第121話 緩んだ鍵
イスフィロセという国は実力主義の傾向が強い。
国土の狭い海洋国家としての色が濃い小国だったために。
海では権威は役に立たず、実力や経験が何よりの頼りで、勘と運も重要だ。
全く権威主義がないわけではないが、ルラバダール王国やアトレ・ケノス共和国と比較すればかなり差がある。
ただ、人間というのは大抵、自らが得た利得は失いたくないと思うもの。
自力で上まで登れば、今度はその場所を守ることを考えてしまう者も少なくない。
コロンバを疎む軍の一部の将官は、自分が実力で彼女に打ち勝つことは不可能だと知っているからなのだろう。
大味で血の気の多いコロンバの失態を探し、自らの力を磨くことを忘れる。
兵士たちの人気は当然ながらコロンバに集まり、また自身の立ち位置を危うくするというのに。
阿呆な話だ。
コロンバの足を引っ張るより、彼女をうまく使って成果を稼ぐ方が良いだろうに。
あるいはコロンバが女でなければ、そうした手を選んだ者ももっと多かったか。
イスフィロセの将軍ライムンドは、決して個人として他を圧倒する資質があるわけではない。
そうした自分の力を認め、自分より秀でた才を持つ他人を活用することで将軍の地位にまで上り詰めた。
一応は勇者級などと称されるが、それは甘く見積もってという部分も大きい。
実際には上位の冒険者の中で勇者に届くのではないか、というくらいの実力。勇者見習いというところ。
この年齢――四十を過ぎて、勇者見習いという肩書も恥ずかしい。
大抵の勇者、英雄と呼ばれる人間は、若い頃からその際立つ資質を発揮している。
中年も過ぎてから勇者になるような者は、遅咲きのマダラスミレなどと言われる。
秋に咲く花だが、時期が遅くなれば冬になり見る者もいない。
また、まだら模様の花弁が、長い冒険者生活で傷の残る顔などを揶揄しているとも。あまり良い意味ではない。
卑下しても恨んでも仕方がない。ライムンドは今の自分の持つ資質で勝負をするだけ。
コロンバとの相性が悪くないことで侵攻作戦の指揮を任された。
兵士たちの高い支持と確かな力を持つコロンバ。彼女にうまく働いてもらう為、あまり多くの口出しをしていない。
コロンバだけでは不安な部分もあるが、グリゼルダが管理していればそうそう悪手になる心配もない。
とはいえ、責任者はライムンドだ。
不測の事態が起きた場合には自分の裁量で行動すると、コロンバやグリゼルダにも認めさせていた。
就寝中だったので、初動は遅れた。
だがそれも悪いことばかりとは言えない。
仮住まいとしていた建物を出て異変に気が付く。
地面が水浸しになっていたのは、二日ほど続いた雨のせいばかりではないだろう。
春も中頃だというのに氷が張り始め、道が滑りやすくなっている。
異常事態で、この異常事態はどう考えても影陋族の手口に違いない。
影陋族が何を仕掛けて来たのか、この時点では判断がつかない。
だが、対策は打てる。
ライムンドは駆けて来た二人の供と、急ぎ日差し塔に向かった。
日差し塔は背の高い建物だ。
町の中央側にあるので、外に対する見張り台としての用途ではない。
何かあった時に誰もがコロンバとグリゼルダを呼べるよう、目立つ場所に彼女らは寝泊まりしていた。
他の理由もあるが。
広い吹き抜けのような一階部分から、壁伝いに螺旋階段で登ればいくつかの部屋があり、その上は日差し塔の球を磨いたりする為の点検口。
部屋の一つはコロンバたちが寝るように整えていた。
別の部屋には、捕虜が一匹。
ライムンドも興味がないこともないが、とりあえずコロンバから取り上げるほどの気もなく任せていた捕虜。
影陋族が氷乙女と呼ぶ、連中の間での英雄級の戦士が。
わざわざ作らせ持ってきた専用の拘束具で捕らえているのだから、コロンバはかなり執心のようだった。
両腕両足を大きく広げ、裏表両面に人間二人を拘束できるようにしていたが。残念ながら捕えられたのは一匹だけ。
強度については、制作時にコロンバ自らが試したと聞いている。
「っ!?」
階段を駆け上がろうとしたところで足が止まった。
「……誰だ?」
少し穏やかに訊ねてしまったのも仕方がない。
ライムンド達よりも先に日差し塔に入り、階段に足を一歩かけていた少女。
銀色の糸のような髪が、しゃらりと音を立てた気がした。
わずかに差し込む朝日がその姿を照らすと、薄い色素の肌がきらきらと輝くように。
およそ人間とは思えないような美しさ。
「影陋族、なのか?」
「……そうですね」
素直に、ライムンドの質問に答えて階段から足を離す。
町に住む影陋族にこんな娘がいたのだろうか。
影陋族の外見的特徴とは大きく異なる。
なのに影陋族かと訪ねてしまったのは人間に見えなかったからで、相手からは肯定の返答があった。
それならそうなのだろう。
わざわざ嘘をつく必要もない。白い首には呪枷もないから、町で軟禁していた中にいたのだろう。
一応、家族を別々の建物に軟禁するよう住民全員を表に出させたはずだが、どこかに隠れていたのかもしれない。
これだけの美しさなら、誰かしらが己の物にしようとしたはず。
案外、ライムンドに隠匿していた者がいたとしてもおかしくない。その方が納得できる。
「ここで何をしている?」
とりあえずの疑問を飲み込み、再度訊ねた。
落ち着いている場合ではないのだが、たった一匹で逆らうような素振りもない。
少し言葉を交わす程度ならいいだろう。
あまりに落ち着いた雰囲気の少女に、ライムンドが取り乱す方が恥ずかしいような気がしたこともある。
影陋族が何をしたところで、コロンバやグリゼルダを崩せるはずもない。
この町で現状最も上の立場にある自分は、鷹揚に構えていた方が周りも安心するだろう。
そんな気持ちもあった。
「オルガーラ様のお世話をと申し付かったので」
捕虜の世話係だったか。
美しさのあまりに飲まれて、やや張りつめていた気持ちが緩む。
理解出来ないと思ったものが、納得を見ることで気が安らぐ。
そういう理由か、と。
「ならば不要だ、下が……ここで待っていろ」
どこかに行けと言いかけて、惜しい気がした。
今まで見たどんな女よりも美しい少女。
影陋族とはいえ、これはかなりの価値がある。最高級の美術品のようだ。
どうせ影陋族。何をしてもいいのだし、ましてこの町は今はライムンドの支配下にある。ならばこれも。
「お前たち、この女を見張って置け」
必要ないかもしれないが、不安だったのだ。誰かがこれを持ち逃げしてしまうのではないかと。
信頼できる部下に確保させて、自分は本来の役割に向かう。
この上にいる捕虜を――
「はっ!」
部下たちも少女に魅入られたのか、素直にその指示を受けて姿勢を正した。
この中で危険なことがあるはずもなく、上に行き戻ってくるだけの上官を待つだけのこと。
その時間だけでも目の楽しみになる。
敵意は見えなかった。
影陋族なら大抵、人間に対しての嫌悪を隠し切れるものではないはずだと、ライムンドは警戒すべきだったろう。
戦う気構えだとか悲壮な覚悟などなく、ただ人間の言葉に素直に従う姿。
通り過ぎるライムンドに対して道を譲るのを確認して、その横を通り過ぎる。
影陋族の女というのは良い匂いがする。
通り過ぎる時に銀色の少女が香らせた。
朝にはちょうどいいような爽やかな、花水木だろうか。そんな感じの。
そしてその中に混じる微かな――
「っ!」
外に漂う冷気よりもまだ冷たい、絡みつくような悪寒。
咄嗟に螺旋階段から離れて横に飛んだのは、本当にただの直感だ。
ライムンドの中にほんの少しだけ残っていた恐怖心がそうさせた。この美しすぎる少女が怖い、と。
「んおぉああぁぁっ!」
「うぼ、へ……」
「惜しかったですね」
先ほどとは違う、強烈な血の臭い。
部下の血と、その命のお陰でライムンドは助かった。
少女の両隣に立っていたはずの二人が、片方は下腹を切り裂かれ倒れ、もう一方は胸に深々と包丁を突き立てられて膝から崩れた。
先に彼らを攻撃した為に、ライムンドへの攻撃が一呼吸遅かった。その為に。
「お、お前ぇ!」
「あら、怖いですよ」
ライムンドとて幾度も死地を潜って来た。
確かに今ほどは気が緩んでいたが、危険な敵と認識すれば躊躇うことはない。
部下たちの様を確認すると同時に、少女へと飛びかかった。
武器を抜く間を惜しんだので掴みかかる形だったが、ライムンドが本気で握れば少女の頭など簡単に潰せる。
ひらりと躱されてしまったが、そこで反転して剣を抜いた。
屋内戦闘の為のショートソード。ライムンドの槍は部下の一人が持っていたので床に転がっているが、今は必要ない。
「敵だったか!」
「元よりそうですよね」
何を当たり前のことを、と。本当にその通りだが。
少女の手には一本の包丁。
もう一本は部下の胸に刺さったまま。
包丁は短い。
ショートソードなどの武器よりも遥かに小さく、その身の内に隠していたのだろう。
先に香った血の臭いは、既に他の兵士を刺した時の残り香だったか。
「そんな獲物で相手など!」
撃ち込む。
隠すのには便利だったかもしれないが、正面から斬り合うような武器ではない。
そもそも武器ではないが。
「っく!」
「舐めるな!」
ライムンドは確かに勇者英雄と呼ばれるまでの実力者ではないが、それに次ぐだけの力はある。
そして、既に戦地に立って三十年。熟練の技もあるのだ。
連撃、強撃。フェイントを織り交ぜて打ち込むライムンドの剣を、少女は何とかその包丁一本で捌く。
しかし実力ではライムンドが上回っていた。
防戦一方になりながら、何とか凌ぐだけで精一杯といった風に。
「おおぉ!」
「う、くぅ」
美しい顔が歪む。
哀れには思う。正直に言えば勿体ないとも思う。
だが容赦はしない。目先の欲求に負けて道を踏み外す者のなんと多いことか。
戦場でも日常でも、政治の場でも。
ライムンドはそういった他人を多く見て来た。
可愛い女だからと気を許せば、死ぬのは自分だ。
「地獄で後悔するんだな!」
影陋族用の地獄があるのならな、と。
頭をかすめた考えもライムンドの剣を緩めさせることはなかった。
「これで!」
次の一撃、ではない。
そう思わせた強撃は偽装で、そこから速さだけを重視して包丁を持つ手を掠めさせる。
強撃からの変化。薄く刃が肌を走り、焦ったところに向けてとどめを刺す。
既に少女の動きを読み切ったライムンドの組み立ては、少女の対応力を完璧に上回っていた。
「くぁ」
声を上げて、膝から崩れる。
いや、膝から力が抜け、床に転がる。それから声を上げた。
ライムンドの視界が、転がった。
「え……あ?」
ぼぐんと、鈍い音を立てた。
ライムンドの眉間にめり込んだ少女の足。それが視認できた最後の映像。
「ぶぁっ」
目を、蹴り潰された。
美しい足の甲だった。
「な……なぶ、なんで……」
「思ったより部屋が広かったですね」
やれやれ、と。
少女の声はまだ耳に届く。
止めの一撃のタイミングでライムンドの足が崩れた。
くにゃりと力を失い、体が言うことを利かなくなる。
「本当に危なかったですけど、間に合いました」
間に合った。何が。
「ま、ほう……つか……」
使えるはずがない。
使えないはずなのだ。魔法を使う条件に、刃物を手にしていてはいけないというものがある。
魔法は物語だと言う。
物語は紡ぐもの。刃物は断つもの。
魔術杖は刃を持たず、出来るだけ丸いものが好まれる。うねる木の根のような形状や、絡み合う蛇のような。
今の今までこの少女は包丁を手に戦っていたではないか。
少なくとも魔法を使えるようなタイミングはなかった。
「じゅ、じゅじゅ……つ、し……?」
「何でも構いませんが、持っていらっしゃるんですよね?」
痛みすら感じなくなってきた頭の中に、鈴を転がすような声が響く。
「牢の鍵、みたいなものを」
ちょうど良かったです、などと。
「それ、くださいますか?」
ライムンドは準備をしてきていた。
もし影陋族が何か反抗を企てるようであれば、氷乙女を前面に出してそれらを制圧すると。
そうコロンバたちにも言ってあった。了解があった。
だから準備している。氷乙女を従わせる為の呪枷と、その拘束具の鍵を。
外に攻め寄せているのも影陋族だと言うのなら、この氷乙女をぶつけてやればいい。
敵の数も削れるし、心も削り殺せるだろう。
だから。なのに。
「本当に、ちょうど良かったですね。あなたは」
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