迎え撃ちます」
他に選択肢などない。
「撃って出ます」
待ち構えても状況はよくならない。
「その間に、負傷者はサジュに……程度の軽い者に重傷者を連れていってもらいましょう」
他に手がない。
迫ってくる敵を迎撃して足を止める。可能なら撃退する。
戦えない者が逃げる時間を稼ぐ。
「私の判断が遅かったから……」
「そうではない、ルゥナよ」
もっと早くに決めていればと言うルゥナに、メメトハがはっきりと否定した。
「敵が異常じゃ。報告にあった行軍速度、練度。おそらく噂のエトセン騎士団という奴じゃろう」
行軍速度が速すぎれば、部隊がまとまりを失う。
多くの兵士を率いての行軍というのは、普通ならある程度以上の速度にはならない。
飛竜や、東部にいた魔物に騎乗する部隊であればともかく。飛竜騎士なら最初から数は揃わないが。
騎馬もあるが、戦闘を行う軍としてはあまり用いられない。
人間同士の戦争の場合、馬が炎に怯えて運用しにくいのだとか。他の手間も考えると、集団戦闘であまり有用な手段に成り得なかった。
馬などは物資の輸送に主に使われる。あるいは身分の高い者の移動手段とか。
想像以上の行軍速度で向かってくる敵軍団。
精鋭に違いない。数は三千程度という話ではあるが、こちらの戦士は多少無理をして千五百程度。
どれだけの猛者がいるかわからない以上、油断できる相手ではない。
「幸いなことに大きな街道しかわかっておらんようじゃ。でなければ伝令の方が間に合わなかったかもしれん」
間道、近道を知らないのか、あえて選ばなかったのか。
そのおかげで報告が届いてから襲来までの時間に多少の余裕が出来たことを感謝する。
「サジュに向かう者と迎撃の者と、すぐに分けましょう」
「持ち運べるよう食料を準備しておいたのは正解じゃったな」
ルゥナを元気づけるように言うメメトハに頷く。
撤退に備えて、食べ物の運搬の準備をしておいた。とりあえず出来ることをやっておいてよかったと。
「まず少数で先行します。少しでも遠くで足止めをしなければ」
「こちらは妾が差配しよう。すぐ追うゆえ、無茶はするでないぞ」
敵が町に到着するまで、半日もない。
すぐに出られる手勢を連れて奇襲に向かうルゥナと、残りの戦士と撤退する者を分けるメメトハ。
「セサーカに」
自分では言いたくなかった。だから伝言を頼む。
「アヴィを、お願いしますと」
「……伝えよう」
まだ虚ろなアヴィを戦いには出せない。
連れて行かねばならないが、誰かが傍にいなければ不安だ。
ルゥナもメメトハも無理なら、セサーカが適任。
適していなくても強く望むだろう。
あれこれ考えている時間はないし、それが状況に適しているのならそうするべき。
本当ならアヴィの一番近くにいたいのはルゥナだけれど。
「ルゥナ様、私がお供します」
逆に、ルゥナの傍にいたいと思ってくれる者もいる。
敵の襲来を聞き、トワが真っ先にルゥナの下に来た。
アヴィがいなくても自分が、と訴えかけてくるトワ。
いつも助けられている。嵐の中、飛竜騎士の必殺の一撃からも庇われた。
魔法を使ったのだと聞いた。ルゥナとの位置を瞬時に入れ替え、直後に二本の包丁で戟槍を受け止めた。
目標を外した敵が驚愕し致命打にはならなかったが、あんな光景は二度と見たくない。
「人間どもなんてボクだけでも平気だって」
「馬鹿なので本気で言っているんです。気にしないでください」
威勢のいいことを言うオルガーラに冷ややかな言葉を続けてから、
「イバ達には撤退の手伝いをさせます。ラッケルタの足跡も消せるだけ消すように」
「ありがとう、トワ。助かります」
「既に東の川にニーレ達が向かった。茂みも多く奇襲に向くじゃろう」
ラッケルタの足も癒えていない。撤退するのならラッケルタも逃がさなければ。
最悪の場合、ラッケルタを囮に追手を引き付ける判断も必要か。
そうしないで済むようどうにか敵を食い止めねばならない。
再起するとして、ラッケルタの存在もまた小さくない。
敵には畏怖を。味方には鼓舞を。
巨体のラッケルタは、その戦闘力以上に集団戦闘では力になってくれる。
皆を逃がす為の戦い。
東部の断崖アウロワルリスに向かう時のことを思い出す。
皆を守り、無事に崖を超えようと。
あれからそれほどの時が過ぎたわけではないが、こんな時なのになんだか懐かしい。
「……私が守ります」
あの頃のルゥナよりずっと強くなった。ルゥナだけではなく仲間たちも。
数が多くないとは言ってもこちらよりは多数。
話に聞くエトセン騎士団は、その構成員全てが中位の冒険者以上だとか。
オルガーラがいて、今のルゥナの力でも厳しいかもしれない。
けれど、それでもやるしかない。
今までだって充分な戦力で戦ってきたわけではない。
先の敗戦はルゥナの手落ちだ。気が焦り、不十分なままあの港町に近付いてしまったから。
もっと慎重になるべきだった。それを今さら言っても仕方がない。
今は、この追手を凌ぎ出来る限り皆をサジュへと逃がす。
それが出来なければいよいよ勝ち目がない。ただでさえ険しい道が潰える。
港町ネードラハでの敗戦は、冷静に分析してみればみるほど致命的なものだった。
戦士を失ったことが、ではない。
時を失ったことが。
戦いには時運がある。
それを失いたくないばかりに急いて、そして失った。
逃げ延びて再起をかける。それはいい。不可能ではないだろう。
だが、人間どもに時間を与えてしまう。
ルゥナ達の戦力に関する情報は、逃げ延びた人間から伝わってしまう。
情報があれば対策が出来る。
人間どもも馬鹿ばかりではない。
初めてミアデ達を助けた頃、ルゥナは人間に情報を与えることを嫌った。今もそれは同じだ。
だけど当時とは規模が違うのだから、隠し通せるものではない。
人間は清廊族の反攻を知り、その戦力を把握して、対策を整える。
そもそも数の多い人間の方が、打てる手も多い。
そして何よりも。
「……」
年を跨げば増援が来る。
ロッザロンド大陸には人間どもの本拠地があり、清廊族の反攻を阻止しようと大軍勢を寄越すことも考えられる。
今現在、あちらにはルゥナ達のように戦乱を起こす者はいないはず。そこから無傷の兵が送られてきたら……
時を失った。
時運を失い、ここからの戦いはいっそう厳しくなる。
「それでも……」
だから諦めるなどという道はない。勝つしかなくて、戦うしかない。
「アヴィがいれば……」
「ルゥナ様」
漏れた言葉に、トワがそっと手を取った。
「ルゥナ様……逃げませんか?」
「……」
「深手を負った者をここに置き、貴女はサジュに逃げる。そういう選択も」
「何を言うのじゃトワ」
メメトハが割って入る。
「そのような行い、恥ずべきことを」
「恥?」
トワの目がメメトハを捕らえ、細められる。
「恥が何です?」
「戦士として――」
「私たちは元々恥辱に耐えてきました。今さらここで逃げることがどんな恥だと?」
綺麗ごとを並べるなと、メメトハに向けて。
あまり相性のよくない組み合わせだ。普段はあまり互いに接触しないけれど。
「それを恥というのであれば、仲間の足を引っ張り生き永らえる戦士は恥ではないと?」
「ならばここで死ねと言うか!」
「必要なら。それこそ戦士の誇りでは?」
本気ではない。トワは先ほどルゥナに付き合うと言った。
ルゥナが退かないのはわかっていながら、別の選択肢として挙げただけ。
その考えがルゥナの中にもあったことを理解した上で、ルゥナの口からではなくトワの口から。
「仲間が逃げる時間を稼ぐ為に、傷ついた体でここで敵を食い止める。それを惜しむ戦士なら生きていたところで」
「トワ!」
メメトハの手が動いた。
トワの口を塞ごうと放たれた平手だが、オルガーラに掴まれる。
反対に、やり返そうとしたトワの手をルゥナが止めた。
「だめだよ、メメトハさま。トワさまをぶつのはだめ」
「……この数日、私も考えたことです、メメトハ。トワを責めないで下さい」
言い争いをしている時間はないが、珍しくトワの方が突っかかったように見えた。
「おぬし……」
「庇いだてではありません。損得で、そうした選択もあるかと考えました」
トワを特別扱いにしているわけではない。
全体の被害を考え、今後の為にどちらが得か。
「この場限りであれば、その方が被害は少ないでしょう」
トワの手を放し、首を振る。
「ですがそれでは、次の戦いに繋がらない。仲間を見捨てた戦士と、仲間に生かされた戦士。この先どちらの方がより強い力を発揮するか」
綺麗ごとだけではない。
ちゃんと損得も踏まえた上で判断している。まだ自分は冷静だ。
「……わかりました、ルゥナ様」
トワも頷き、けれどメメトハには謝らない。
オルガーラに握られた腕を擦るメメトハの目も鋭い。
「ですが、ルゥナ様もこの先の戦いになくてはなりません。私とオルガーラでお守りします」
「トワさまが言うから、うん。任せといて」
わざわざトワの言いつけだからと強調するオルガーラ。
不自然なようで、彼女の歪みにも不安を感じる。
「妾が思っているより冷静じゃと、そう言いたいのじゃな」
「時間がありません。メメトハ。ここは任せます」
「……わかった」
町を飛び出していくルゥナ達に付き従う者と、メメトハの指示で動き出す仲間たち。
後ろをメメトハに任せられるのは助かる。こういう役目は、仮にアヴィが万全だったとしても苦手なことだろう。
クジャの大長老の孫として、メメトハの存在はやはり有難い。
ルゥナだけではまとめられないだろう清廊族を、こうして導いてくれるのだから。
「珍しい、ですね」
東に駆けながら、やや後ろを走るトワに問いかけた。
「貴女が感情的になるなんて」
「……」
メメトハの気に障るような言葉を口にして煽った。
それは珍しいとは言わない。トワは少し悪意を含んだ言い方をすることがあるから。
「手を出すなんて」
メメトハに頬を打たれても、打ち返すとは思わなかった。
わざと打たせて罪悪感を植え付ける。その程度の邪心があることは知っている。
トワが悪いのではない。いや、悪いけれど。
人間の施設で人間の悪意に染められてきたトワには意地悪な歪みがあるのだ。それも含めて彼女を嫌いではない。
「……でしたね」
トワもまた、自分の行動が意外だったらしい。
メメトハを叩き返そうとした自分の手を見て、溜息を吐いた。
「なんだか、気に食わないんです。あれは」
本当に珍しい。
ルゥナ以外の誰かに、こうもわかりやすい好き嫌いを示すなんて。
「後で謝りましょう。私も一緒に謝りますから」
「……ルゥナ様が言うなら」
不貞腐れるような言い方は年相応にも聞こえて、やはり珍しいと思う。よほど気が合わないのだろうか。
「どっちにしたって敵を蹴散らしてからだよ、ね!」
「その通りです。オルガーラ、声を押さえて下さい」
「はいはぁい」
まだ敵までは随分と距離があるけれど、オルガーラが騒いで奇襲にならないのでは困る。
今はまず、迫る敵の足止めを。
正面からでは止められないだろう。ならば手口をどうするか。
先ほどのトワの言葉でもないが、恥でも何でも手段を選んではいられない。
どれだけ泥と恥辱に塗れようとも、この場を凌ぐ。
皆を守り、アヴィを逃がす。
その為にルゥナは……命を落とすかもしれない。けれど。
「……」
きっとトワは、そんなルゥナと一緒に死にたいと思ってくれたのだろう。
だとすれば、まだ何も成していないのに。
これも愛なのかもしれない。愛らしいものを得たと思えば、報われたような気がしないこともなかった。
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