第170話 濡れた大地を掻き分けて
密集した大きな集まりほど、混乱した時の収拾が難しい。
敵がいると思い込んで突撃した先にいたのは味方で、勢い余って同士討ちを。さらに後ろからはそれと気づかぬ者が押す。
やめろと叫ぶ声は、それを上回る熱狂に飲まれ伝わらない。
同士討ちそのものの被害はそこまで多くなくとも、軍としての立て直しが出来ない。
指揮官はともかく兵士たちの動揺は大きい。
味方を手にかけてしまったと。何をすべきかわからない。自分が悪いんじゃない。
指揮官の命令を理解する頭が鈍り、手も足も鈍る。
数の脅威が半減した。
そういう中でも目標を見失っていない者もいる。
東に駆け抜けた一団を目指し追ってくる敵。
中央側で同士討ちと混乱が起きていることを知ってか知らずか、とにかく確かに目にした目標を追った。
目立つ。
どうしようもないけれどラッケルタの巨体は目立つ。乗っているネネランの分も背丈が高く、周囲に生える少し背の高い葦でも隠し切れない。
人間の魔法と誤認させることと、また南北どちらからも見えるよう火柱を上げる為に必要だった。
他の誰かでは、小さな火を起こすことは出来てもラッケルタほどの力は出ない。
南北に敵に挟まれる位置で炎を吐き、そこから走るラッケルタの巨体を敵が見逃すはずもない。
ラッケルタの足が掻き分ける泥や草の揺れも大きく、その存在を明らかにしていた。
駆ける速度は、戦士たちの走るそれより遅い。
だからラッケルタは町への奇襲戦に不参加。足の遅さと足跡が目立ちすぎる。
湿地に潜むルゥナ達とも別行動。約束していた丘陵の林で待っていた。
「GiI!」
短く唸り尻尾を振るう。
後ろから飛んできた火の玉を、見ていたわけでもないのに正確に払い除けた。
「ありがとうラッケルタ」
「Guu」
ラッケルタ自身はこの程度の火炎でさほどダメージはないだろうが、乗っているネネランに怪我をさせないように。
ずっと後ろから戦いの音が聞こえる。
喚声と金属音と。
敵同士がぶつかった音だろう。
追ってくる敵の気配は消えないが、とりあえず当初の目的は果たしたと考える。
このまま駆けていったら、敵が脱落してしまうのではないだろうか。
ラッケルタの足は遅い。
平地なら、人間が全力で駆けるより遅い。
だがここは湿地で、さらにこの周辺はぬかるんでいる。
泥を撥ねながら走るラッケルタの速度は、平地とさほど変わらない。
逆に、追ってくる人間の足は鈍る。追い付けそうで追い付けない。
ぬかるんだ泥を踏みながら走るのだから、体力の消耗も大きい。
少し足を緩めようかと考えた所で、ネネランの視界に入るものがある。騎乗している為に視点が高かった。
葦ではなく、樹木。
さほど多くはないが、しかと大地に根を張る植物だ。
「あそこまで――」
言いかけた瞬間、ネネランはうなじに嫌な風を感じた。
直感のまま槍を振り払うのと、ラッケルタが大きく体の向きを変えたのは同時。
薙ぎ払いとラッケルタの旋回で、ネネランの首を狙った剣を弾き飛ばした。
「ひゃぁっ!」
重い。
凄まじい重さの剣撃。
追って来た兵士のさらに後方から、猛烈な速度で追い抜いての一撃か。
別格の強者。
その一撃を直感で防げただけでも幸いだった。
「これ止めんのかよ!」
ネネランの腕力だけだったら一撃の重さに押し込まれていただろう。
ラッケルタの重みが魔槍紅喰に乗って、敵を押し返せたのはそのおかげだ。
ぬかるみを深く削りながら止まってしまったラッケルタに、他の兵士たちも迫り槍などを手に取り囲む。
逃げきれない。
今の一撃を放った強者を中心に、ネネランとラッケルタを追い詰めようと。
「火の手は噂のそいつのせいってか。グィタードラゴンってのは初めて見たぜ」
頭に帽子代わりに紺色の布切れを巻き付けた若い剣士。日に焼けた肌だが、右目の下の小さな古傷部分は色が薄くが目立つ。
ネネランとラッケルタを苦々し気に睨み、ちらりと後方を見た。
まだ追ってくる姿もあるが、その向こうでは同士討ちがあったはず。
こちらの罠に嵌まったと知り、逆に追っていった部隊にも罠があるはずと考えたのだろう。
正解だけれど。
混乱する軍の中で、おそらく幹部の彼といくらか冷静な者を呼びながらラッケルタを目指した。
動揺する一般兵ばかりではない。
「ラッケルタ!」
「GuA!」
一声上げて、熱風を吹き付ける。
火は吐かない。
この場にさらに敵を呼び寄せたくない。
熱風といっても水が沸騰するより熱いのだ。近距離で吹き付けられれば火傷するし、距離があっても顔を覆う。
「うおぁ!」
「ずぁちっくそ!」
敵を怯ませ、後ろ歩きで下がるラッケルタ。
案外と前方に進む時とさほど速さが変わらないのは、種族としての生態なのかラッケルタの癖なのか。
「こんの、こざかしいやっちゃ!」
剣士が叫び、大きく剣を振った。
突風が巻き起こり、ラッケルタの吐いた熱気を吹き飛ばす。
「でかいナリしてかっこわりぃぞ! たまぁついてんのか!」
「ラッケルタは女の子です!」
ふぐりなどついているものかと、思わず言い返してしまった。
そういう問題ではないかもしれないが、とりあえず大事なことだと思って。
「どっちもメスだぁ? 影陋族の男ってのぁタマ無しかよ!」
人間の兵士は大半が男だ。たまに女も混じるが。
動物でも、体格や筋力でオスの方が強い種類もいる。人間もそういう傾向なのだろうと思う。
逆もいる。メスの方が体格が大きく、交尾の後にオスを食ってしまうような生き物も。
清廊族はそうではないけれど。
「関係ありません!」
腰から取った拳大の袋を投げつける。
「戦うしかないんですから関係ないでしょう!」
「はっ、そりゃあそうだ、なっ!」
ネネランが投げつけた袋を切り払った。
途端に、破裂する。
「うぉぁ!?」
「ディレトーレさん!」
吹き飛ばされた剣士に、ラッケルタの熱風で怯んでいた兵士が声を上げた。
「ぶっぺっ、なんでもねえっちゃ!」
ネネランの投げた袋が弾けた時に泥水やら千切れた草やらが口に入ったらしく、唾を吐きながら応じる。
「妙なことしやがって」
先日、飛行船を目指した時にも使った袋。
ニアミカルム周辺に生息するカエルの魔物の喉あたりにある部位で、小さな中に大量の空気を詰め込める。
破夜蛙。
名前は少し仰々しいが、力はさほどなく大きさは膝程度まで。
呼び名の由来は、夜を破るような爆音を発することが出来ることから。
喉の辺りの臓腑とは別の袋に溜めた空気を一気に噴き出し、喉を通して猛烈な音を出す。
その爆音で周囲の昆虫を気絶させてゆっくり食べるのだとか。あるいは敵に襲われた時に使うこともあると。
鳥の魔物がこの破夜蛙を襲って、爆音を受けて気絶してしてしまうことも珍しくない。
連発できないので、一度使ったら地中に逃げ隠れる。決して強い魔物ではない。
爆音が使えるかと思って狩ったのだけれど、この袋だけでは音が出なかった。
音は喉の形状なども重なってのことだったのだろう。
空気は詰め込める。
風を操る鳥の魔石を仕込むことで、小さな袋の中に大量の空気を詰め込むことができた。
サジュで飛行船と戦った時、ネネランを空で跳ねさせるほどの空気の塊。
色々と使えそうだとルゥナもアヴィも関心を示し、ちょうどサジュ周辺で狩り集めて用意してきたのだ。ネネランの道具が皆の役に立てるなら嬉しい。
敵のディレトーレとやらも至近距離でその破裂を受けて、思わず数歩分ほど後退した。
「こいつ、怪しげな術を!」
「近づくのは危険だ! 魔法を撃て!」
「馬鹿か、グィタードラゴンだぞ」
「うるせぇってお前ら!」
喚く兵士たちに顔を拭ってディレトーレが一喝する。
「俺がやんだから、ぐだぐだ言ってねえで囲んどけっちゃ!」
再び構え直される曲剣。
似たような片刃の曲剣を持っている兵士がちらほらいる。槍の方が多いけれど。
この形状の武器をよく使う地域なのだろう。
ディレトーレが手にしているものは、他の者が持つ剣とは輝きが違う。黒鋼というかそんな色。おそらく逸品なのだと思う。
「今にアリーチョさんとミロの奴も来る。それまでにこいつ片付けんぞ!」
「ミロの大将が!」
ディレトーレの挙げた名前が、ラッケルタの熱風で怯んでいた兵士たちの声に力を戻した。
同等かそれ以上の強者。
このディレトーレだけでもネネランの手に余るだろうに、複数の兵士に加えてさらに。
後ずさるラッケルタに回り込む兵士たち。
次第にぬかるみから固い地面に変わってきていて、人間の足でも走りやすい。
ディレトーレへの警戒をしながらのラッケルタの足は鈍り、後ろに回られてしまった。
「お前が影陋族の主力ってわけだな」
警戒するのは敵も同じ。
「そんなもん乗り回して俺の剣を防ぐ奴がいるってんなら、イジンカも落ちるわけだぜ」
腕に自信があるのだろう。その彼の一撃を防いだネネランを清廊族の要だと見た。
「つっても、あのバカ女がやられるかぁ?」
今の攻防だけではない。
先に戦った英雄、女傑コロンバ。その戦死も警戒の理由になる。
「まだなんか変な道具持ってんだろ」
喋っているのは、探りもあるだろうが時間稼ぎだ。
逃げ場を失ったネネランの手の内を探るのと、後から追ってくるだろう増援を待って。
確かに手はある。
ネネランは色々な試行錯誤の道具を作り、失敗もあるけれど使える手は少なくない。
とりあえず目潰しの粉末は失敗だった。試したところ、対象だけでなく自分も酷い目を見た。
破夜蛙の袋はもう意味がないだろう。二度も同じ手が通じるとは思えない。
突進力が活かせる状況でもなく、ラッケルタを降りた。
「あぁ? 観念したってか?」
「そんなわけないです。ラッケルタ、他の人間どもをお願い」
小さく唸り、周囲を睨むラッケルタの黒い瞳に、取り囲んでいた兵士どもが一歩、二歩と輪を広げる。
「びびってんな! そいつをやりゃあお前らも竜殺しだぞ!」
もう一度喝を入れてから、苦く短く息を吐く。
「しゃあねえ。お前をさっさと片付けるっちゃ!」
「っ!」
滑らかな猛速。
呼吸の間もない踏み込みでネネランの懐に入り曲剣を振る。
咄嗟に左手でその刃を払った。
重い痛みを手首に感じつつ敵の剣撃の勢いで後ろに跳ぶ。
「切れねえ! なんだその腕!?」
「っつ、えいっ!」
切られなかったが、衝撃までは完全に殺せない。
後ろに跳びながら右手の槍を払うと、ディレトーレが後ろに避けた。
以前に倒した飛竜の皮を何重にもして腕に巻いている。
ざらりとした表皮は刃の滑りが悪く、さらには表面に粘着質な樹液を重ねた。
アヴィでも片手で斬り落とすにはしっかりと踏み込む必要があるというくらいには強靱。
まあアヴィの力でやられたら腕が砕けるのが先だけれど。
今の一撃も軽くはない。
後ろに跳んだから衝撃をある程度逃がせたものの、まともに受け止めていたら骨が折れたかもしれない。
兵士の信頼を集めるだけの力はある。
「本気でやっちゃる!」
ここまでは違ったのかと言えばそうではない。
ネネランの反撃を考えながらではなく、攻撃に専念すると。
次の踏み込みは、軸足の重心がさらにネネランに寄った。
「死ねよ!」
「いやです!」
敵が攻撃に特化するのならネネランは防御に意識を集中する。
初撃を槍で弾き、次に襲って来た剣撃を横に構えた柄で受けた。
ディレトーレの剣の方が重い。押し込まれる。
「硬ぇ槍だな!」
「どうも!」
「褒めてねえよ!」
魔槍紅喰の柄もまた刃が滑りにくい粘度と異様な硬さを備えている。
並の武具ならそれごと斬り捨てるつもりだったのだろうが、受け止められた感触に漏れた言葉。
「はぁっ!」
気合と共に押し返して、そのまま槍を横に薙いだ。
「そ、どぅわ!?」
隙ありと見たのだろうが、突如として伸びた紅喰に慌てて飛びずさるディレトーレ。
「んあ! びっくりさせんな!」
見切ったつもりが間合いが変化して、その腹の服をわずかに破る。
今ので手傷でも追わせられたらと思ったが、相手の方がいくらか上手だ。
「びっくり箱みてえなやつ」
ディレトーレが、曲剣を斜めに構える。
「ここらで終わりっちゃ!」
長引かせては危険だと思ったのだろう。
先ほどよりさらに強く、斜め上からの斬り下ろし。
避けるべきだったが、速さが足りない。
かろうじて槍で受けるものの、足を止められてしまう。
「らぁ!」
「おぶっ!」
蹴りが入った。腹に。
同時に、仕込んでいた破夜蛙の袋が一つ破裂する。
ほんの少し身を捩り、敵の蹴りをそれで受けた。
弾ける空気で後ろに跳ぶネネラン。
反対に受けたディレトーレは、逆方向に飛ばされ――なかった。
「止めだ!」
先ほども受けた衝撃を、蹴った瞬間に思い出したのだろう。二度目は通じない。
弾けた空気を越える勢いで軸足を踏み抜き、後ろに跳んだネネランに追撃の剣を振り上げる。
避け切れない。
猛烈な勢いで斬りかかる曲剣を躱す手段はなく、体勢が崩れていて槍を構えることも出来ない。
蹴り飛ばされ、槍の柄尻で地面を削りながら振り下ろされようとする敵の剣を見る。
もう一個。
破夜蛙の袋があった。
左手でそれと掴み、握りつぶす。爆風がネネランを飛ばす。
やや屈んだ態勢だったので、湿気の多い大地の泥やらを巻き上げて再度後ろに跳んだ。
「悪足掻きすんな!」
馬鹿を言う。するに決まっている。
舞い散る泥や葉切れの中、再び強く踏み込み襲い来るディレトーレ。
その刃が振り下ろされる横から、太いものが唸りを上げて割り込んだ。
「GuRaa!」
「やろぉ邪魔だ!」
ラッケルタの尾。
横から割り込まれたそれに刃が食い込み、だがさすがにラッケルタの重量で払われる。
正面からだったなら尾を切断されていたかもしれないが、横から入った為に刃が真っ直ぐに立っていない。
鱗を叩き割り食い込んだものの、斬り落とされはしなかった。
「ラッケルタ!」
「Gii!」
吠えるラッケルタ。悲鳴だったかもしれない。
血を流しながら、ぐるりと周囲を見回して顔を上げた。
「手負いだ! 突き殺せ!」
「おぉ!」
それまで見ていた兵士どもが気勢を上げてラッケルタに襲い掛かる。
「逃げてラッケルタ!」
ネネランの言葉に、ラッケルタは頷かない。
敵兵の槍を、その胸元に受ける。
鱗が弾く穂先と、その鱗を貫くものと。
いくらラッケルタでも正面から突き立てる槍の全てを弾けるわけではない。この敵兵もかなりの精兵だ。
ドラゴンを倒そうと力を込めて突き立てられる槍に、悲鳴も上げずに。
ネネランは、動けない。
ネネランが動けば、そこらの兵ではないディレトーレの刃がどちらに向くか。
本気で剣を振るったなら、その曲剣はラッケルタの体を断つだろう。
あるいは助けようとしたネネランの体を切り裂くか。
この場で一番の強者から目を離せず、貫かれるラッケルタを助けに行けない。
ネネランを置いて走れば、ラッケルタだけは逃げられるかもしれないのに。
「ラッケルタ‼」
「GaAaaaaaa!」
ネネランの呼びかけをどう受け止めたのかわからない。
だが、ラッケルタとてやられているばかりではない。
口から吐かれた炎が、ラッケルタに寄せた人間どもを焼き払う。
「うぎゃあぁぁっ!」
「に、にげうぇぇええああ!」
火だるまになる者と慌てふためき逃げ回る者と。
「もう一押しっちゃ! 後ろからやれ!」
ディレトーレが怒鳴るが、劫火に晒された兵士どもの耳にはまともに届かない。
「んっとによぅ! じゃあ俺が――」
「させません!」
格上の敵だからと見ていればラッケルタが殺されてしまう。
叫びながら槍を叩きつけた。
「どっちが先でもいいけど、なぁ」
ネネランの槍を受け止め、にぃっと笑う。
意地の悪い笑み。
本来なら、この間にネネランを斬り殺すことも出来たのかもしれないが、教えてやろうと。
「今の火で見つけてくれたっちゃ」
西から響いてきた物音は紛れもなく大勢の兵士のもので、ネネランが噛み締める歯の音を楽しむようにディレトーレは笑った。
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