第173話 普通の少女
「南に逃げたんは半分の半分もおらん」
周囲の残敵を掃討して二日間。
見て来た限りの報告をルゥナに届ける。
「全滅とまではならんでも、まあ大勝利じゃ」
「ありがとう、ウヤルカ」
月明かりがルゥナの頬を青白く照らす。
なんでか、ウヤルカが報告する時は夜にルゥナとだけになることが多い。
悪い知らせがあるかもしれないと他の耳を気にしているのか、それとももしかして誘われているのではないか。誰もいないから手を出してもいいと。
「イジンカの近くで隠れさせとった連中も、逃げて来た兵士を結構やっとったわ。明日の朝にはこっちに着くじゃろ」
とりあえず必要な情報を伝える。
「そうですか」
頷いて、そっとユキリンの耳の後ろ辺りを撫でた。
「あの町で囚われていた者も次の戦いには使えそうですね」
「んぁ? その為にアヴィ様の血を分けて町の人間を殺させたんじゃろ?」
少ない数を補う為に、戦意のある清廊族にはアヴィの血を混ぜた酒を飲ませていた。
その上で人間を駆除すれば、魔物を倒すように力を得られるから。
イジンカの町でウヤルカが助けたベィタの他にも、囚われていた清廊族には戦う意志のある者が少なくなかった。
アヴィの恩寵を授かり、町の人間の駆除をする。数十もやれば実感できるほどに力が増える。
この場合には幸いなことに、人間の数は多い。
戦力の拡充は必要で、彼ら彼女らも戦う力を欲する。糧になる。
中には戦いを好まない者もいるし、長い隷従の日々で心が擦り切れてしまっている者もいる。
半分も戦えないのではないかと思っていたが、ウヤルカの予想に反して戦う意志を示した者の割合が多い。
劇的な変化が、従属させられていた清廊族の心を熱狂へと転換させた。
ネネランとエシュメノの話のように。
屈辱の日々を送っていた清廊族の心の奥にも、夢物語のような希望が燻っていた。
いつか氷乙女が、この人間どもを打ち倒して自分たちを解放してくれるのではないかと。
妄想や空想。
そんな日が現実となり、そして今度は自分たちも力を得て氷乙女の戦いに参加することが出来る。
少年少女が、いつかは自分も強大な魔物と戦う戦士にと憧れるようなものか。
積み重ねた人間への恨みもある。
同じ境遇の清廊族の仲間を、今度は自分たちの手で助け出す。そんな目標も。
苦汁の日々の中、死んだも同然と思っていた彼らが自らの意思で選び生きることが出来る。
戦いなど好きではなくとも、これまでの日々に比べれば比較にならないほど真っ当な生き方だと言えるのではないか。
ルゥナの手が、ユキリンから離れない。
ウヤルカとも目を合わせようとしない。
「ルゥナ?」
「貴女にもユキリンも。無理をさせてすみません」
「謝られることじゃないけぇ、ええんじゃ」
横顔が、月明かりの影となって暗い。
「無理っちゅうんじゃったらセサーカじゃ。ちぃとありゃ無茶じゃわ」
「セサーカは、そうでしょうね」
「仲間が増えたんからか、がいにおどれが頑張らんとって気ぃ張りすぎちゃうんか」
魔法使いとして、自分を酷使しすぎている。
確かにセサーカの魔法の才能は目を見張るものがあるし、それなしで勝利など掴めないとしても。
「もう魔法も使えんのに、ウチを庇って魔法の真似事までして敵を引き付けとっとわ」
「……」
「あれで敵に狙われたらおどれが死ぬじゃろうに」
「本当に必要なら魔法を使ったでしょう。身を削ってでも」
セサーカのその姿を見ていたわけではないけれど、ルゥナは彼女を理解しているようだ。
やや口元を引き締めて、ユキリンに触れている手に少し力が入っている。
――怒らないで下さいね。
セサーカはそう前置きして。
――ウヤルカとユキリンには代役がいません。
ニーレに対して、ユウラの代わりなどいないと怒鳴ったウヤルカに対して、臆面もなくセサーカは言った。
アヴィの為に、ルゥナの作戦には絶対にウヤルカ達の力はこれからも必要だと。
魔法使いの自分なら他に誰かが代われる。だから危険を承知で敵を牽制したのだと。
セサーカに対して怒りはない。
そうまでさせてしまった自分の力量不足が腹立たしい。
確かに、戦力を冷静に分析して、ユキリンを友とするウヤルカの代役はいない。
偵察、連絡。全体への支援。
共感の魔法で声を届けるユウラがいればまた少し違ったかもしれないが、現状でウヤルカが担う役目はただの戦力だけではない。
代わりがいない。
特殊な役割を担うウヤルカを守る為なら、自身の命さえ盾とすると。
セサーカの考えは、全体としては正しいのかもしれないが。
ただ正直、気持ちが悪かった。
自分が特別に扱われることもそうだが、セサーカのその献身が。自分の命まで損得で計算するような考え方が。
もっと素直に言えば、怖く感じた。
ただの自己犠牲だとは言えない、まるで温度を感じさせないセサーカの割り切り方が怖い。
「……」
「ルゥナ、おんしもかなり疲れとるんじゃ」
セサーカのことを考えるのをやめて、ユキリンに手を当てたままの彼女の背中に触れる。
「私は平気です」
「そう見えるんじゃったらウチもゆわんわ」
ウヤルカの心にも影が差しているから、ルゥナの胸中にも何かつかえがあることを察する。
もやもやした気持ちを抱えている。
誰にも言えない。
だが、それに気づいて放っておけるほどウヤルカは慎み深くない。
「なんじゃね、さっきのは」
「……」
「使える? ってぇ、わざにそんな言い方しよって」
助け出した清廊族を、戦いに使えるなんて。
ルゥナの言い方とすれば、彼女の性格から外れていた。
「……言葉通りの意味ですが」
「ウチはおんしの仲間のつもりなんじゃけぇ、あんまし舐めたことゆうんはやめえや」
ぐいと肩を掴んで向き直させ、ルゥナの背中をユキリンに押し付ける。
ようやくルゥナの瞳がウヤルカを映して、そして下に逃げた。
「私は……戦いに勝利する為になら、アヴィ以外の誰の犠牲も厭いません」
「ウチかて命惜しんでここにおるわけじゃないけぇ、んなことぁおんしが改めてゆう話じゃないんじゃ」
ウヤルカだけではない。他の戦士たちも、戦いに参加する者も。
清廊族の未来の為、里の幼子や家族の為に戦う。そこに疑問はない。
熱を感じさせないセサーカとは違うが、命を捨てる覚悟はしてここに立っている。
「この戦いでウチが死んでも無駄にならんと思っとる。じゃけぇ戦っとる。おんしの為とは違うんじゃ」
「……」
「ウチや他のモンの命を重う感ずるんはわかる。おんしが色々悩むんも仕方ないじゃろ」
小さい。
ウヤルカの顎くらいまでしかないルゥナ。
年齢も、ウヤルカより若いことは間違いない。
戦う力や作戦指揮に優れていて、いつも頼ってきていたけれど。
月明かりの下で見る彼女は、今まで思っていたよりずっと小さく弱く感じた。
「仕方がないじゃない、ですか」
拗ねたように。
「私は、誰を見捨てることになっても……正しく判断しないといけないんですから」
「なに勘違いしとるんじゃ」
言葉が荒く感じられるかもしれないので、声音だけは出来るだけ優しく。静かに。
「誰もおんしが間違えんなんぞ思っとらんわ」
やれやれ、と。
小さな肩に、無用な重荷を背負おうとしている。
セサーカがそうするように、身の丈を超えた荷を抱えようと。そうしなければいけないと勘違いして。
ならそんな拗ねた顔をするなと。少しおかしかった。
「ルゥナ、背伸びすんのはやめぇ」
「……」
「何でもできるわけないんじゃ。おんしが失敗した分はウチが埋める。そういうんが仲間じゃろうが」
「ぁ……」
口を開きかけて、唇を結ぶ。
意地を張り、涙を堪えて。
「なんでそんな気張っとるんか知らんがの」
溜息を吐いた。
「他のもんとちごうて、ウチはおんしをそがいに強い思うとらんのじゃ」
なにせ、と。笑った。
「ウチがルゥナを初めて見たんは、ひぃひぃ泣きじゃくっとったところじゃけぇな」
「それは……そう、ですが……」
顔を上げ反論しかけて、思い出したのか俯いた。
アウロワルリスの断崖を越え、ようやく辿り着いた先で。
ルゥナは泣き喚き、他の誰よりも駄々っ子のようにアヴィに縋りついていた。
ウヤルカの第一印象はあれだ。
「小娘なんじゃ、おんしは」
「……」
「ウチから見りゃあ、ぴいぴい泣いておもらししとる小娘みたいなもんじゃ」
「お、おもらしなんかしません!」
むぅっと顔を上げて言い返す姿が、本当に小娘。
「私は、ちゃんとしないといけないんです」
「そかぁ?」
「今ある戦力で、最大の戦果を挙げて……効率よく……」
言いながら、だんだんと言葉が弱くなっていく。
そうあらねばならないと己を戒めているけれど、自信を失っていくように。
「わた、しは……」
首を小さく振る。
「冷たい女なんです」
自分を責めるように。
「冷血で、計算高い。卑怯な女です」
「……」
「戦士たちの死も、ただの数字。目的を遂げる為なら、苦渋の日々を送っていた清廊族を口先で兵士とするような」
「誰もそがなこと思っとらん」
「私は!」
ルゥナが両腕を握り、肩を掴むウヤルカの手を払った。
「自分の家族だって……お母さんが死んだことだって、悲しくなかった!」
「……」
「それも一つの数字。それどころか、アヴィと一緒でお母さんを失ったから、一緒だって……同情してもらえる。生きてなくて安心したって考える、最低な女です! 最低な娘です!」
わかったようなことを言うなと、ウヤルカを拒絶する。
「卑怯で卑劣で、最低! こんなの……私は」
「ルゥナ」
言葉を重ねるルゥナに、ウヤルカは右手で頭を撫でた。
そういうことかと、理解が足りなかった己の無神経さを悔いながら。
「母ちゃん、助けられなくて残念じゃったな」
何がルゥナを苛んでいたのかを知り、年長の自分が彼女を何も見てやれていなかったと悔いた。
「だから……わたし、は……」
首を振るルゥナに、ウヤルカも首を振る。
「期待しとったんじゃ、おんしは」
抱きしめた。
小さな体を、親が子を抱くように包む。
「母ちゃんがどこかで生きてるって。おんしはそう望んどったんじゃ」
「ちが……」
「ベィタを見て、母ちゃんのことも期待したんじゃったか」
認めたくない。
母が死んだことを。
認めたくない。
そんな甘い希望を抱いていた自分を。
「そんな捻んでもええんじゃ。母ちゃんに生きていてほしいって思うて何が悪い」
アヴィに対する後ろめたさもあったのかもしれない。
自分の気持ちを素直に飲み込めず、迷走した感情が変な絡まり方をして。
最初から母が生きているなんて望んでいなかった。
自分は冷たい娘だ。死者のことも損得で計算できる非情な女だと。
そう己に言い聞かせて、おかしな納得をしようとしていた。
「私は……」
「泣いてええんじゃ、ルゥナ」
ほどく。
「おんしは、母ちゃんに生きていてほしかった。他の誰に遠慮なんぞせんでええ。母ちゃんが死んで悲しいって泣き喚けばええ」
「わた……わたし……」
「おんしのアヴィ様が、そんなことでおんしを嫌うはずないじゃろうが」
ひとつずつほどく。
「ウチらが守りたいんは、そういう一個ずつの当たり前の気持ちじゃけぇ」
特別なことではない。
ただの当たり前のことを。
「ルゥナも、ただの娘じゃ。ごく普通の小娘が、当たり前に母ちゃんの為に泣いて悪いことなんてあるか」
セサーカに中てられていたのかもしれない。
誰より正しくなければならないと。
己を殺し、ただ冷ややかに全てを見なければならない。そう思い込んで。
「ウチは、おんしの母ちゃんじゃないけどな」
はらりと、ルゥナの瞳から零れた涙を胸に感じた。
「ルゥナの当たり前の気持ちも、ウチは守りたいんじゃ」
続けて、熱い雫が流れる。
「母ちゃん、助けてやれんですまんかったな」
慟哭が、湿原に響いた。
月明かりの湿原に、少女の泣き声が響く。
「わたしは……わたしはぁ……」
何度も、繰り返して。
「生きていて、ほしかった……生きていてほしかった!」
「ああ」
「お母さんに生きて……他の誰かじゃなくて、私のお母さんに!」
「ああ」
当たり前のことを、何度も繰り返して。
「なのに…私は、どうして! こんなの違う! いやなんです!」
「そうじゃな」
「お母さん……お母さん……うぁぁぅっぅぅっ……」
駄々っ子のように。
ごく普通の、どこにでもいる当たり前の少女として。
「お母さん……」
泣きじゃくるルゥナをウヤルカとユキリンがそっと包み、少女の嘆きを聞き続けた。
※ ※ ※