第13話 失われたもの
アヴィの体に外傷はない。
考えられる限りのことを確認してみたが、健康に問題はなさそうだった。
先ほどの呪術師の攻撃で、体力の大半を奪われた様子だったが、生命に危険があったり何か操られていたりという様子はなく、ルゥナはひとまず安心する。
だが、アヴィは元気がなかった。
ぐったりとしていた状態からは立ち直ったが、元気がない。
雨に打たれて冷えたのかもしれない。
「……アヴィ?」
「……」
「乾いた毛布がありましたから、眠りませんか?」
「……」
滅ぼした人間の集落の一つに戻り、一度全員を休息させている。
夜通し歩き、全員が辛そうだった。
雨も激しくなってきている。
(幸いに)
大所帯になっているので、足跡などの痕跡が紛れてくれてよかった。
魔物を使って臭いを追うにしても、雨である程度は薄まるだろう。
助け出した清廊族は全部で二十名。
その中には乳飲み子が一名と幼児も三名いる。
これからどうするべきか。
「アヴィ……どうか、しましたか?」
「……力が、入らない」
「まだどこか……?」
「違う」
アヴィの体調を気遣うルゥナに、彼女は不服そうに首を振る。
「うまく、力が……弱くなった」
「そんな……まさか」
「本当よ」
アヴィは、少し涙目でルゥナの前に立った。
悔しそうに、不服そうに。
「……アヴィ?」
「うぅっ!」
突然、アヴィがルゥナに掴みかかった。
襲い掛かるようにルゥナの両手首を掴み、今ほど誘った毛布に押し倒す。
「なっ、アヴィ!? なにを……っ」
「うぅ、うぅっ」
(操られて……?)
呪術師の何かかと考え、抵抗を試みる。
「え……」
わずかに押し返すが、そこまでだ。
アヴィの力の方が強いことはわかっている。けれどこれは――
「……本気、ですか?」
「本気、よ……」
アヴィの瞳から涙が零れ落ちた。
本当なら、本当に本気なら、ルゥナが押し返せるはずがないのだ。
わずかにでも。
それほどアヴィとルゥナの力の差があった。
びくともしないくらいに強かったはずなのに。
「……アヴィ」
「母さんの……母さんの、力なのに……」
彼女は悟っていた。
あの呪術師の仕業で、アヴィの力が失われたのだと。
大切な母から受け取った力が、全てではないにしろ奪われてしまった。
「呪術……力を、封じる……」
得体の知れない呪術師だった。そういう力を持っていた可能性がある。
考えなかったルゥナの失態だ。
「それで……戦っている最中も、それでうまく戦えなかった……あの、忌まわしい呪術師が……」
「もう、これじゃ……人間を、皆殺しに出来ない」
涙を流す。
「アヴィ」
「母さんに、どうして……」
「アヴィ、聞いて下さい」
「いや」
いやいやと、被りを振る。
長い黒髪が乱れて、涙がルゥナの頬に落ちる。
「出来ますから」
「できない」
「やりますから」
「できない」
「アヴィ……話を聞いて下さい」
「いやっ!」
一際大きな声で拒絶された。
「もういや。何も見たくない。聞きたくない」
「……」
「ルゥナはもういい。いらない」
「……」
「みんなで北の山を越えて逃げればいい。私は独りでできるから」
「さっきと違うじゃないですか」
支離滅裂な言葉を重ねるアヴィに、溜息と共に首を振る。
「それに……いらないなんて、言われたら……」
「あ……」
「……いえ」
アヴィの手の力が緩んだので、組み伏せられた状態から抜ける。
気が抜けたのか、逃げるルゥナを無理には掴まえない。
手首が赤くなっているが、本気だったら骨ごと砕かれるほどだろうが、やはり力が弱まっている。
本当に力を失ったのか。
「……確かに、本来ならアヴィ独りでも出来たかもしれません」
「ち、ちが……」
「いいんです。私は……私の好きでやっているだけですから」
立ち上がって向き直ると、アヴィの瞳からぼろぼろと涙が零れ落ちる。
先ほどとは違った涙が。
「ちがう……」
消え入りそうなアヴィの声。
意地悪な性分ではない、つもりだ。
他の者に対してはともかく、アヴィに対してだけは。
「……ごめんなさい、アヴィ」
謝罪の言葉と抱擁を。
「わかっています。つい口から出てしまっただけで本気ではない、ですよね?」
「あ……う、ごめん、なさい」
彼女の心は幼い。
感情的になって、つい相手を傷つけるような言葉を発してしまっただけだと。
それくらいはわかっている。
「ですが、アヴィ……私に対してはともかく、他の者にはいけませんよ」
「……」
「皆の協力がなければ、貴女の……母さんの願いを叶えることは出来ませんから」
アヴィの力が失われたと言っても、それは彼女の戦闘力のことだ。
ルゥナの力は変わっていないし、おそらくミアデもセサーカも。
人間を殺すことで力を得る特性については、今まで通りだろう。
「貴女の力が不足するなら、私が力になります」
「……」
「清廊族皆で貴女の力になればきっと……必ずできますから」
捨て鉢になる必要はない。
独りで戦うこともないのだから。
「人間のいない世界の為に、皆で戦いましょう」
「……ルゥナ」
「言い方は悪いかもしれませんが、その為に他の皆を使います。目的を果たすまで、どんな汚いことをしても」
最終的な目的を果たせるなら、何もアヴィの戦闘力に頼ることばかりが手段ではない。
仲間を増やして、その中に英雄、勇者に匹敵するだけの力を持つ者がいればいい。作ればいい。
アヴィの力だって、時が経つか何かすれば戻るかもしれない。呪いを解く方法もあるかもしれない。
「ただ、差し当たってはここを離れましょう。人間の追手が来る前に」
「ルゥナ」
「幼い子もいますが、どうにか」
「ルゥナ!」
強く呼ばれて、口を閉ざす。
早口で捲し立てている自覚はあった。
彼女の言葉を遮るように話し続けた。
(私も、少しは……傷ついて、しまうので……)
いらないと言われたことを、気にしないなどと言ってはみたけれど。
やはり心は揺さぶられ、聞きたくない言葉がこれ以上アヴィの口から出てくるのを遮りたくて。
動揺している自分を悟られたくなくて、わざと無視するように話を続けてしまった。
「……」
「……」
無言のまま、視線が重なる。
寂しそうな瞳だと、ルゥナは思った。
アヴィがどう思っているのか、それはルゥナにはわからないけれど。
「大丈夫、ですから」
もう一度、今度はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「全ての人間をこの大地から……この世界からなくしましょう」
それが目的だ。
失っていない。失われていない。
アヴィは、自分の力が損なわれたことで道を断たれたと思っているかもしれないが。
最初からルゥナはそれだけで人間を滅ぼせるなどと思っていない。
「どう……やって?」
やっと、お互いに話が出来る程度に落ち着いた。
ふと息を吐いて、頷く。
「西部で、人間と戦っている清廊族がいます」
「……」
「そこには、アヴィと同じくらい強い女性がいるんですよ。二つ並んで」
「……うそ」
「本当です」
信じられないというアヴィ。
無理もない。清廊族はあまり戦いに向いていない者が多い。
「清廊族にも言い伝えがあります。氷乙女という」
「……」
「人間どもの英雄に相当する彼女らがいるから、西部は戦っているんです」
人間の侵攻が西部で食い止められている事実と、ルゥナの言葉とを重ねて、アヴィの瞳が少しずつ光を取り戻す。
嘘ではない、と。
「私はアヴィに嘘は言いません」
「……うん」
「彼女たちや、そこで戦う清廊族の戦士たち。皆にアヴィの力を分け与えることが出来れば」
「あ……」
目的への道筋は、途絶えていない。
アヴィさえ生きていれば、人間と戦う手段はあるのだ。
「人間に勝利する。人間を滅ぼす。出来るんです、アヴィ」
「ルゥナ……」
アヴィの個人的な戦闘力が問題なのではない。
もちろんそれも一つの力ではあるけれど、それはただの一つに過ぎない。
「大体、アヴィだけで人間全てを滅ぼすなんて、出来るはずがないんですよ」
「う……」
ルゥナの言葉に、小さく呻いて俯く。
アヴィとてわかっていなかったわけではないだろう。
復讐心や目の前のことに囚われすぎて、あまり考えていなかっただけで。
だが、ルゥナは考えていた。
「どうすれば人間を滅ぼせるか。どうしたら母さんとアヴィとの誓いを果たせるか。私が考えますから……」
ただの世迷言にしない。夢物語にしない。
一緒に暗い洞窟の底で誓ったのだから、必ずそこに辿り着く。
ルゥナがすべきことは決まっている。
「人間を滅ぼしましょう。そうして、母さんの下に行く」
「……ルゥナ」
アヴィが顔を上げた。
その瞳には、力が戻っている。
戦う力はいくらか失われたままだが、それも無になったわけではない。
出来る。進める。
諦めない意志さえあれば。
「アヴィの力を取り戻す方法も探します。すぐには見つからなくても、仲間を増やして、人間を殺す力にしましょう。清廊族全てが貴女の力になる。だから」
もう一度、静かに頷いた。
自分自身にも言い聞かせるために。
「人間を滅ぼす。やるんでしょう、アヴィ」
ここで泣き伏せていても出来ないけれど、進む道はあるのだと。
ルゥナの瞳に映るアヴィが、小さく、だがはっきりと頷き返した。
「……接吻しても、いい?」
接吻。ルゥナには聞きなれない口づけの呼び方。人間どものだろうか。
彼女の言葉は真っ直ぐすぎて、その意図がよくわからない。
今までそんな確認をしたことがあったないくせに。
だが、アヴィの言葉に対して否はない。
「ええ、まあ……んっむぐ、ちょっあ、やっ」
許可を出した途端に、襲い掛かってきた彼女に再び組み伏せられてしまうとは思わなかった。
※ ※ ※
夜通し歩き、昼間も歩いて、この廃村に辿り着いた時は日暮れだった。
雨の中を、幼子も含めて歩き続けたせいで、全員が疲れ切っている。
とりあえず一晩でもここで休息できるのは有難い。
赤子を抱いた女性を皆で囲んで、皆が笑顔を浮かべた。それでようやく実感が湧いてきた。
解放された。のだと。
赤子の父親もいるが、その辺りは色々と複雑だ。
人間は、珍種の交配だと言って、複数の組み合わせで子供を産ませていた。
それぞれの感情とは無関係に命令で子を産まされてきた為に、気まずい思いもある。
だが子供には何も罪はない。誰かがそう言うと、色々なわだかまりは雨と共に流れ去ってしまうようだった。
トワ、ユウラ、ニーレは今回の牧場の生まれではなくゼッテスの本宅の方で産まれた。ユウラとトワは血縁になる。
他の親戚や同胞は、まだ多くがゼッテスの本宅や別の牧場に今も囚われているだろう。
助けられたらと思わないでもないが、足手纏いになる者を連れて出来ることではない。
今は、まず安全な場所まで逃げることが先決。
多少の食料は村に残っていた。廃村と言ったが、つい最近まで人間が暮らしていたらしい。
滅ぼしたのだろう。
清廊族とすれば異常な強さを誇る彼女らが、その力で。
(あの、美しさで……)
そう考えて、自分の考え違いに顔を赤く染めた。
いくら美しくても、それで村を滅ぼせるはずがない。どんな能力だ。
赤くなったのは、その間違いのことではなく、昨日のことを思い出したから。
(……唇、か)
初めてだった。
口づけという行為がではなくて、意味を伴うそれは、記憶にある限り初めてだった。
(唇、かぁ)
トワにとって、初めての意味を持つ口づけ。
目を醒ましてくれた。
呪枷などなくとも、とうの昔から既にトワは奴隷だった。その心は奴隷になってしまっていた。それに気づかないほど。
奴隷でなくなるという意味がわからなくて、じゃあ今まで何だったのかと考えて、考えられなくて。
自分を失った。
友の呼びかけは聞こえていたが、彼女らはなぜ何も考えないのか意味が分からない。
違う。
考えていなかったのは自分だ。
もし首輪がなければと考えていた彼女らと違い、トワは、もし首輪があればとしか考えていなかった。
奴隷でなくなれば、という希望を抱いていなかった。
「はぁ……」
休むよう割り当てられた家には、木の戸が嵌められた窓があるだけ。
外からは大粒の雨音が聞こえてくる。
暗い部屋の中での溜息は、思ったより響いた。
「トワ?」
「どうかしたの、トワちゃん?」
ニーレはトワより少し年上だ。出荷されなかったのは、女の子らしさよりも健康そうな容姿が際立っているからだろうか。
そういうのを好む者もいるだろうが、ニーレは売られずに残っていた。
ユウラは、少しふわふわした印象の女の子だ。年齢はほぼトワと同じ。
彼女は母親似で、やはり清廊族らしくない薄い茶色の髪をしている。もう少し育てば牧場で母体となることになっていた。
どちらも、トワと共に忌々しい男の下に囚われていたわけだが。
「何でもない」
「……トワちゃんの嘘つき」
物心ついてからの長い付き合いになる。簡単に嘘は通じない。
「赤くなってるよ。ルゥナ様のこと考えてた?」
夜目が利くのだから、見えてしまうのだろう。
頬を隠すトワだったが、その態度が答えているようなものだ。
「綺麗だったよね」
「本当に。あれが氷乙女なのかと」
「……うん」
隠しても仕方がない。素直に認める。
月のようだった。
曇り空の下で輝く白刃も、三日月のようだった。
静かに見つめられた瞳も、冷たくとも優しい月明かりのようだった。
トワの理想を形にしたような女性。
その唇で目を醒ますなど、本当に物語の主役になったような気分にさせてくれる。
「……また思い出してるね、この子」
「いいなぁ、トワちゃん」
奴隷だった頃から、彼女らとはこんな風に話すことがあった。
もっと暗い表情で、お互いの傷を舐め合うように慰め合うばかりだったけれど。
解放されて浮かれている。
無理もないことだった。
「早く寝た方がいいでしょう。明日も移動だから」
からかわれるのを避けようと、明日のことを言って横になる。
「自分が寝付けなかったくせに」
「ねぇ」
確かに、唇に残る熱を思い出すと、簡単に寝付けそうにはないのだけれど。
(ルゥナ様)
幸せな気持ちで眠りにつく。
そんなことは、今までの人生にないことだった。
※ ※ ※
「ぜんっぜん外れじゃねえか」
「可能性の問題だって言ったじゃないですか」
平和な村に現れた三人の男女。
非常識が歩いているビムベルクと、扱いの悪い副官ツァリセと、扱いの良い奴隷少女スーリリャ。
(いや、おかしいおかしい)
考えてみたらか奴隷以下の扱いだ。
いくら尊敬する戦士だとはいえ、この職場環境はおかしい。
抗議する先はどこだろうか。
エトセン騎士団本部か。無理だ、あそこは英雄ビムベルクの無茶な要求を誰に押し付けるかしか考えていない。
誰に押し付けるって?
ツァリセだろう。
ええ、その人のことなら知っています知っています。そうですよね。
「間違えたお前が悪い」
「いや、これからかも……しれないですし」
平和な村だ。
何よりのことだ。平和が一番。
この村が戦火に……災厄に襲われることを望むか、望まないか。
「これから来るのか? その連続襲撃犯が」
「……いやぁ、どうでしょうか」
何事もないのが一番だと思うけれど。
「まあまあ、ツァリセ様は女神様ではありませんから、全部を当てるのは無理ですよ。閣下」
奴隷に庇われた。
自分より年下の……いや、少なくとも自分より倍以上長く生きているはずだが、年下に見える少女に庇われた。
「なぁにがツァリセ様だ。こいつに様なんていらねえって言ってるだろ」
「む、無理ですよう」
良い奴隷だ。
ツァリセも買うならこういう奴隷がいい。常識と立場を弁えて、他人を気遣う気持ちがある。
「……ってか、なんだか物騒じゃねえか」
ビムベルクの目は正しい。
小さな村なのに流れ者のような人間が目に付く。何人も。
武装した冒険者だと見て間違いないだろう。
「まあ、目的は同じでしょう」
「ばぁか、ちげえよ」
脳筋隊長に馬鹿呼ばわりされた。
「あいつらの目的は、金になるか女をとっ捕まえるかってことだろうが」
「……ですね。目標は同じ、でした」
美しい影陋族の女が近隣の集落を襲っている。
それを聞いた多少腕に覚えのある冒険者であれば、常識に照らし合わせればこう考えるだろう。
――素人ではない自分なら対応できる。
――野良の影陋族なら誰の物でもない。捕えれば自分のものだ。
――美しいのなら楽しむこともできるし、売れば相応の金になる。
普通の冒険者の考えだ。
そして、襲撃を受けた村々の情報を聞けば、次に襲われるのがここかもしれないといくつか候補を上げられる。
ツァリセが考えた通りに。
「まあツァリセと同じ考えってことだな」
「非常に不本意な評価をされている気がしますが」
敵の行動の予測をしただけなのに、ひどく貶された。
だったら自分で考えればいいのにと思うかと言われたら、もちろんそんなことは思わない。
ビムベルクに考えさせて行動するのは不毛だ。
それなら自分で考えた上で失敗する方がいい。
いや、成功する方がいいに決まっているが、まだ諦めがつく。
「だから俺が言っただろ。犯人は犯行現場に戻る、ってな」
「あのですね、その根拠は何なんです?」
「先月、エトセンの劇場で見た活劇ですよね。ルラバダールの緑の苔、伯爵令嬢連続殺人未遂事件」
二人で劇場に行っていたらしい。
なんなんだその表題は。苔なんてほとんど緑だろうにだとか、色々と思うところはあるが。
大体、何で連続殺人未遂なんだ。その連続は一人の伯爵令嬢なのか、別々なのか。
思わず気になってしまう。
「演劇のセリフですか」
「ロッザロンドでも流行ってるってな、緑の苔シリーズ。お前もたまにゃ女連れて活劇見に行くくらいの甲斐性を持てや」
「誰のせいで僕の休暇が潰れてるのか、知っていて言ってるんですよね。ですよね」
都合が悪くなって、ふーんと明後日の方を向くビムベルクと、苦笑いを浮かべるスーリリャ。
緑の苔シリーズ。覚えておく必要があるだろうか。
(……いや、ないよな)
ないだろう。
それより考えなければならないのは、どうすれば上司からの体罰を伴う叱責を避けられるかだ。
正直、この村が襲われるという可能性だってそれほど高いと思ってきたわけではない。
とりあえずそれっぽい行動をしてみて、ビムベルクの気を逸らせればいいかと思っただけで。
ゼロではないが、一割もないだろうと。
それで当たりを引いたとしたら、そういう悪運がもっといい場面で回ってこないかと思うが、悪運だから良い時には回ってこないか。
「あとは可能性があるとしたら……牧場、ですかね」
「牧場……」
スーリリャの表情が翳る。
それはそうだ。影陋族にとって最も忌むべき場所に違いない。
家畜として飼われ、繁殖させられ、売られる施設。
仮にスーリリャが夢見るように、人間と影陋族が本当に対等な関係を作る日が来るとすれば、決してあってはならない場所。
「そいつぁ……ねえな」
「ですね」
さすがのビムベルクの非常識さでも、その可能性は切り捨てた。
「ここが西部だってんならともかく、南部じゃあな」
人間の支配領域のほぼ真ん中。
そこで仲間を解放したとしても、どこにも逃げ場がない。
命を捨てる覚悟で山越えを目指すか、運よく見つからないことを祈って西部に抜けるか。
「……なるほど、バカか」
「自覚、されたのですか?」
「お前な……違うって言いてえが、そうだな。俺がバカだったか」
ぼりぼりと頭を掻いて、珍しく反省しているようだ。
「が、許さん」
「うごぉっ!」
裏拳が眉間に入った。
「ツァリセ様っ!」
吹っ飛ばされて後ろに一回転したツァリセに駆け寄るスーリリャに、鼻を押さえながら大丈夫だと反対の手を振った。
ちょと油断しただけだ。
珍しくビムベルクが自らを省みるようなことを言ったので。
「ふぇ……で、どうしたんでふか、隊長」
「馬鹿だってことを思い出したぜ」
やはり自分のことだったか。
良かった、思い出してくれて。
「違うからな」
ぎろりと睨まれた。
「わ、わひゃってますよ……襲撃犯が、バカげたことをしてるってことですよね」
ツァリセもそれはわかった上で常識的な行動をしていただけで。
別に遭遇しないならそれでいいのだから。
何しろ、仮にそういう犯人を捕まえたとして、生きて捕まえたとしたらあちこちから引き渡せという話になるだろうし、ビムベルクは俺の獲物だとか言って引き渡そうとしないだろうし。
その結果、苦労をするのは誰になるのか。
考える必要がない。仕事が増えるだけだと知っている。
正直な所、誰かが解決してくれないかなというのがツァリセの偽らざる気持ちだ。
「普通に考えてたら見つかるわけがねえ」
「まるで普通に考えられるかのような発言を……」
「声、出てるぞ」
「あれ、間違えました」
拳が握られる前に、今度はスーリリャの影に隠れた。
女を盾にする。
最低だ。最低だが、副官というのは汚れ仕事を選ぶ必要もある。
「ちょ、ツァリセ様。私じゃ死んじゃいますよぅ」
「大丈夫、隊長は君に危害を加えない」
「お前なぁ……色々と最低すぎて殴る気にもならねぇぞ」
「そういう嘘で油断させようとしても無駄です」
ちっと舌打ちするビムベルク。二度も三度も殴られてたまるかと思う。
ツァリセの気構えに諦めたのか、西側の空に目をやった。
「牧場、だったかもな」
北西の空から黒い雲が広がりつつある。
風向きからすると、今夜遅くか明日には雨になるだろう。
「この辺だと、ゼッテスの牧場か」
「……揉め事は勘弁ですが、エトセンの上の方も世話になっているみたいですからね」
もし恩を売れるなら、それは悪くない。
ビムベルクは計算が出来ない人なので、ゼッテス嫌いとか言って別の揉め事を起こさないかと心配もしたのだが。
(今からなら、休暇もぎりぎりで揉める前に帰ることになるかな)
ツァリセは計算が出来る副官だ。
自分の仕事をなるべく減らすことに心を割いている。
別の言い方をすれば、騎士団でも持て余すビムベルクの行動を適度に調整しているというか。
「よし、行くぞ」
「駄目です」
いつもビムベルクの行動を引き留めるツァリセに、憤るならず者のような目が向けられた。
「あのですね、見ればわかるでしょうけど、雨が降ります」
「雨が怖くて戦争が出来るか」
戦争を雨で回避できるなら、その方が平和でいいとも思うのだが。
ツァリセは、ちょっとだけ飾った服を着ているスーリリャを手で示した。
「女の子の体を冷やすのはよくありません。せっかく可愛い服も来ているのですから、雨具ぐらいは準備して行きましょうよ」
そう言われたビムベルクはスーリリャの表情を見て、彼女の曖昧な微笑みを受けて決まりが悪そうにぼやく。
「……そういうのはお前の仕事だ」
「絶対に違うと思うんですが」
※ ※ ※
激しかった。
色々と思う所はあったのだろうが、アヴィの様子がいつもと違い、貪るようにルゥナの肌に唇を押し当てていた。
少し気が済んだのか、疲れもあったのか唐突に眠ってしまったが。
「う……ん、ぅ」
「……大丈夫ですよ」
まだ涙の残る眦に接吻をする。
ルゥナの頬に残っていた傷痕は、ルゥナ自身も忘れかけていたが、アヴィが癒してくれた。
何度も謝りながら。
――ごめんね、ごめんなさい。ごめん、ごめんね。
何を、とは言わなかったが、ルゥナを傷つけたことに対しての謝罪だったのだろう。
ふと腕を見ると、赤く腫れている。
転々と、あちこち。
「……」
見えないけれど、首周りにもあるのかもしれない。
アヴィが啄んだ跡が。
(これは……皆には隠したいですが)
恥ずかしい。
そう思う反面で、全く逆のことも思う。
見せつけたい。
自分で思っているよりもルゥナは性格が悪いのかもしれない。
「もしかして……嫉妬、させてしまいましたか?」
「……」
ぴくっと、アヴィの瞼が震えた。
「……」
息を殺して身動きを止める。
まさかそれで誤魔化せると思われているのなら、本当に何というか。
(本当に、可愛いんですから)
謝らなければならないのはルゥナの方だった。
アヴィを危険に晒してしまった。その上で、初めて会った子にキスをして。
必要な措置だったと思う。
彼女――トワは、アヴィに初めて会った時のルゥナと同じく、生きる道を見失っていたから。
別に愛情や何かでそうしたわけではない。
「……すみません、私の言葉が足りませんでした」
「……」
「あの子は……トワのことは、違いますから。助ける為にああしただけです」
みゅっと、アヴィの唇がすぼまる。
聞こえている。寝ているフリをしているだけで。
「私は……私には、貴女だけですから。貴女と、母さんだけですから」
「……ん」
小さな吐息が返された。
「母さんと貴女の為に生きて、そうして死にます。そう誓いました」
「……ルゥナ」
薄目を開けて、まだ少し拗ねるように眉を寄せたまま。
「キス、してもいい?」
甘い問いかけを。
さっきの質問は、ルゥナがトワに心惹かれたと思っての遠慮だったのかと理解する。
確かに綺麗な子だとは思う。出会っていきなり唇を奪うとかそういう行動に出たルゥナを訝しむのも道理だ。
「アヴィ」
力を失って不安な彼女に、ルゥナが誓いを忘れたのかとさらに心配をかけてしまった。
反省して質問を返す。
「キスしても、いいですか?」
「っ、んんぅ!」
返事は聞かなかった。
ダメだと言われても、我慢できるとは思わなかったので。
「う……むぅ……あとで、おしおき」
「ええ、そうですね」
今は眠ろう。
明日からの日々も決して楽ではないのだから。
※ ※ ※