第143話 かけがえのない
目覚めると、すぐ近くに自分を見つめる瞳がある。
そんな視線には慣れていた。
最近はずっとそうだったのだから。
これからも、ずっとそうなのだから。
「……」
見覚えのない建物。屋外ではない。
何をしていたのだったか考えようとして、ひどい頭痛と眩暈を覚える。
気分が悪い。
最悪だ。
病気にでもなったのだろうか。ここ最近はそんなこともなかったのに。
ここ最近……牧場を出て、アヴィから恩寵を授かってからというもの病気とは無縁だった。
牧場を出て、逃げて、戦って。
たった一年前のことなのに、これまで生きてきた中で最も濃い時間だった。
自分の為に戦う。仲間の為に生きる。
いまだ望まぬ生き方に涙すら流せぬ同胞を救いだす戦い。
牧場の一つは解放して、自分たちはそこで救われた。
けれどまだ牧場はたくさんある。
人間どもの住む町――ゼッテスの本宅があるレカンの町には、自分たちの血縁者も囚われているはずだ。
この大陸から人間どもを一掃する。果ては、別大陸へと売られてしまった同胞だって助けられるかもしれない。
出来るのだ。ルゥナがそう言って、アヴィがそう言った。
頼れる仲間たちも増えて、自分だって強くなった。
強くなった。
この力があれば出来る。
自由で、幸せを得る為の生き方が出来る。
もう首輪などない。縛られることなく生きることが。
幸せを。
そうだ。幸せなのだ。
今の自分は幸せなのだと知った。
愛すべき者を愛して、愛する者に愛されて。
そんな幸せは普通に生きていたって得られたかどうかわからない。
幸せだ。ニーレは、幸せだ。
奴隷だった頃は自由に誰かを愛するなど考えたこともなかった。
今は違う。
自分の意思で、愛する者を求めることが出来る。
「……」
重い体を動かして手を伸ばす。
視線を感じる先。そこにある幸せを掴もうと。
「……」
指先が触れた。
慣れぬ感触。
肌が違う。柔らかさが違う。温もりが違う。
これじゃない。
これじゃない。
間違えるはずがない。何より大切な者と別のものくらい。
どこにいったのか。
いつも眠る自分の――ニーレの傍にあったはずなのに。
宙を泳いだ手を、再びその別のものが掴んだ。
両手で包み込むように。
邪魔だ。
邪魔をするな。
振り払いたいけれど、力が足りない。
体が重く、視界もぼんやりと定まらず。
探さなければいけないのに。
掴まなければいけないのに。
ニーレの大切なユウラの手を。
なのにその手は、ユウラの手ではないくせに、ニーレの手を離そうとしない。
ユウラの手ではないくせに。
だのに、どうしてか。どうしようもないほど感じる。
ニーレを心から労わり、慈しみ。形は違うが愛情のような優しさが込められているのを。
「あ……あぁ……」
涙が溢れ出した。
とめどなく。
この手が、あの幸せな温もりを掴むことはもうないのだと。
逃げられない現実を知る。
全身が震えた。
「うあ……ああぁ……うっ、ううぅぅぅ……っ」
わななき、咽び泣く。
「ああぁぁぁっ! う、うぁぁ……ううああぁぁ……」
言葉にならないニーレの泣き声を、ずっと、ずっと。
手を握るルゥナは、ただ静かに聞き続けていた。
※ ※ ※
「目が覚めたのじゃな」
どれくらい経ったのだろう。
泣き声に呼ばれたのか、最初から傍にいたのだろうか。
仲間たちがニーレの傍でニーレを見守るように集まっていた。
涙で滲む視界に、ユウラの姿はない。
どこにもない。
「……ごめん」
ニーレの視線が彷徨う様を見てか、ミアデが囁く。謝罪の言葉を。
ごめん。
何を許せばいい。
許せるはずがない。こんなこと、許せるものか。
誰が許せるというのだ。これほどひどい現実を。これほど愚かなニーレを。
「……すまぬ、ニーレ」
「……」
そうだ、メメトハだ。
メメトハの命を守る為に無茶な戦いをすることになった。
こいつがいなければ。
こんな奴、助けようとしなければよかった。
見捨てて逃げれば……
「……違う」
違う。
メメトハは言ったのだ。
無理なら逃げろ。優先順位を間違えるな、と。
間違えたのは自分だ。
メメトハの言葉を選択肢から切り捨てて、優先順位を間違えた。
現実を見ていなかった。
それもまた違う。ニーレが見ていなかったものは、ユウラだ。
ユウラが怖かった。
ニーレが何か間違えれば、またユウラは自らをひどく傷つけるのではないか。
真白き清廊から帰るあの夜の時のように、自分の体や心を痛めつけてしまうかもしれない。
怖かった。
間違えるのが怖くて、ユウラが苦しむ姿を見るのが怖くて。
見るのが怖くて、見てこなかった。
目を背けた。
ユウラだって言っていたのだ。無茶しすぎだと。
わかっていた。わかっていたけれど、その言葉にも背を向けて。
全部、自分のせいだ。
間違えないようにと追われながら、大事なものを見ようとせず、また間違えた。
何もかもニーレの愚かさのせいで、その為にユウラは死んだ。
ユウラは死んだ。
「ううぅぅっ……っ!」
声を殺そうとするがそれもかなわず、呻き声と共にしゃくりあげる。
「ええ……えぇ、そうです……」
握られた手に額が当てられ、熱い涙が流れてくるのを感じた。
世界が泣いていた。
世界は、泣いていた。
「丸一日眠っていました。ここはサジュの中です」
泣き止むことが出来ないニーレに、ルゥナがそっと語り掛ける。
状況を伝えようと。
「他の皆は敵が潜んでいないか見回りをしています」
人間に支配されていた町だ。
まだどこかに隠れている人間がいるかもしれない。
外からも湿った音がニーレの耳に響いてくる。
雨、か。
それとは別に、また嘆く声も。
ニーレの嗚咽がサジュの町にも伝わったように、あちこちから嘆き悲しむ声が。
あるいは憤る声も。
悲劇を敵視する怨嗟の声。
「貴女の矢が飛行船を落としてくれました」
「……わたし、は……」
首を振る。
小さく首を振って、ひどく重い体を起こした。
小さな部屋の小さな寝台。
木窓を塞いでいた戸板はつっかえ棒で開けられて、そこから雨の匂いが室内にも満ちている。
町に満ちる哀惜の声も。
「ちがう……違うんだ……わたしは、ばかで……わたしのせいで……」
「貴女のせいではありません、ニーレ」
慰めの言葉を。
「私の……全て、私の責任です。私の力不足で、私の判断ミスです」
そうは言わなかったじゃないか。
ニーレのせいだと、そう言った。それが正しい。
「貴女のせいではありません。ごめんなさい」
嘘つき。
どうして今になって、そんな優しい嘘を口にする。
もうわかっているのに。
誰より自分がわかっている。自分が悪いのだと、誰を責めることも出来ないと。
「……」
首を振り、拒絶した。
優しさなどいらない。そんな優しさに何も意味はない。
だって、だって。
「ユウラが……いない」
優しい言葉に意味があるなら、それはユウラの言葉だけ。
そうじゃないものに何も意味はない。無意味で無価値で、罪悪だ。優しいのは世界でユウラだけ。
優しさの本当の価値を持つユウラ。それを失わせたのは、他でもないニーレ自身。
「わたしの……わたしのせいで、ユウラが……」
口にした。
口にしたら、皆の瞳からまた涙が零れた。
改めて胸を抉る。
現実なのだと。ユウラはもういないのだと。
ゆらりと立ち上がり、握られていた手を払う。
それほど強く握られていたわけではない。ただその温かさは、ユウラと違うのに温かすぎて、不愉快。
「私が……」
ふらりと、壁まで歩いた。
「死ねば、良かったんだ……」
言葉にしてみて、納得した。
ああ、そうだ。
それが一番よかったのに、どうしてそうしなかったのだろう。
「ニーレ、それは……」
ルゥナが言葉を探す。
出来るだけニーレを傷つけないように、と。
おかしなものだ。これだけ傷だらけのニーレにいまさら。
「私が死ぬべきだった……ユウラじゃない……」
ユウラをずっと傷つけてきた。
彼女の想いから目を逸らし、彼女の苦しみから目を背けて。
死ぬべきなのはニーレに違いない。
「違います、ニーレ」
ルゥナは静かに、だがはっきりと否定する。
「正しくない。そんなことは正しくありません」
「違わない!」
振り向き、ルゥナに向けて叫んだ。
けれどそれは、自分に向けて叫ぶのと同じで。
「私が死ぬべきだったんだ!」
「ニーレ」
「ユウラじゃない! 私が……私が、ユウラの代わりに死ねば――っ!」
「おんしゃあ!」
胸倉を掴まれた。
「言うにも限りっちゅうんがあるんよ! なんね!」
「っ」
「代わりに? おのれがユウラの代わりに? 舐めたこと言うんもいい加減にせえ!」
泣き腫らした目が眼前に迫り、その怒りを強くニーレに突き付ける。
「ウヤルカ!」
ルゥナの声にもウヤルカは止まらなかった。
「いじけて逃げ回っとったおんしが、どがな了見でユウラの代わりになれるっちゅうんよ!」
「逃げ……」
「ちゃうとは言わさん。ユウラが苦しいんを見捨てて逃げたなぁしゃあない。見てられんかったんじゃろうが」
見捨てた。見ていなかった。
その通りだ。
ニーレは、見るのが怖くて目を背けて逃げ出した。
「ユウラはなぁ、おんしなんかよりよほど強かったんじゃ!」
「……」
「最後までおんしを……ニーレ、おのれを好きやゆうて……最後まで前向いて生きたんよ」
「ま、え……」
――ニーレちゃん、大好き。
耳に響いた声は、今もはっきりと残っている。
「誰が……いじけて後ろ向いてるおんしが、どの口でユウラの代わり言うつもりじゃ」
「わ、わた……」
「そんな腐った根性でなぁ! 代わりなんか出来るかぼけぇ!」
軽く突き飛ばされて、壁を背にずるりと尻を落とした。
ああ、そういえばトワを殺そうとした時にも、ルゥナにこんな風に突き飛ばされたのだと思い出す。へたり込んで。
上からウヤルカの涙声を聞かされる。
「誰にも、出来んのじゃ……」
「……」
「ユウラがしてくれたことはな、おんしにも、誰にも。誰にも代わりなんぞやれんのじゃ」
ウヤルカの言葉を聞き、また涙が溢れ出した。
どうしてなのだろう。
ずっと近くにいたはずなのに、ニーレよりよほどウヤルカの方が正しくユウラを見ている。
返す言葉もなくて。
「ユウラのおかげじゃ」
「……」
「ユウラが助けてくれたんよ、おんしを……ウチも、他のみなも……サジュを取り戻せたんだって、全部……」
「……」
「代わりなんて、やれんのじゃ……ウチらは、弱いからの……」
悔しい。
無力で、情けない。
無理解が恥ずかしい。
「……そう、だ」
ユウラの代わりなんて、誰に出来るはずもない。
まして、世界で最も愚かで弱いニーレになど出来るはずがない。
壁を頼りに立ち上がり、俯いたまま顔を振る。
「わたしが……弱かったから、ユウラが……」
「ニーレ、自分を責めるのは……」
「っ!」
駆け出した。
ドアを蹴破るように外に飛び出して、小雨の降る町を駆ける。
自分を責めるな、などと。
言ってくれないで。そうしたら他にどうすればいい。
誰を責めればいい。
ルゥナを?
わかっている。彼女はそう言うだろうし、それが間違っていることも。
だけど、行き場のない感情をぶつけてしまいそうで、ぶつけてしまったらまたひどく悔むだろうと。
逃げ出した。
また逃げ出した。
今は何より優しさが傷に染みる。
逃げて、逃げて。
壊れた門の残骸を越えて、焼け焦げた草が雨に濡れる大地を見た。
「……」
へたり込み、膝を抱えた。
落ちてくる雨の雫と、己の涙と。何もかもがどろどろになるまでそうしていた。
いないのだと。
ユウラはもういないのだと、波のように感情が大きく震え、反対にひどく沈み込んで。
「……どっか、痛めちゃあおらんか?」
「……」
ずっと声を掛けなかったウヤルカ。
ニーレの体はぼろぼろで、駆けてきたつもりでも大して速くはなかったのだろう。
後ろからついてきて、そのまま黙って雨に打たれていた。
先ほど掴み上げたり突き飛ばしたりで、どこか痛めていないかと。
「ユウラは……」
どこが痛いかなんて、もうわからない。
痛くない場所などない。この世界は全てが痛みに満ちている。
「ユウラは、優しいんだ」
たった一つだけ。
痛くない、温かい場所だってあった。
ずっと目を背けてきたことに、今になって気が付く。
「ああ」
ウヤルカはユウラのことをよく知らない。
それはそうだ。一年に満たない程度の付き合いなのだから。
なのに、ニーレよりもずっとユウラのことをわかっていた。
「辛くても、出来るだけ元気に声をかけて……私を助けてくれる」
「そか」
膝を抱えたまま、背中を向けたまま喋るニーレに、ウヤルカは歩み寄らない。
ただその場で聞き、短く、だけどはっきりと応じる。
「あんまり器用じゃなくて、裁縫なんかも下手で……針で自分の指を刺して悲鳴を上げるんだ」
「へえ」
愛玩用としても作業用としても、あまり奴隷としての価値がないとか。
だから売られなかったのは皮肉な話かもしれない。
あの人間が扱う清廊族は特に高値ということで、半端に安く売り払われることもなく。
「食べられる花が好きで……人間どもが用意する食料はいつも同じようなものだったけれど、外で集めた香草で味を変えれば少しは気分も違うって、そう言って……」
「えらいんね」
「ああ、ユウラは……誰より、優しいんだ」
ぽつりぽつりと。
ウヤルカが知らないだろうユウラのことを話し続けた。
雨の中。
ニーレが辿る優しい記憶を、ウヤルカはずっとそこで聞いてくれた。
今更だけれど。ようやくユウラのことを真っ直ぐに見ることが出来て、彼女の優しさがただ愛おしかった。
※ ※ ※




