第146話 誰かの生きる場所
言ったところで魔物は魔物。
どういう行動を取るか、甘く考えるべきではない。
万全を期す。
メメトハは自分だけでいいと言ったが、ルゥナが許さなかった。
ニーレが目を覚ました翌日、メメトハはヌカサジュの主に話に行くと言ったのだが。
見れば随分と大所帯。
ルゥナにアヴィにエシュメノ、ミアデにセサーカも一緒だ。少し離れた場所にウヤルカとネネランも待機している。
魔物同士だと諍いになるかもしれないので、ユキリンとラッケルタを遠ざけた。
それでも、いざ戦いとなれば即座に救援に来られる位置に。
「ルゥナよ。正しい判断とは言えぬぞ」
責める。
「あやつが本気で戦うとなれば、この布陣でも怪しい。湖の近くでは最悪全滅さえ考えられる」
「メメトハ」
ルゥナが向ける瞳は、それは指揮官のものではない。
まるで恋する女のような瞳。
「私を……私たちを置いていくのは、やめてください」
「……」
これが求愛であれば、思わず受け入れてしまいそうだ。
メメトハは自分を異性愛者だと思っている。ルゥナのことは嫌いではないが、性的な対象ではない。
それでも流されてしまいそうなほど切なく訴えて。
「……勝手にせよ」
ルゥナ達からすれば、メメトハを独り行かせることの方が正しくないのだろう。
無論、メメトハもここで死ぬつもりはないけれど。
「飛行船を落とし約定は果たしたのじゃ。よほど機嫌が悪くなければ危険はないと思うがの」
先ほどとは逆に甘い見通しを口にして、共に湖のほとりへと向かう。
前にここに来た時には、ニーレとユウラも一緒だった。胸に込み上げる思いが、つい足取りを重くさせた。
※ ※ ※
『……何の用向きか』
公算とすれば、口にした約束を果たした以上は無体なことはないと見ていた。
千年級の魔物の言葉だ。軽々に破ることはないだろうと。
何の用かと聞かれるとは思わなかったけれど。
「ヌカサジュのぬし……ぬしではないのじゃったか」
『……』
「約定を果たし、黒い飛行船を落とした。遅くなったが報告に参った」
『既に知っている』
それなら、よくやったとか何か話を振ってくれてもいいだろうに。
そういう親切心を魔物に求めるのもおかしいのかもしれないが、会話がしづらい。
『レジッサ』
不意に、白い巨体から発せられた。
『我が名だ。永く誰が呼ぶこともなかったが』
名を教えてくれたということは、認めてくれたということだろう。
湖の近くまで来たら向こうから姿を現した時点で、既に敵意はないとは思ったけれど。
「そうか、レジッサ……様」
『いらぬ。ただのレジッサだ、清廊族のメメトハ』
古くからこの湖ヌカサジュに住む魔物。その名を呼び、名を呼ばれる。
斜め後ろのルゥナが息を吐くのを感じた。
アヴィの様子は変わらない。
エシュメノと並び巨大な魔物を眺める姿は、どこか子供のよう。
改めてレジッサを見上げる。
うっすら青みがかる白く長い体。というだけならユキリンも似ているが、ユキリンと違って鱗がなくぬらりとした滑らかな体表。
頭になるだろう場所には一筋の横線。これが口なのだと思う。その上には四つの青白い光沢の瞳があり、首の横には小さな穴とわずかに鬣のような体毛もあった。
「うなぎ……」
「?」
アヴィが呟き、軽く首を振る。なんでもない、と。
「ヌカサジュのレジッサ。改めて謝罪を……私はルゥナ。今回の戦いの指揮は全て私が行いました」
メメトハとの話が済んだところで、ルゥナが前に出る。
「戦いに勝利する為、ヌカサジュを堰き止め滞らせたのは私です。メメトハはただ私の指示でそうしただけです」
『この大地も、ニアミカルムの山々も、其方らだけが生きるのではない』
叱るような言葉だけれど、怒りはもう感じない。
『皆に伝えよ。生きる糧として狩りをすることは構わぬが、他の者の生きる場を踏み躙ることは大罪だ』
敬意のない行為。
それは、人間が清廊族に行ったことと変わりがない。
湖と川で生きるものにとっては、慣れ親しんだ住処を、突然に強力な魔法で氷漬けにされ戦いに利用されたことになる。
無思慮な行いと断罪されるのも仕方がなかった。
「しかと……忘れぬことをお約束します」
ルゥナが苦い表情で唇を噛み締めたのは、やはり人間の行いと符号したからだろう。
湖には湖で生きる生き物がいる。理由はともかく、その命の営みを力で捻じ曲げた。
人間と清廊族の諍いなど、彼らには関係がないのだから。
『……あの慮外者は逃げたか』
ダァバのことも既に察知していたらしく、声を発しているわけでもないのに溜息交じりのような声音だった。
『正直に言えば、其方らがあれに打ち勝つとは思わなかったが』
「知っているのですね。ダァバを」
ウヤルカたちも、危険ではないと見たのか近付いてくる。
ラッケルタとユキリンはやや遠巻きに。強大な魔物であるレジッサが怖いらしい。
「教えて下さい。あなたの知るダァバのことを」
「我らはあれを倒さねばならぬのじゃ。レジッサ」
勝てるとは思わなかったと、この魔物がそう見立てるだけの力がダァバにはある。
それでも、メメトハたちはダァバを殺さねばならない。少しでも情報がほしい。
『私とてあれを見たのは遥か昔……その時でも氷乙女を上回るだけの力を有していた』
「……」
『配下となり、海や川を渡る足となれと。そう言ってきたのだ』
なんと不敬な話を。
クジャでパニケヤたちから聞いた話でも、幼い頃から節々に傲りを感じることはあったと。
幼少期から極めて高い才覚を示し、また他の者が思いつかないこともやってみせたり。
当時のクジャの皆は彼を天才と称え、それもダァバを増長させた。口惜しいことに、増長するだけの力も十分すぎた。
『力を持つ者が己を過信することなど珍しくもない。私はあやつを殺すつもりで放ったが、思うより強かった』
「あなたでさえ……」
『水辺から離れられてはこの身では追えぬ。あれきり姿を見ぬので、懲りたのだろうと』
さすがのダァバも、レジッサと一対一で正面からやりあえるだけの力はなかったらしい。
逃げて、生き延びた。
「……そう、ですか」
『それが再びここに現れた意味を考えたが』
レジッサの声が細く鋭く。
『勝てる算段をつけてきたのだと。メメトハが去ってからそう思い至った』
鳥肌が立つ。
メメトハではまともに戦いにもならないと思うこのレジッサを、ダァバは倒す自信があると言うのか。
『あの慮外者は度し難い。だが、あれの自我は異様に肥大している』
「自我……?」
『自意識。自尊心……なんでも構わぬ。己が常に上にあらねば気が済まぬ性質だ』
レジッサに勝てる。
それだけの力を持って戻ってきた。カナンラダ大陸に。
裏切り者のダァバ。
『先の攻撃は挨拶代わりだったのだろう。喧嘩を売りに来た、というところか』
あの爆裂の魔法を湖に投げ込みレジッサを挑発したというのか。
信じがたいし、確かに度し難い。
『私の水撃が空まで届くことは奴も想定外だったのだろう。いっとき、慌てた様で退いたのだが』
――凍らぬ湖ヌカサジュからも、天に届くような水柱が立ち上がって。
サジュに来る途中、人間に追われて逃げて来たフノゥセがそう言っていた。
西の空から巨大な魔物が迫って、町に火の手が上がり、湖から水柱が。
今ならその話が理解できる。
『それでもまた戻ったのだ。あの男が勝算なしに来るとは思えぬ』
「確かに、仰る通りです」
レジッサの存在と脅威を知り、尚もサジュに足を踏み入れた。
湖や水辺を避ければ問題ないとも言えるけれど、そんな殊勝な相手ではないとルゥナが頷く。
メメトハはダァバを見ていない。だが、見ていた他の仲間たちも同じ感想のようだ。
「あなたに非礼を詫びに来たということもないでしょう」
『有り得んな』
何がダァバをそのような精神にしてしまったのか。
クジャで寵児として褒め称えられた幼少期が悪いのだとすれば、その責はメメトハが負おう。
当時はパニケヤやカチナも同じく幼かったはず。既に当事者はほぼこの世にない。
年老いた祖母らに背負わせるくらいなら、メメトハが。
『私に勝つ見込みを持っているのだとすれば、其方らでは敵わぬと思ったのだが』
冷静に見て、言う通り。
地形の問題もある。水辺でこのレジッサを討つことは極めて困難だ。他の千年級の魔物と比べても条件が違う。
ただ力があれば出来るものでもない。
「ダァバは……人間どもの世界で、呪術を修めて来たようですが」
特殊な何かがあるのだとすれば、まず思い浮かぶのはそれだ。
清廊族として生活していた頃にはなかった手管。
「それと、どうやら怨魔石と人間の混じりものを……氷乙女に比肩する者も配下に加えていたようです」
妖奴兵と呼んでいた混じりものの兵士。
蝙蝠のような連中はそこまでではなかったが、ダァバの身辺にいた一体はかなりの強者だったらしい。
『混じりものは……其方らも、いくらかそのような気配もあるが』
「……」
『それはよい。捻じ曲がった意志は感じぬ』
アヴィから連なる濁塑滔と呼ばれる伝説の魔物の力。
口づけで、その恩寵を分け与えられているメメトハたちも、レジッサから見れば清廊族と魔物の混じりものということになるらしい。
歪んだ形で結び付けられているわけではないから、責めることはないと。
「ああ、あれでユキリンが妙な感じだったんね」
ウヤルカが離れた場所にいるユキリンを見ながら、納得したというように頷いた。
飛行船が近づいた際、様子がおかしかったのだとか。
『雪鱗舞は繊細な魔物だ。不自然に歪められた魔物の気配を感じれば平静ではいられぬだろう』
ラッケルタは違うのだろうか。まあ見た目に繊細さは感じない。
『しかし混じりものの一つ二つで勝利を確信したとは思えぬ』
勝率は上がるだろうが、それだけで確信には至らない。
「とすれば、やはり呪術の……そうです、レジッサ」
思い出したようにルゥナが声を上げた。
アヴィを差して、
「ダァバに呪術を受けたのですが、アヴィは……彼女は、その呪術を打ち払いました」
『うむ?』
「何か理由が……これも母さんの? 濁塑滔の加護の力、でしょうか?」
『待て、少し待つのだ。清廊族のルゥナよ』
レジッサとこんな話が出来ると思わなかった。思わぬ機会にルゥナの言葉が逸る。
焦るルゥナの言葉に、レジッサが窘めた。
『呪術を打ち払うと……先触れのことを言っておるのか?』
「先触れ?」
『それにしても奇妙な。清廊族のダァバがいかに人間と共に暮らしたとて呪いを?』
レジッサの方も困惑したように言い淀む。
何か掛け違えている。そんな風に。
「どういう意味、ですか?」
すれ違う会話のどこに問題があるのか、ルゥナだけでなくメメトハにもわからなかったが。
レジッサは、自分でも事実を確認するように一度言葉を呑み込み、それから。
『清廊族は呪いを扱えぬ』
当たり前のことを言うように断言した。
※ ※ ※