第12話 瓦礫に嗤う雨
呪術師ガヌーザ。
ロッザロンドでも高名な呪術師に拾われた彼には才能があった。
女神の愛を知る才能が。
瞬く間に呪術の基礎を、応用を、そして多くの者が至らぬ真理にまで手を掛ける。
師が、ガヌーザへの教えを渋るようになった頃には、既に他人から学べるようなことはなくなっていた。
そんな彼を疎み、妬み、殺そうとした師のことを、ガヌーザは特に恨んでいない。
きっかけをくれたのは間違いなくその師であったし、育てられたことに恩を感じないわけでもなかった。
だから海を渡った。
殺し合うといのなら別に恐れることもなかったが、何しろ呪術に精通する者は少ない。
生きているなら案外と、今度はガヌーザが知り得ぬ境地に辿り着くものがいるかもしれない。
そう思うと、殺すのも惜しいという気持ちもあった。
ガヌーザは天才ではあったが、醜悪な見た目でもあった。
その反動か、美しい女を見ることを好み、枯れたような指で触れる愉しみも知っている。ガヌーザの手が触れると、花は泣き萎れた。
若くして呪術を極められたのも、彼の欲求を満たす手段として都合が良かったからなのかもしれない。
満たされないのだが。どこまでいっても。
ガヌーザにとって、カナンラダ大陸は悪くなかった。
一定の水準に社会が出来上がってしまっているロッザロンドと違い、カナンラダは混沌としている。
村の娘がいなくなってもよくあることだし、町で一家が怪死しても本格的な捜査はない。
呪術師の力を自由に使える環境。
彼に歯止めをかけられる人間はいなかった。
先触れと言った。
呪術の至高。
使うべき呪術を先に準備しておくこと。
発動する前から、その呪術の影響を及ぼすこと。
戦っている間、ガヌーザの周囲には常に事前に準備していた呪術の影響があった。
発動させずに、ある程度の影響を敵に与える。
味方にも影響がなくもないので、事前に準備をする呪術は即死の効果などではまずい。
ガヌーザにはうまくできない世渡りをする為の雇い主もいるし、いずれその尻を舐めたいと思う奴隷もいる。
命に害があるような呪術は都合が悪い。
泥濘の澱。
女神が、その指に傷をつけた小鳥の雛の籠に溢したとされる泥濘。
そのぬかるみは雛を飲み込み、もがく雛の生きる力を奪ったと言われる呪術。
受けた者の力を減衰させ、その力を存分に使うことが出来なくなる効果があった。
戦いに臨む多くの者は自らの力を知っている。
普段なら出来ることが、いつもなら動ける動きが出来ない。
その違和感は、熟練者であればあるほど影響が大きい。
ガヌーザ自身の体術が及ばなくとも、敵の力が減衰すれば大抵の問題は解決する。
牧場を襲うような相手だからと、用心して使ってみたのが正解だっただろう。
本来の力を発揮できずに死ぬ戦士。その間抜け面を拝むのも悪くない。
その敵を確認して、気が変わったが。
――こ、れは我、の……恵みとす、る。
収穫だった。
女神が、満たされぬガヌーザの為に齎した、美しい実りだと思った。
※ ※ ※
崩れ落ちたアヴィに駆け寄るより先に、アヴィが手をついて体を起こした。
震えながら、体を起こす。
「アヴィ」
その反対で、呪術師が膝をついている。
「ひ、ひふ……ひぁ……」
その額からねっとりとした汗と、鼻から血を流しながら。
「な、んと……こ、れほど、か……」
荒い息で、どう見てもダメージを負いながら、だが狂喜を孕んだ声で唸る。
呪術師のことなどどうでもいい。
アヴィを助け起こすと、その体が濡れていることに驚かされた。
彼女の全身の穴から汗が噴き出したように。
「だ、大丈夫ですか? アヴィ?」
「う……は、ぅ……ルゥナ……?」
弱々しく答えるアヴィを抱えて、呪術師から離れた。
ルゥナとて常人の数倍の筋力がある。アヴィの体くらいなら抱えて走ることに問題はない。
呪術師は、追ってこなかった。
あちらもかなりのダメージのようだったから、追えないのかもしれない。
「アヴィ、大丈夫です。私がいますから」
「ん……うん、うん……ルゥナ……ルゥナぁ」
まだ震える手で、弱々しくだがルゥナの首にしがみつく。
混乱している。
自分の身に何が起こったのかわからず、その心の弱いところが剥き出しに晒されていた。
「ミアデ! セサーカ!」
「はい!」
アヴィを連れて、建物の北側にいた二人を呼ぶ。
「呪枷は?」
「全員取れました。けど、一人……」
と見るのは、最初から呪枷をつけていなかった銀髪の少女。
動いていない。
立ちすくんだ場所で、肥満男の死体の前で動かない。
「トワちゃん! 聞いて、トワちゃん!」
「目を覚まして、トワ!」
少女を庇った二人が呼びかけるが、その声が届かないのか。
(……なまじ呪枷がなかったから)
奴隷から解放されたというきっかけがない。
意識が、変わらない。
ただ混乱に飲み込まれているだけで。
「ここを離れます。すぐに」
「でもあの子が……」
「……」
アヴィがこの状態では、これ以上ここにいるのはまずい。
あの呪術師を殺したいが、ルゥナではまた返り討ちに遭うかもしれない。
アヴィでさえ、勝てなかったのだから。
「……アヴィ、ごめんなさい」
無理やりに口づけをする。
「ん、む……」
彼女の体温が低い。体も震えている。
だが今は時間がない。他に頼れる相手もいない。
「……ミアデ、セサーカ」
「はい?」
とても、気が進まないのだけれど。
(……私の気持ちは、別です)
気が進まないからやらないなどという甘えは、ルゥナには許されない。
全てはアヴィの為に。彼女の安全が最優先だ。
「アヴィを……お願いします」
引き渡すのは、とても嫌なのだけれど。
本当はずっとルゥナが抱えて、独り占めにしておきたいのに。
「ルゥナ?」
「……わかりました」
ミアデがアヴィのに肩を貸して、反対をセサーカが支える。
ルゥナから離れる彼女の体を取り返したくなるが。
ミアデらにアヴィを預けて、取り残されている少女たちの所に急ぐ。
銀髪の少女――トワと呼ばれていた。
彼女の目には何が映っているのか。
その姿勢は、上を見上げたまま。
先ほどルゥナが斬ろうとした時に見上げた姿勢のまま、凍り付いたように動かない。
空は……曇り空が広がってきていた。
夕刻に襲撃したが、既に空は暗くなっている。
「トワちゃん……お願い」
「すぐにここから逃げます。貴女達も川沿いに北へ」
涙ながらに少女に声を掛けている二人に言うが、彼女らは首を振る。
「けど、トワが……」
友の心が戻ってこないと嘆く。
ルゥナはその灰色の瞳の前に立った。
揺れている。
僅かにだが、ルゥナを映すその瞳が揺れた。
「しっかりなさい」
「……」
声を掛けるが、答えはない。
彼女の雪のように白い首に手を掛けて、そっと顎を持ち上げた。
「トワ、貴女はもう奴隷ではありません」
「……ぁ」
その頬を、両手で包む。
「生きなさい」
命ずるように言って、その唇に触れた。
ルゥナの唇が感じるトワの唇は、固く結ばれて、冷たい。
「……」
少女の瞳が揺れる。
ルゥナの瞳を映して、波打つように。
「……ん」
冷たい唇に熱が伝わる。
暖かさを取り戻して、少しずつ緩む。
「む、う……ふぁ……」
トワの体内にまで、温もりを届けた。
「……」
二人の少女は、ルゥナとトワの様子を息を飲んで見守っていた。
ルゥナの唇が離れると、少し開いたトワの口から音が漏れる。
「あ……」
名残惜しそうに、少し手を伸ばしかけて。
そんなトワにルゥナは首を振った。
「貴女の友が心配しています。しっかりなさい」
「は……はい……あ、ああ……」
意識を取り戻し、首を動かして横にいる二人の少女を見つめる。
「ユウラ、ニーレ……」
「トワちゃん!」
「トワ!」
抱き合う姿は美しいが、浸る余裕はない。
あの呪術師が戦意を取り戻して復帰してくるかもしれないし、まだ増援があるかもしれない。
すぐにここを離れなければ。
「川沿いに北に向かいます! すぐに!」
勝利とは呼べなかった。
だが、当初の目的は果たした。
これ以上はアヴィを危険に晒すだけになる。すぐに逃げてアヴィの容態をみなければならない。
「全員、続きなさい!」
助け出した清廊族を率いるルゥナの号令は、清廊族の伝説に謡われる氷乙女のようだったと、見ていた者は言うのだった。
※ ※ ※
ロドは牧場の見張りだった。
見張りだとは言っても、別に戦闘を生業としているわけではない。
荒事であれば、主人が用意した魔物がそれを担う。
素人のロドがするのは、牧場で生活する商品が逃げ出さないように見張ること。
また、同じ見張りの連中が、妙な気を起こして商品に手を出さないように見張るのが仕事だ。
十体以上の魔物を切り裂くような襲撃者に対して、まさか立ち向かうような気持ちは全く起きなかったとしても無理はない。
ロドは戦闘向きの人間ではない。
一人で森を抜けるのも恐ろしかった。
まして時刻は夕刻から夜になりかけた時間。
運悪く雲も出てきて、月明かりさえ当てになりそうにない。
屋敷から聞こえていた戦闘の音は、だいぶ前に鳴りやんだ。
それでも隠れていたロドがそこから這い出たのは、もうすっかり暗くなってからだった。
「……ご主人は……無事だらうか」
ロドの言葉が訛っているのは生まれの問題だが。
彼は生真面目に、自分の雇い主の安否を気にした。
滅多に来ない主人が牧場に来て、その日に襲撃があった。
これは主人が厄介事を引き攣れてきたと考えてもいいのか。
「……屋敷は?」
こっそりと、他に行く当てもないので、屋敷の方に戻る。
逃げ隠れていたロドを見つけたら、主人は激しく怒るかもしれない。
その場で魔物の餌に……そういえば魔物は殺されていたから、その心配はないか。
戻った彼は、目を疑った。
暗がりでも近づけばわかる。
屋敷が半壊している。
城のような堅固な造りをしていたわけではないが、家屋が巨大な落石でもぶつかったのかというような壊れ方をしているのは異常だ。
恐ろしい魔物が暴れた後のような惨状。
瓦礫の中に足を踏み入れ、死体を見つけた。
おそらく寝台にでも隠れていたのだろう、同じ見張り番役の男の死体。
屋敷が破壊されたついでに、一緒に壊されていたようだ。
「……」
巡り合わせが違えば、そこで死体になっていたのはロドだったかもしれない。
彼の運命に目を閉じていたら、瓦礫が崩れた。
「うひっ!?」
飛びのくロド。少し離れた瓦礫から這い出して来る男が一人。
誇り塗れでぼろぼろの状態。顔にも傷があるし、他も酷い様相だ。
「ぐ、う……誰か、いるのですか?」
主人が連れてきた客人だ。
初老の男で、名前は知らないが偉い人だということはわかっている。
「……」
偉い人と話す時にどうすればいいのか、下手なことを言えばせっかく助かった命が失われるかもしれない。
ロドは返答に迷い、だが何も言わないわけにもいかない。
「あ……」
「ひ、ひゃ」
声は、ロドのすぐ斜め後ろからだった。
心臓が止まるほど驚いて跳び上がり、尻をついて後ずさった。
「あわ、わ……」
足をばたつかせて惑うロドが、ぐにゃりとした感触に行き当たったのは、同僚の死体だった。
「ひ」
「ガヌーザ殿、か……」
今の悲鳴はロドだったが、声が裏返ってそう聞こえたのかもしれない。
主人が使う呪術師だ。
奴隷に呪枷を施すために何度か来ているのを、ロドも見たことがあった。
「あやつらは……?」
「ぬし、も……生き、のこるか……ひゃ、ひゃ」
ガヌーザは質問に答えずに笑った。
改めてロドが見てみれば、何か澱んだように視界を邪魔する外套でよくわからないが、呪術師は座りこんでいる。
へたり込んでいる、と言った方が正しいか。
何か力を使い果たしたように、ぐったりと。
「逃げ、られた、わ……ひ、ひゃ」
「……追わぬ、のですか?」
「追え、ぬ……い、まは……」
瓦礫から這い出して満身創痍の初老の男と、全身から力を失っているような呪術師と。
襲撃者を追うような状況ではないだろう。
「思うたよ、り……お、おきか……った、わ」
陰鬱な声音で、楽し気に嗤う。
「……あれを退けるとは、それだけで尊敬いたしますが……く、ぅ」
初老の男が左腕を押さえて呻く。
折れているのではないだろうか。
顔を顰めて、だがそれを表に出すまいと表情を引き締めた。
「何を、されたのですか? 今のは」
「ひ、ひゃ……呪術の神髄、聞き、たがる……か」
「これは失礼を」
「ひゃ、よい……よい。我はかわり、もの、ゆえ」
ボロボロの状態で、なぜそんな世間話のようなことが出来るのか。横で聞いているロドにはわけがわからない。
まず手当とかそういうことではないのか。
「泥濘と……懺睨の眸子、と、な……」
「……女神の眼ということで?」
「しか、り……しかり、ぬし……呪術師に、むい、ておる、な……」
「ご冗談を」
なぜこの状況で冗談を叩けるのか。
本当にロドには意味がわからなかった。
なぜ自分はここにいるのだろうか。
「発現すらばそれ仇の力を半ばに減ずと」
急にすらすらと、呪術師が諳んじるように言う。
「ひ、ひ……我、にも、分を超え、た……あ、れは……すこぉし、つよ、すぎた、わ」
「少しですか……」
「ひ、ひゃ……冗談、よ」
「でしょうな」
ははっと笑いあう二人に、なんだかロドもおかしくなってきた。
瓦礫の中で、同僚の死体も転がっていて、満身創痍の二人が冗談を言って笑いあう。
泣きたい。
たぶんこの二人は化け物だ。ロドから見たら。
「あの力を半分にとなれば、さすがと申しますか……して」
「……」
「いつまで、ですかな? あるいは、どこまでと考えれば?」
「ひゃ! ひゃ!」
一際狂ったような嗤い声を上げる呪術師。
まさに我が意を得たりと言った風に。
それから、曇り空からぽつりぽつりと落ちてきた雫に、枯れ木のような両手を広げて、その渇ききった喉を潤すように大きく口を開けて、また嗤った。
「女神の、眼……と、どくか、ぎり、よ……ひゃ!」
「それは……それは」
初老の男も天を見上げて、口を開けた。
「それは、素晴らしい……はは、はははっ!」
「ひゃひゃ、ひゃっ! そこ、のぬし、も、わら、え……ひゃ!」
「は、はひゃっ! ひゃひゃひゃ、ひゃあっひゃっひゃっ!」
雨の降り出した夜の瓦礫の中で、三人の男の狂ったような笑い声が重なっていった。
※ ※ ※