第16話 獣の牙、獣の目
木々が減り、背の低い草が広がる。
地質の問題なのか標高の問題なのかルゥナにはわからないが、ニアミカルム山脈よりまだ遠いのだが、この辺りは樹木が生えにくいらしい。
黒涎山から続く岩が目立つ地層は、春の日差しがあれば草は生えるらしい。
誰も刈る者もいない為、好き勝手に伸びているだけだ。
そんな草むらに潜む魔物もいる。
「戦えない者は内側に! ユウラ、貴女は近付いてくる魔物を教えて!」
「はいっ!」
草の中を走ってくる魔物がいる。その姿が直接見えないので戦いにくい。
まずは荷車に乗せた妊婦や幼児たちを中心として四方を警戒。
「アヴィ様の左に!」
「ん」
ユウラの言葉に従い、アヴィが左斜め前の草むらごと薙ぎ払った。
散らばる葉の中に、青黒い色のトカゲの姿が見える。
腹は白く、その体は両断されていたが。
「草荊爬です、牙と尻尾の上の棘に気を付けて!」
鋭い爪牙の他に、尻尾の上部にいくつものギザギザの棘がある。
カナンラダ全域の草原でよく見られる魔物だ。蜥蜴の類なのに寒さにも強いらしく、北部にも生息していた。
「鱗があって横には斬りにくいですから! 顔に対して縦に切るか、突きなさい!」
「はいっ」
独特な鱗の形状で刃が滑るので対処方法を伝えると、トワの声が返ってくる。
アヴィくらいの力があれば全く関係ないが、まだ力の弱い彼女らには魔物ごとの対応を教えなければならない。
「ふっ」
ルゥナの前にも一匹近付いてきた草荊爬の気配に剣を振るうと、手応えと共に宙を舞った。
草荊爬の首が。
「さすがです、ルゥナ様」
「前を見なさい、トワ」
賞賛などいらない。軽く首を切断できるとは思わなかったので、自分でも少し驚いたが。
「っと、わぁぁっ!?」
「いまっ!」
ミアデの慌てた声に続けて叫んだのはニーレだったか。
びゅっと弦が鳴る音が響いた後に、少し甲高い音が聞こえた。弾かれた?
「ダメか!?」
ニーレの焦燥の声。
それに被せるように、セサーカの謡う。
「真白き清廊より、来たれ冬の風鳴」
「わっ、っと……ごめん、助かった!」
ちらりと見れば、長細い甲虫が鎌首をもたげていた。
巨大な多足甲虫。名前はルゥナも知らない。
思わぬ大物にミアデが囚われたが、セサーカの魔法に怯んだ隙に抜け出し、身構える。
あれは、未熟な彼女らに相手に出来るかと不安に思ったが――
「極光の斑列より、鳴れ星振の響叉」
ばふっと音が響いたかと思うと、鎌首をもたげていた巨大多足甲虫が崩れ落ちた。
「う、はっ……」
「セサーカ!」
ミアデの声の様子からすると、セサーカも倒れたのだろう。
彼女には今の魔法は負担が大きすぎたのだと考える。
アヴィから教わったとしても、身の丈に合わない力を使ってしまった。
「ミアデ、周囲の警戒を! 誰かセサーカを荷車に!」
とりあえず堅い甲殻の魔物を倒した判断は良かったと思う。
「杖を私に!」
魔術杖は一本しかない。
セサーカが戦線を離脱するのであれば、それを遊ばせておく余裕はなかった。
「……」
手にしていたのはトワだった。
何をしているのかと振り向いたルゥナと目が合って……
「……はい、ルゥナ様」
少し逡巡を見せたのは、使ってみたいという気持ちがあったからか。
それで活躍すればルゥナに褒められるかもしれない。けれど――
「ありがとう、トワ」
失敗した時のリスクと天秤にかけて、命令に従った。
もう一匹現れた巨大多足甲虫をアヴィが切り裂く。
彼女には敵の甲殻など関係ないのかと思ったが、見ればちゃんと継ぎ目の関節部分を切り裂いている。二か所。
「……頭、誰か割って」
「はいっ!」
まだ息のあるのか、ぎちぎちと歯を鳴らす頭部に、ユウラの持つ手斧が振り下ろされた。
がしゅ、ざしゅ、と二度。それで息絶えたらしい。
「冷厳たる大地より渡れ永劫の白霜」
ふと頭に浮かんだ一節。
やはり清廊族に伝わる童話で、恐ろしい魔物に追われた際に、空から舞い落ちた雪の一粒から周囲の大地が凍り付き、難を逃れたという。
その逸話と同じなのかどうかはわからなかったが、ルゥナの詠唱に沿って突いた杖の先端から、円状に周囲に白い冷気が走った。
真っ白く霜がついたように固まった草が、次の瞬間には砕け散った。
ルゥナたちの周囲の草むらがなくなり、凍って砕けた植物の残骸と、身を晒した草荊爬。
範囲内には当然清廊族もいたが、寒さに耐えることは出来る。
逆に、急激に冷えたことで草荊爬の動きは極端に鈍くなっていた。
「今のうちに仕留めなさい! トワ、頭を縦に、です」
「はいっ、ルゥナ様!」
個別に指示したのはいまいち信用がないからだったのだが、名前を呼ばれたことで特別に感じたのか、トワは嬉しそうに返事をしていた。
動きの弱った草荊爬を片付けている最中にもう一匹現れた巨大多足甲虫を、今度はニーレが仕留めた。
やはりアヴィに切断された頭を、ユウラから受け取った手斧で。
粗末な木製の弓では効果がなかった。ニーレの弓の腕前が上がるのなら、もっと上質な弓矢を手に入れたいところだが。
そんな思索をしている時だった。
「なにか、くるよ!」
ユウラが声を上げ、北西側を指差す。
かつて黒涎山と呼ばれる山があった方角を。
「危険な感じ! なんか変!」
「わかりました、下がりなさい。ミアデ、トワ、ニーレは他の警戒を」
草むらを猛然と進んでくる黒い影に対して、アヴィとルゥナが前面に立つ。
先ほどのルゥナの魔法で草むらが消えた領域の直前で、それは跳び上がった。
アヴィに向かって飛びかかるその黒い塊は、黒い布を被った獣のようで。
「な――っ!?」
その姿にルゥナは目を疑う。
アヴィの剣がその獣を切り裂くはずが、腕で弾いた。
「う?」
アヴィも驚いたように声を上げる。
剣を腕で弾いた。
斬り損ねたのではなく、特に甲冑をつけている様子でもない腕で刃を受け止めて、後ろに飛びずさる。
「お、まえは……ラザム!」
「ジャアアアアアァァァァッ!」
ルゥナの言葉に返ってきたのは、獣の咆哮だった。
知っている顔だ。
ルゥナが勇者シフィークの奴隷として黒涎山に入った際に、そのパーティの一員として同道していた闘僧侶。
ふと気が付くと、ルゥナの太腿辺りに舐め回すような視線を巡らせていた男だ。
「気を付けて下さい! 正気ではないですが上位の冒険者です!」
勇者には及ばなくともそれに準ずる力を有している。
アヴィの剣を弾くなど並の冒険者に出来るようなことではない。
黒ずんだ眼も、発する声も、表情も。人間のそれからは逸脱していた。
理性を失っていることは間違いないが、少なくとも戦う力は失っていない。
「闘僧侶です! 闘気で肉体を強化していますが、目や口は刃が通るはず!」
「ん」
危険な相手と判断して、アヴィが自らそれに挑んだ。他の者には任せられない。
上位の冒険者相手となれば、今のルゥナでも厳しいだろう。
力を削がれたとは言ってもアヴィが最高戦力であることに変わりはなく、彼女に頼らざるを得ない現状に苦い思いを噛み締める。
アヴィの剣を、まさに獣のような動きで躱し、振り払うラザム。
「ジャアアァ!」
「うるさい」
威嚇の声をあげたそれにアヴィの表情は冷たかった。
アヴィも知っている。この男が勇者一行として黒涎山の洞窟に踏み込み、彼女の母の命を奪うことになったのだから。
憎い相手だろうに、アヴィの表情は冷たく、冷たいだけで。
「私が」
引き裂こうとするラザムの爪撃を半歩下がって回避して、アヴィは短く息を吐く。
「殺していれば」
突いた。
紙一重の所で爪を避け、その間隙に鋭い突きを二度、三度。
「ぎゃっ」
肩に、胸に、額に。
躱そうとしたラザムの動きの先読みでもしていたのか、切っ先がラザムを捉え、闘気で硬質化しているはずの肉体を抉る。
「母さんは!」
表情こそ冷たいが、アヴィの心は煮えたぎっているようだった。
この男に対してではない。
力が足りなかった自分自身への怒りで。
傷ついたラザムが飛びずさり、距離を置いて四つ足で身構える。
両手を獣のように地面に着いて、難敵と見做したアヴィに喉を唸らせた。
「ずひぃぃぃっ」
息を吸い込む音が耳に障る。
ぎろりと、その目がルゥナに向けられた。
その瞬間。
(あ……)
体が強張る。
腹の底がぎゅうっと締め付けられるように、奴隷として従わされていた頃の感覚が戻ってきてしまった。
あんな目で、私の足に、体に、獣欲を向けていたのだと。
そう思ったら――
※ ※ ※
「ルゥナ!?」
「くっああああぁぁぁぁぁっ!」
普段なら躱せたはずだった。
ルゥナの力なら、倒すまでは至らなくても対処できるはずだったのに。
アヴィから標的を変えて横に飛んだラザムに対して、ルゥナは動けなかった。
腿に、かぶりつく。
ルゥナの太腿に、ラザムの涎に塗れた牙が突き立てられ、鮮血と共に白い肉を食い千切った。
「ぐぅ、ああああぁぁぁぁっ!」
悲鳴を上げる。
肉を食い千切られる経験などない。
激痛に悲鳴を上げて倒れた。
「ルゥナ!」
「ジャアッ!」
ルゥナの上で肉の悦びに震えるラザムを、アヴィが切り払った。
それを受け止め、また飛びずさるラザム。
「ルゥナ! ルゥナ!」
「っく、ぅぅ……」
立てない。
痛みで背筋から汗が吹き出し、脳が痺れるように警鐘を鳴らしていた。
「ルゥナ様!」
駆け寄ったアヴィとトワがルゥナを抱き起すが、痛みで返事ができない。
アヴィはトワにルゥナの体を預けると、ルゥナの手から落ちて転がっていた魔術杖を拾い上げ、謳い上げた。
「冷厳たる大地より、奔れ永刹の氷獄」
アヴィの詠唱に従い、大地が凍り付いた。
先ほどのルゥナの魔法とは違い、ラザムの足元に集中して、輝く氷柱が立ち上がる。
「じゃっ!?」
両手を地面についていたラザムは、足も手もその氷の柱に囚われ、胴体から上の顔のみを動かして己の状況を確認しようとする。
氷の枷で四肢を大地に繋がれて。
身動きが出来ない四つん這いの状態のラザムを、魔術杖を放り出した素手のアヴィが見下ろす形で立った。
拳を振り上げる。
「んっ!」
「ぐゃっ!」
「ふっ!」
「ぶぇっ」
「っ!」
「びゅぶっ」
右に、左に、右に。
アヴィの拳が振るわれ、ラザムの顔が歪みを増やしながら左右に揺れていく。
全力ではない。
殺さないように加減をしながら、出来る限りの苦痛をこの男に与えようと、アヴィは拳を握っていた。
「あ、アヴィ……」
「動かないで下さい。ルゥナ様」
トワはそう言ってルゥナの服をずりおろす。
ややゆったりとした膝丈の腰穿きだったが、今しがた右側が食い千切られて血に染まっていた。
「今、私が……」
トワのグレーの瞳が妖しく光り、傷ついたルゥナの腿に頬ずりするように顔を近づけていく。
痛みに震えるルゥナには抗えない。痛みとは別の汗が浮いてくるような気もした。
「癒して、差し上げますから、ね」
トワの舌が、ねっとりとルゥナの腿に這わされていくことに、抗えない。
体を苛む痛みが、トワの舌の感触によりさらにはっきりと強く、痺れと共に意識が曖昧になる。
痛い、痛い、痛みがじんわりとした疼痛に変化しながらルゥナの心に侵食していくのを感じた。
トワの手がルゥナの脚を絡めとるように回され、肌を撫でる。
「ね、ルゥナ様……」
霞む視界の中で笑うトワの声も、ルゥナの脳を侵食していくように響きながら。
くるくると、目が回りそう。
※ ※ ※
アヴィが殴っているうちに、獣は痛みからか自分の意識を取り戻したようだった。
「あぶぇ、やめ……げぶっ、たす、べっ……」
氷漬けになり四つん這いのまま、何度も、何度も、命乞いの言葉を途切れ途切れに。
淡々と、その命が失われるまで殴り続けるアヴィを、ミアデはただ見ているしか出来なかった。
「アヴィ様……」
「……」
既に事切れている男を殴り続けるアヴィに、ミアデはそっと声を掛けて、背中に手を触れる。
「もう、それはいいですから……ルゥナ様を」
ミアデの言葉を受けて、はっと我を取り戻したように振り返る。
露わにされたルゥナの脚に縋りながら、とろけた表情を浮かべているトワ。
振り返った後に一瞬顔を顰めたが、ルゥナの脚に傷がないことを見て安堵したように息を吐いた。
「……うん」
「大丈夫です。トワが癒してくれたみたいで」
「うん」
痛みで朦朧としていたルゥナが覚醒するまでアヴィはその傍に立ち尽くしていて、ミアデはとりあえず荷車で待機していた仲間たちに先に進むように促した。
トワに治癒の力があったのは幸いだった。
アヴィと同じように舐めて治すという手法なのは、アヴィから受け継いだ力なのかもしれない。
通常は癒しの魔法だとルゥナは思うのだが。
トワ自身が望んだ力が発現した、ということも考えられる。
飛んでいた意識が戻り、先行したという荷車にミアデも護衛につくように言ってから、下着姿だったことを思い出した。
治癒の為に服を脱がせたのはわかるが、どうもトワには別の理由があるように勘繰ってしまう。
(……いえ、邪推はよくないですね)
破れて血に汚れた服を着直しながら、微笑みを浮かべる銀糸の少女に心中で感謝する。
その口の端に覗かせた舌の妖しい艶めかしさに、身を守るように足の間をきつく閉ざした。
「アヴィ、貴女も……手を、怪我しています」
「平気」
顔面を崩壊させて死んでいるラザムを見れば、何があったのかはわかる。
ラザムは肉体を強化することを得意としていた。彼にとっては不幸な技能だったかもしれない。
中々死なないそれを殴り殺すほどに繰り返したと。
顔を潰すほどに素手で殴れば怪我をして当然だ。
「いけません。トワ、アヴィを治癒なさい」
トワは少し考えるように視線を泳がせてから、
「……はい、ルゥナ様のご命令なら」
「いらない。平気」
無表情で拒絶するアヴィ。
手に着いた血を振り払って、歩き出そうとするが。
「いけません、アヴィ。ちゃんと治しておかないと」
「平気、だから」
「……アヴィ、お願いですから」
この後も何があるかわからない。
治せる傷であれば治して、少しでも万全の状態にしておきたい。
(アヴィの手に傷が残ったら……)
残ってもルゥナのアヴィへの想いは変わらないが、それでも治せるものを放置しておく理由にはならない。
「……ルゥナが、言うなら」
渋々といった様子で、微笑むトワに擦り剝いた手を差し出した。
アヴィの手に舌を這わせるトワの姿に、場違いにも体の芯が熱くなってしまう。
私にその力があれば、いつでもそうするのに。
少しだけ歪むアヴィの表情にも心が揺れるし、癒しながらも微笑みを絶やさないトワに嫉妬を覚える。
(……さっきは、私がそうされていたんですよね)
そんな姿をアヴィに見られていたかと思うと、情けないのと恥ずかしいのとでさらに感情が揺り動かされてしまった。
やはり、恥ずかしい。
「あいつは、もう死んだから」
動揺しているルゥナに、アヴィが淡々と言った。
無表情なその顔でも、ルゥナへの気遣いなのだとわかる。
「もう、心配ない」
「……はい」
アヴィは、ルゥナが委縮して動けなかったことを責めなかった。
元々従わされていた相手を目の前にして、不覚を取った。
奴隷だった時の感情は、全て憤りに置き換わっていたつもりだったが、心の奥底というのはやはり自分ではわからないものか。
「ありがとう、アヴィ」
「……平気」
ルゥナの心を解放してくれるのはいつもアヴィだ。
感謝の言葉と共に彼女に顔を寄せてねだると、そっと唇で応えてくれた。
「つっ」
息を飲んだアヴィに少し驚いてみれば、トワがその手に噛みついている。
「トワ」
「……終わりました」
ふいっと離れるトワは、悪いことをしたと思って逃げているのか、まるで思っていないのか。
困ったものだ。
「……アヴィ」
「うん、ルゥナ」
もう一度ねだると、今度はもう少し熱い唇を感じることが出来て、傷の痛みを完全に忘れさせてくれた。
※ ※ ※