第104話 春の訪れ(挿絵)
イラスト:いなり様 データサイズ108Kb
※ ※ ※
「飽きないものですわね、貴女も」
一冬を越えたとしても変わらない。
マルセナへの想い。
呪枷のことなど関係がない。イリアの想いが色褪せることなどなく、むしろより色濃くして。
「マルセナは……私のこと、飽きて……?」
他の玩具が手に入ったから、もう興味ないとか。いらないとか。
そんなことを言わないで。何でもするから。
「あら、わたくしってばそんな風に思われているのです?」
「違うの! そうじゃなくて……捨てないで」
「命令なのかしら?」
くすくすと笑うマルセナに擦り寄り、くぅんと鳴く。
「私には、マルセナだけ」
「あら、クロエに可愛がられて良い声で鳴いていたのに」
「やめて」
思い出したくもない。
戯れに意地悪な命令をされた時のことを言われて、むっと口を尖らせる。
「わたくし、イリアのあんな姿も可愛いと思うのですけれど」
「マルセナが喜んでくれるのは、いいけど……でも、嫌なの」
「では私がクロエと睦むのは?」
「もっとイヤ」
ふふっと息を漏らして嫣然と笑う。
「わかっていますけれど、でもやめられませんの」
「……」
不満だけれど、知っている。
イリアの好き嫌いで変えられることではないと、これまでの時間でわかった。
マルセナには、何か普通ではない力が備わっている。
力というより特性と言う方が正しい。
マルセナの体液に交わると、人間を魔物のように狩ることが出来る。
ただ殺すというのではない。殺した人間から無色のエネルギーを得ることが可能になった。
本来ならそれは、魔物を狩ることで力を得る女神レセナの恩寵。
その対象が人間にまで及ぶなど聞いたことがない。
女神の子は、まさに新たな女神だ。
クロエもイリアも、密偵だったノエミにしても、マルセナの口づけによりそんな特性を備えるようになった。
港町マステス襲撃も経て、明らかに以前よりも力が上がっている。
また、冬の間に魔物の駆除などもしていたら、魔物から得られる力も以前より増しているようで、冒険者をやっていた頃より強くなった実感があった。
口づけを。
「あんな……奴隷にも」
ぎり、と。噛み締めた。
思い出せば腹立たしい。
苛立つイリアの首に、マルセナの柔らかい指が触れる。
「それを貴女が言いますの、イリア?」
奴隷の呪枷。
イリアの首に巻かれた黒い呪枷は、紛れもない奴隷の証。
「これはイリアだけ、でしたわね」
マルセナだけの、忠実な奴隷。
「呪枷を用意するには材料が必要ですから。ガヌーザが無償でやってくれるとはいえ、材料が湧いて出るわけでもありませんし」
マルセナの下僕の証は、いまだイリアだけのもの。
他の隷属する者は、首に直接呪墨で刻まれている。
クロエだけはそれなしで仕えることを許されていると、彼女なりの誇りになっているようだが。
呪術関係の材料と言うのは、やや特殊なものが多い。あまり真っ当なルートでは手に入りにくい物が。
以前にガヌーザが長期間雇われていたというレカンの町には、その拠点に材料の予備も多くあったというけれど。
残念ながらレカンの町はこのトゴールトと敵対関係にある。
この町で手に入る呪術の材料は手に入れたが、それも有限だった。
本来なら高額の代価を要求される呪術による隷従。今は金銭の問題ではなく、材料の不足で白い呪枷――ガヌーザの言う色なしの呪環も作れない。
「いくらかは命令を理解して使える奴隷もほしいとクロエも言いますし。他の人間なんて信用などできませんもの」
マルセナの奴隷としてマルセナの恩寵を授かった奴隷。マルセナの口からクロエの指示に従えと命ずれば、その通りにする。
「わかってる」
必要なことだからそれらに口づけをしたのだと、わかってはいる。
奴隷にもマルセナの恩寵を与えれば用途が広がる。たとえ捨て駒にするにしても。
「そういう顔には見えませんわ」
「だって……」
むう、と再び口を尖らせた。
自分より背の低いマルセナを、上目遣いに見つめて。
「……可愛い女の子を選んでた、でしょ」
「あら、男の方がよろしかった?」
「違うけど」
不安に思っただけ。
イリアよりも気に入った者がいれば捨てられてしまうかもしれないと。
「どうせするのなら、可愛い方がわたくしも楽しいですもの」
「……私には」
不満に思っている。
マルセナは、どうしてなのかイリアにだけは口づけをくれない。
他の者にも、その恩寵を授ける時にするだけではあるけれど、それでもイリアにはくれない。
「……」
「わたくしの愛を疑いますか?」
「違う!」
イリアの不満を見透かして訊ねるマルセナに、強く首を振る。
「違う、けど。だって……キスしたいのに」
「なんだかそういうのは、わたくしの愛し方ではないように思うのですわ」
マルセナの愛し方。
決して真っ直ぐではない。間違いなく歪んでいるけれど、マルセナはイリアを愛してくれているのだと思う。
約束通りに。
イリアの求める形と、マルセナが与えてくれるそれが異なるだけ。
どうもイリアが泣きながらマルセナに縋る姿を見て、狂おしいほど甘い愛情を覚えるらしい。
性癖なのだとしたら仕方がない。
クロエやノエミを使ってイリアを責めることもあるし、イリアの目の前で見せつけるように彼女らに褒美を与えることも。
嘆き伏せていると、そんなイリアには優しくしてくれるのだ。口づけはないけれど、それ以外を隅々まで丹念に味わうように。
その甘さに溶けてしまいそうで、愛されているのだと確かに感じる。
マルセナが歪んだ愛情表現をするのなら、それを受け入れるのもイリアに求められることなのだろう。身を委ねてしまえばこういう幸せもある。
「普通がよろしいのかしら?」
「ううん」
頷かない。普通がどうとか、そういうことではない。
「マルセナが、マルセナの好きなように私を愛してくれるなら、それでいい。それがいいの」
不満はあるけれど、それ以上にマルセナの思う通りにしてほしい。イリアに対してマルセナが我慢や遠慮をする必要はない。
「だから、捨てないで」
「ええ、イリア」
マルセナの牙がイリアの肌に甘く食い込み、イリアはそのわずかな痛みに心地よく体を震わせた。
「クロエ様が戻られました」
残念ながら、甘い時間はお終いだ。
ノエミの報告を煩わしく感じるものの、彼女にしても邪魔をしたくてやっているわけではない。
必要な仕事だからそうしている。その程度は割り切ろう。
「あら、残念」
久々のイリアとの二人だけの時間の終わりに、嘘か本気かそんな言葉を残す。
嘘ではない。マルセナは嘘など言わないのだから、これは本当にそう思ったのか。嬉しい。
「ダロスが厩舎に戻りましたので、すぐに来られるかと」
ノエミが言い終わらないうちに、廊下を響かせる速い歩調の足音が聞こえて来た。
早足ということは、あまりいい話ではなさそうだ。
「マルセナ様!」
一応は町の責任者の形でピュロケスという男もいるのだが、そんなものはまるで無視して真っ先にこちらに来た。
今はもう体裁を繕う必要もないか。
「敵です。エトセン騎士団がレカンに」
視界に入った薄着のイリアを殊更に無視したのは、それが気になったからだ。見せつける意図があったのだからもちろんそれでいい。
良くないのは、その報告の方。
「千を超える正騎士団と見えました。一般兵の数は把握できませんでした」
イリアは軍人ではないので、詳しいところはわからない。
ただ、ルラバダール王国の主要都市エトセンには、カナンラダ大陸最強と言われるエトセン騎士団があることは知っている。
千を超える最低でも中位以上の冒険者級の戦闘集団。
部隊長は上位の冒険者や勇者級の手練れを揃える、大陸最大の武力。
最悪の敵が、万全の備えでもって、冬の明けと共にこちらへと向かってきたのだと。
「およそエトセンの……ルラバダールの主力全軍です」
「……」
マルセナの支配が完全となったトゴールトにとって、絶望的な苦境だった。
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