第128話 地に在るは残影と屍(挿絵)
エシュメノは馬鹿じゃない。
イラスト:いなり様 データサイズ84kb
※ ※ ※
エシュメノは馬鹿じゃない。
ソーシャが、エシュメノは賢いって言っていた。
皆もエシュメノはえらいって言う。
だからエシュメノは馬鹿じゃない。賢くて強い。そうじゃなきゃいけない。
アヴィはエシュメノの友達だ。最初の友達だ。
とっても強いけれど、だけど泣き虫なところも知っている。
アヴィは他の誰かの前ではあまり泣かないけれど、エシュメノと一緒の時は泣くこともある。
ソーシャの話をして、アヴィがアヴィのお母さんの話をして、泣く。
アヴィはアヴィのお母さんが世界で一番って言って、エシュメノはソーシャが世界で一番って言って。どっちが世界一なのかって喧嘩して、泣きながら笑う。
エシュメノはアヴィが大好きだ。
アヴィを守ってあげるのは友達のエシュメノの役目だと知っている。
エシュメノは馬鹿じゃない。だからわかっている。
目の前の人間が、エシュメノより強いことくらい見ればわかる。
自分では勝てない魔物を知ることは、ソーシャから教わった。
にじり寄る足に触れた先から氷が砕け散る。細かく。
狙われている。じりじりと静かに間合いを詰めながら、一撃でエシュメノを殺すつもりだ。
狩りに臨む獣のような気配。
逃げると言っていたのは嘘だ。そんな生易しい空気ではない。
エシュメノと、後ろで倒れているアヴィを殺そうと。
やらせるわけにはいかない。
「すぅっ」
息を吸い込んだ。
「はっ!」
吐くと同時に踏み込む。
待っていましたとばかりに敵の武器が上げられた。
エシュメノは構わず、敵の左前に踏み込み、次のステップで逆に飛ぶ。
「あんたも!」
と、また逆にステップ。
「野生児かい!」
砕けた氷が散らばる足元だけれど、冬の山ならもっと悪いところもあった。
長く過ごした山と比べれば、だいたい平らなだけ別に大した苦でもない。
敵の一撃が軌道を変えるが、少し大振りになった分だけ躱せる。
真っ直ぐに突っ込んでいたら、振り下ろしを避け切れなかったと思う。
左右への動きでそれを避けて槍を叩きこむ。
「やあぁ!」
「むっ」
エシュメノの連撃は、目にも止まらぬほどの速度。
そして、今は後ろのアヴィのこともある。一撃に込める力もそれぞれ重い。
黒く滑らかな左の短槍と、螺旋を描く右の深紫の短槍。ソーシャの角。
エシュメノの連撃を鉄棍一つで弾き返すこの敵は、最初は鉄棍を二本持っていた。
足の踏ん張りから、片足を痛めていることもわかる。
武器を一つ失い、怪我をして。それでこの強さ。
万全ならとてもエシュメノだけでは戦えなかっただろう。
息を止めての連撃を、女戦士が鉄棍で弾く。
弾かれても即座に次、また次。
全力のエシュメノの攻撃を、足を怪我した状態で鉄棍一本で捌かれた。
「だっ‼」
強く弾かれた次の瞬間、左の拳が飛んできた。
裏拳というのか、握った拳を小指側から叩きつけるように。
しゃがんで躱したが、すぐさま頭上に鉄棍が振り下ろされる。
左足と右足を、続けてととんっと向きを変えて後ろに飛び退いた。
「ちっ」
敵の鉄棍が空を切るが、巻き起こした風もすさまじい。ソーシャの背に乗り駆けた時のような暴風。
「すばしっこいね。さっきのアヴィ以上じゃないかい」
素早さなら、アヴィよりもエシュメノの方が上になる。
小柄な為の身の軽さというのも有利だ。
「ソーシャはもっと速かった」
「? 知らないけどさぁ」
エシュメノはソーシャの戦いをずっと見て育った。時に強大な魔物がエシュメノを食らおうとしたこともある。
どんな時でも、ソーシャが負けたことはない。
そう、どんな時でも。
「……」
今はエシュメノがソーシャだ。だから、どういう敵が相手でも負けられない。
息を整え直し、槍を握り直す。
ソーシャの想いの込められた双槍。胸にはソーシャの残した深緑の魔石もある。
エシュメノの角と合わせて、三つの角。今はエシュメノが三角鬼馬。最強の獣だ。
「ソーシャは最強!」
「そいつは怖いね」
再びの連撃。
先ほどよりも速く、強く。
激しい攻撃で、今度は反撃など許さない。
もっと速く。
もっと強く。
防御など考えず、ただ目の前の敵を倒す為だけに一瞬の間に何度も突き出した。
まともな敵なら、この猛威の前に崩れただろう。
この女戦士コロンバが万全の状態なら、エシュメノとて攻撃だけに意識を割くことはなかった。
足を痛め、武器が半分。だからこその猛撃。
ただ、武器が半分というのは手が半分という意味ではない。
武器を失ったとはいえ、その武器を振るっていた手は残っている。空いている。
そしてコロンバは、まともな力量の戦士ではなかった。エシュメノより格上の、人類最強を謡われる女傑。
「っ!」
攻撃ばかりに傾いたエシュメノの右の短槍を、一瞬の呼吸で躱し、掴む。
「つぁっ!?」
引き戻した。
コロンバが左手を遊ばせていた為に、掴んだのは右の短槍。螺旋を描く深紫の。
その螺旋は鋭い刃となっており、その刃は普通なら刃すらまともに通さぬコロンバの手を走った。
「なんて武器だい!」
無思慮に握ったわけではなく、気合を込めて掴み取ろうとしたはず。
先の砦で、別の英雄と呼ばれる男がルゥナの剣を腕で弾いたとか。そういうように。
けれど武器の格が違う。これは千年を生きた伝説の魔物が遺したものだ。
愛しい娘を守ろうと、その意志を持って残された刃。軽々しく掴めるものではない。
「やぁっ!」
好機だった。
予想外の鋭さに怯んだコロンバに、エシュメノは全力を超えた力で猛攻を仕掛ける。
「うぉっ」
左を弾いた鉄棍が、僅かに押された。
そこに間髪入れずに右を叩きこみ、大きく押し込む。
左右の連撃の力に負けたコロンバが、半歩下がる。
右足が下がり、左の足は痛みの為か一瞬の硬直。
「!」
動きを止めたその足を、エシュメノの黒い短槍が貫いた。
「っ!?」
確かに、この目で見た。
エシュメノは敵の太腿を貫く様子を見た。そのはず。
だけれど、感触はない。
伝わる手応えはなく、空を貫き、そのまま勢いで体が流れる。
残像。
痛んでいたはずの敵の左足が、氷の散らばる地面を蹴ったのを知ったのは、体が流れた後。
エシュメノの体が前のめりになってから、思い出した。
(これって)
記憶が重なる。
いつか見た。最後に見たソーシャの戦いのそれと。
(ソーシャが)
足首から下の蹴りだけで体の位置をずらして、敵の攻撃を躱す。
そのバックステップから、再び前に無拍子の踏み込み。
ソーシャがそういう動きをしていた。
それを見せつけられ、見上げようとしたエシュメノの頭上には、両手で鉄棍を振り上げた敵の姿が。
コロンバが、体勢の崩れたエシュメノを見下ろして、射程に捉えた。
「あ」
躱せない。
ここで躱そうとしても、エシュメノの動いた方向に鉄棍の軌道が追い付く。
好機を逃すような敵ではない。
今の攻防でエシュメノが好機と思った。
その意識こそが失錯で、敵に絶好機を与えてしまう。
「終わりだよ!」
エシュメノがソーシャだったなら、蹄で大地を強く蹴り、瞬く間に駆け抜けることも出来たはず。
ソーシャの姿が脳裏に浮かぶ。
目に浮かぶ。
振り下ろされる鉄棍を、突き出した槍の勢いで前に流れながら瞳に映したまま。
世界がブレた。
激しい衝撃と共に、エシュメノの見ている世界が弾け飛ぶ。
一瞬で大きく後ろに頭が、視界が吹き飛ぶように。
「あ」
この動きは、知っている。
四本の足を巧みに使い、強靭な蹄でどんな大地でも蹴っていた。あの大好きな姿を。
目の前を、鉄棍が振り抜いていった。
猛烈な風がエシュメノの頬を裂き、髪をすり抜ける。
後ろ脚はどうだったか。
前足で蹴り、そうしたら次は後ろ脚で。
エシュメノの素足が、砕けた氷を更に踏み砕いた。
「なん――っ!?」
前足にある黒く鋭い角が、その女の腹を貫いて。
「……あ」
「ば……ぶ、はっ……」
それから、ようやく。自分の居場所を改めて理解する。
女傑コロンバを左の短槍で貫き、大地に落ちた鉄棍ががらんと音を立てたのを聞いて。
エシュメノは、生きていた。
「なん、だよ‥‥そりゃ、あ……」
「ソー……しゃ……?」
左の短槍は、黒く滑らかな曲線を描いている。ソーシャの左角のように。
普段、戦いでない時は、エシュメノの腕を守るように籠手のように姿を変えていた。
だからこれは初めて見る。
柄が、まるで馬の蹄のようになっている姿を。初めて見た。
いや、初めてではない。この蹄はソーシャの前足の蹄と同じだ。
知っている。
左の短槍を突き出し、空振りしたエシュメノ。
前のめりになり、敵の攻撃を避けられないと思った。なのに。
短槍の柄が蹄を形作り、大地を蹴った。
蹴ったわけではないのかもしれない。エシュメノが突き出した勢いのまま地面にぶつかったのかも。
つんのめるようになったエシュメノの両手が蹄となり、大地を逆に蹴った。
前に向かうはずが、残像だけを残して瞬時に後方に。
今しがた、敵のコロンバがやっていたような動きを。
かつて、ソーシャが見せてくれたような動きを。
ソーシャの蹄はどんな足場でも踏みしめ、力強く駆けることが出来た。だからなのだろう。
振り下ろされる鉄棍からエシュメノを逃がして、また次の瞬間にはエシュメノの踏み込みで敵を貫いた。
エシュメノの命を救い、敵を貫いた。
「そんなん、あるか……」
どだっと音を立て、コロンバが大地に転がる。
腹から流された大量の血が、まだ残っていた氷を溶かしながら広がっていった。
どろりと流れて、とろりと溶けて。
「ソーシャが……助けてくれた」
エシュメノの力ではない。
負けていた。実力でもそうだし、駆け引きでも。
「なんだ、よ……ソーシャ、ってぇの、は……」
もう立ち上がることも出来ず、指を小刻みに震えさせながら。
敵の質問に答える必要などなかったかもしれない。だけど。
「ソーシャは……」
槍は既にいつもの形に戻っていた。
「……ソーシャは、エシュメノの……おかあ、さん……」
言葉にした。
言葉にしたら、涙が溢れてきた。
まだ戦いは続いているというのに。
「おかあさん……ソーシャぁ……」
「は、はっ……あは、は……そう、か」
笑う。
事切れる直前で、力も入らない声で、さも楽しそうに。
「そうかい……四対一じゃあ、仕方な、い……」
敗れたというのに、なぜだか何より深く理解できたと言うように笑い。
「……」
「……」
奇妙なほど静かに感じた。
敵の姿は?
敵の姿などない。
見えるのは、集まる清廊族の戦士やサジュの住民たちと、空に浮かぶ塊と。
あとは、ただの屍ばかりだった。
※ ※ ※