第141話 繋ぐ想い
「馬鹿者が」
泣いているのではないか。
泣かせているではないか。
お前が、こんな悲しい音で、喉を枯らして叫び続けて。
身を削り、命を削って放つ矢に、何の意味がある。
飛行船に届いたとて、それは力を持たずただこつんと当たるだけ。冥銀で覆われたあれには痛痒もないだろう。
ニーレが泣き、ニーレの大事な者を泣かせて。
それで無意味な有様では、どこまでも救いがない。
「ちっ、ニーレ!」
狂乱しているニーレには周りが見えていない。
明らかに暴走していて乱れるように矢を放っているが、既にあれは体力の限界をとうに超えている。その頭上に敵の姿が。
隙だらけだった。
「ええい! 天嶮より――」
走りながら魔法を唱える。集中力は損なわれるが、今のニーレよりはずっとマシだ。
「くだ……?」
途中で止めた。思わず言葉を失った。
ニーレを襲おうとした蝙蝠男を、後ろから飛び込んできた人間の服を着た女が掴み、大地に転がす。
「オルガーラか!」
「うぁぁ!」
吠えたのは、メメトハは一瞬目を疑ったが、間違いなくオルガーラだ。
「びゅっ」
地面に転がした敵を踏みつけて跳躍。また別の敵に掴みかかり、空中でその首を捥ぎ取った。
「らぁぁ!」
獣のような戦い方を。
「何をやっておるのじゃ、あやつは」
人間の服を着て、あんな戦い方で。
顔は、メメトハの記憶にあるオルガーラに間違いないのだが。
そういえば、カチナがオルガーラの指導をしている時に言っていた。
オルガーラに剣の才能はない。戦いのセンスが絶望的だとか。力は並外れたものがあるのに。
だから違う戦法を教えたという話だったが、それとて敵に噛みつき捥ぎ取るような話ではない。
しかし、助かった。
空を飛ぶ敵は俊敏だが、数は多くない。
メメトハもいくつか片付けたし、オルガーラもニーレを守って倒してくれて。残りは他の戦士たちが相手をしている。
「おぉぉ!」
次に響いた雄叫びはニーレのもの。
近付く敵がいなくなったことを知ってか、渾身の力を込めて矢を放った。
ひゅうっ!
今までにない勢いで打ち出される氷の矢。
ニーレの悲しみと怒りを乗せて、一直線に空に浮かぶ飛行船に向かう。
メメトハの瞳もそれを追う。これならいけるか。
鋭く風を切る矢が十分な威力を保って飛行船に近付いたところで。飛行船から放たれた何かがその氷の矢を払った。
もう少しでというところで砕け散る氷の矢。
「おのれぇぇ!」
続けて放つニーレだが、駄目だ。
ここから、たとえアヴィが全力の投擲で投げたとしても、敵にはその軌道を見切る余裕がある。
あれに乗っている敵も普通の腕ではないだろう。ダァバが乗っているというのだったか。
それではとても、この遠距離で有効な攻撃手段などなり得ない。
「やめんか馬鹿者!」
「だま、れぇ!」
ようやくニーレの下に辿り着いたメメトハが一喝したが、ニーレの狂気は消えない。
「お前の……あいつらのせいでユウラが」
「っ……」
息を飲む。
今ニーレは、メメトハのせい、と言いかけなかったか。
その通りだ。否定など出来ない。
思わず口を噤んでしまい、舌打ち混じりにまたニーレが矢をつがえた。
その顔は、もう白いというのを過ぎて暗い。どれだけ無茶を続けているか知れる。
これではほどなくニーレが死んでしまう。
力づくでも止めなければならない。どれだけ恨まれても。
しかし。
あの飛行船は落とす。ダァバは殺す。人間は皆殺しだ。
その気持ちはメメトハも変わらない。出来るというのならそうしたいし、少しでも高度が下がっている今が好機だとも言える。
もう一手……いや、二手、三手。足りない。どうすればいいのか。
近付いてくる飛行船と消費されるニーレの命に、苛立ちと焦燥ばかりが心を占めていった。
※ ※ ※
「メメトハ! 無事でしたか!」
オルガーラに遅れてルゥナが走ってきた。
「すまぬ、ルゥナ」
無事かと訊かれて、どんな顔をすればいいのか。
ユウラを死なせたこともある。そして。
「清廊族全ての命を材料に一時的に戻っただけじゃ。ヌカサジュの主の約定は変わらぬ」
苦い顔のメメトハにルゥナは一瞬だけ言い淀むが、
「全て……あの飛行船を落とせばその約定を果たせるのですね」
少しでも状況を良い方向に考えようと。
ユウラのことで、これ以上親しい者を失いたくないと、気持ちばかりが先走っているのではないか。
届かぬ目標を目指して進み、さらに被害を広げるようなことになるのでは。
「ああ、じゃが……」
ニーレが再び放つ矢も、飛行船の敵は見飽きたというように打ち払われた。
吠えるニーレだが状況は悪くなるばかり。
やはりメメトハは湖に身を捧げ、彼女らはすぐに退くべきかもしれない。
「あれには……ダァバが乗っておると」
「ダァバのことなら既に撃退しました。あれには乗っていないでしょう」
「なんじゃと?」
仰天するメメトハに、ルゥナは申し訳なさそうに首を振る。
「取り逃がして……いえ、アヴィとエシュメノも限界でした。ダァバの方が退いてくれなければ誰かが……」
「……そうか」
先に人間の軍隊とも戦っていたはずだ。
その上でダァバの襲撃を受け、それを退けた。
討ち取れなかったことを責めるつもりはない。その場にいなかったメメトハとしては痛恨の極みでもある。
「とにかくあの飛行船じゃが……ニーレ、やめんか!」
「うるさい!」
無意味に撃ち続けるニーレを叱責するが、強い拒絶が返された。
無理もない。無理もないが、これ以上は本当に無理だ。
まだ続けるというのなら仕方ない。意識を奪ってでも逃がすことを考えよう。
「最初より落ちてきておるが、あれではまだ届かぬ」
「穴……ウヤルカたちが、あれを」
ルゥナも目を凝らして、飛行船が何かを噴出している様を確認する。
ユキリンに騎乗するウヤルカであれば、確かに飛行船に届くかもしれない。
だが、その飛行船にも敵はいる。今もニーレの矢を迎撃しているのだ。
いくらウヤルカでも、単騎であれに近付いたのでは……
「ウヤルカは……まさかウヤルカまで?」
嫌なことを考えてしまった。
そうだ、空中戦だというのにウヤルカとユキリンの姿がないのはどうして。
「いえ、ウヤルカはひどい傷を……」
「ルゥナ様、ウチは平気じゃ!」
言いかけたルゥナの後を追うように、やや太い声が届けられた。
振り返ったルゥナが、空を駆けてくる女丈夫に小さく息を漏らす。
「こんな……貴女はまだ傷も塞がっていないでしょう!」
「血ぃは止めたけぇ平気じゃ! ユキリンに乗せりゃあニーレの矢も届くじゃろ」
「……」
応急的に血を止めただけなのか、いつも手にしている鉤薙刀は持っていない。
ユキリンの騎手として、ニーレを空に届けると。
「それでいい! 頼む!」
即座に応じるニーレだが、あまりに短絡的すぎる。
「考えの足りん奴じゃ」
ウヤルカがニーレを拾いに降りてくるのを見ながら、ルゥナは沈黙を、メメトハは叱責を。
その程度のこと、ルゥナが考えなかったわけがない。
足りないのだ。それではまだ。
飛行船は冥銀で覆われている。あれは魔法の力を受け流しやすいし、そもそも強度だってそれなりにある。
氷の矢とてその力を減衰させられ、あれを撃ち抜くことなど不可能だろう。
矢を打ち払っている敵もいる。距離が半分ほど縮まったところで、迎撃不可能だとは思えない。
それでも飛行船を落とす方法があるとするなら――
「……ユウラのおかげ、じゃな」
「メメトハ?」
足りない手が、埋まった。
ここに手札が揃ったのも不可思議なもの。それらを繋ぐものが生まれたことも。
その為に失われた命を思えば喜ぶべきではない。けれど、ユウラの死を儚んで為すべきことを放棄するのでは、死んだユウラに面目も立たない。
「オルガーラ! 馬鹿は終いじゃ!」
まだ息があった人間を踏み潰して殺していたオルガーラに怒鳴る。
「あー? なんでここにメメトハさまぁ?」
人間どもの血に汚れ、何かに酔っているのか胡乱な目でメメトハを見た。
記憶にある彼女とは大きく異なるが、それは後回しだ。
「妾と共に、ええいっ! あの雪鱗舞まで跳べ!」
「うぁ? あー、弓使いぃ」
既に地上から離れつつあったユキリンに飛び乗るように指示する。
オルガーラに抱えられ、メメトハも共に。
「ルゥナ、待っておれ!」
ここまで何も出来なかったメメトハが、この最後の一手は担うと頷いた。
「……頼みます!」
「っ!」
ルゥナに返事をする間もなく、凄まじい加速と共に空に引っ張り上げられる。
眩暈がするほどの加速を感じたかと思えば、次は何かふわっと臓腑が浮くようなあやふやな感覚。
「ってぇ多すぎじゃけぇ!」
「弓使いはボクが守るのぉ」
ウヤルカとオルガーラの会話が噛み合っているのかどうか怪しいが。
だが場所はちょうどいい。
ウヤルカはユキリンを操る為に前。
その後ろの羽の邪魔にならない所に跨るニーレと、さらに後ろに掴まった。
「ウヤルカ! 揺れぬよう頼むのじゃ!」
「これじゃ大して上までいけん!」
「不要じゃ!」
地上から撃つよりは十分に近い。
そもそも、地上からでもニーレの矢は届いていた。有効打ではなかったにせよ。
「オルガーラ、ニーレの背中を抱け!」
「メメトハさまの命令ならやるけどぉ」
多少なり面識があってよかった。オルガーラの様子は明らかにおかしいが、メメトハのことはちゃんとわかっている。
「メメトハ、私の邪魔をするな!」
「戯けた物言いもいい加減にせよ! ニーレ‼」
一喝する。
「あれがユウラの仇じゃと言うなら、おぬしこそ邪魔をするでないわ! あれに乗っている人間どもを殺す邪魔をするでない!」
「……」
悲しみ、狂う気持ちもわかる。
だが、己だけがそうだと決めつけて、目的を見失うのでは意味がない。
「恨み言も責め苦も後でいくらでも聞いてやろう。じゃが今は、あのクソ虫どもを殺すのがおぬしの役目であろうが!」
「……あぁ」
出来ないことを、出来ないなりに全力を尽くした。そんな体裁はいらない。
何をどうしてでも果たすべきこと。
それを全うする。
「うー?」
「ここらが限界じゃけぇ」
飛行船から投げられた槍を躱しながらウヤルカが告げた。
これ以上上昇すれば、この人数ではバランスが保てない。ユキリンもかなり疲れているようだ。
「ああ、ニーレ……ただ一度で構わぬ。目を閉じて、思い切り引き絞れ」
「……」
「もう少し上じゃ」
メメトハも、オルガーラの背中からニーレの腹に手を伸ばす。
オルガーラを間に挟み、ニーレの体まで密着するように。
血で汚れたオルガーラの悪臭だとか、慣れないユキリンに跨ることへの恐怖だとか。そういったものを一切忘れて。目を閉じた。
感じる。
氷弓皎冽に宿る共感の力が、ニーレの手から、オルガーラを通してメメトハまで繋がるのを。
個々の力が一つに繋がっていく。
伝えたいと思う気持ちが誰より強い少女だった。
メメトハとは性格が大きく違っていて、だからメメトハには真似できない。
誰かへの想いを伝えたい。誰かから想いを伝えてほしい。優しい繋がりを求めたユウラの心を感じる。
「……こんな優しい心を」
全てを伝える。
メメトハの中にあるものと、間にある氷乙女のもの。それら全てを繋がる先へと。
「いつまでも泣かせるでないわ」
――ニーレちゃん、大好き。
聞いていたはずだろうに。
「馬鹿者が」
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