第103話 心、移り変わり
皆が色々な準備をしているというのに、何をしているのだろうか。
ふと疑問に思う。
いや、逃げて行った人間どもが戻ってくる可能性もあるから、見張りというのも必要な仕事だけれど。
鋭い視線で南を睨む大好きな横顔を見ながら、疑問に思う。
――どうしてニーレちゃんはわたしの手を離さないんだろ。
手に平に温もりが伝わってくる。もちろん嫌いじゃない。
ユウラは気配に鋭敏なところもあるから、見張りにも不向きではない。人選として間違っているというわけではないが。
でも、砦の近くに人間が潜んでいないか見回るのに、手を握っているのはおかしいのではないか。
口に出して離れてしまったら寂しいから言わない。だけど。
「近くに気配はない、かな」
「うん」
少しだけ息を吐き、凛々しい表情が緩んだ。
かなり前からわかっていたと思う。ただ何か、言葉を交わすまでの気持ちの整理をしていたようで。
「……ユウラ、疲れていない?」
「ニーレちゃんの方が疲れてるでしょ」
そんなに、気を張って。
そんな風に気を遣って。
「平気だ」
「そんなに心配しなくていいんだよ、ニーレちゃん」
敵のことをではなくて、ユウラのことを。
心配させるように仕向けた自覚はあるけれど、最近のニーレは特に過敏だ。ユウラを壊れ物のように扱う。
触れたら砕けてしまう氷の花。そんな扱い。
「……」
触れ合っている手の温もりが、なんだか遠い記憶のように不確かに感じられる。
しっかりと握り締めているのに、そこにある熱は座っていた椅子に残っているだけのように。
「あ、ニーレちゃ――」
「ぅん、む……」
不安が顔に出ていたのだろうか。不意にニーレの顔が寄せられ、口をふさがれた。
優しく、強く。繋いだ手だけで足りないのならと、ニーレの気持ちを直接に伝えてくる。
ここにいる。
愛している。
ユウラは愛されているのだと、確かに。
ニーレは昔からそうだ。自分を押し殺してトワやユウラを守ろうとしてくれていた。
トワを守りたいというついでに、だったのかもしれない。
出来るだけトワが過酷な扱いをされないように、出来る範囲で自分の身を盾として。
ユウラは、そのトワの隣にいることが多かったから、ニーレに庇われているという形が多かった。
トワのついで。
それでもいい。ニーレの献身に救われることもあったし、そんなニーレが好きだった。
奴隷の身であれば、ユウラの好き嫌いなどなににもならない。
だから、ただ、好きだった。
解放されて、自由になってみて。
自分の意思のままに物が言えるようになっても、言えなかった。
ニーレの瞳に映っているのはトワのことばかり。儚くて美しい銀色の娘。
特に目立ったところもなく、要領も良いとは言えないユウラのことは、二の次に。
改めてそう認識して、辛かった。奴隷の時には思いもしなかったけれど、大好きなニーレが自分を見てくれないことが悔しくて、悲しくて。
トワに相談した。
最初は、善い子にしていればいつかは伝わるだろうと。
いつかって、いつ?
トワはニーレに対して恋愛感情を抱いていない。そのことは前々から気付いていた。
ユウラが心配することはない。
そう言われたけれど、不満は募る。言いたくないけれど、憎悪が積もる。
そんな悪感情を、姉妹であり友であるはずのトワに感じてしまう自分が嫌だった。
欲しいものを手に入れるのに、何を犠牲にするか。
改めてトワと話した時に、ユウラは迷わず言った。
何でも。
何であろうとも、欲しいものを手に出来るのなら。
そうして、手に入れた。
この温もりを。
この熱を。
「ん、はぁ……ニーレちゃん、お仕事中だよ」
「……ごめん」
堪えられなかったと言うように謝る。
耐えられなかったと言うように。
ニーレの口付けは、愛情に根差してではない。
怖れて、怯えて。
ユウラがまた何を言い出すか、何を仕出かすかわからないと、その恐怖に囚われて口づけをする。
蓋をするように。
封をするように。
「……もうちょっと、しよ」
それでもいい。何を代償にしてでも手に入れたいと思ったのだから。
ニーレの温もりを感じられて、その瞳を独占できるのならそれでいい。
「はぅ、んっくぅ……」
「ん、ユウラ」
やや低音の声で名前を呼ばれる。好きな声だ。
大好きで、ずっと求めていたものを手に入れた。
手に入れたはず。なのに。
なのにどうしてなのだろう。
確かに欲しかったはずなのに。
その代償にユウラは何を失ったのだろうか。
耳元で低く響く声は、ユウラの胸の中のなくなってしまった場所を探すように、とても遠くに聞こえた。
※ ※ ※
「歌声の魔法ですが」
砦の物資で使えそうな物を荷車で運びながら溜腑峠を北上する。砦には物資運搬の荷車もあったのでそれも徴収している。
人間どもが魔物を駆除した為に、ぬかるみであること以外にさほど問題はない。
荷車の車輪が幅広なのは、こうした沼地を渡ることを想定してのことだったのか。
この辺りで待ち伏せを仕掛けたのだと思い、ふと気になっていたことを訊ねてみた。
「あれは他の者には使えませんでした。どういう系統だと思いますか?」
ユウラの使う歌声の魔法について、魔法使いとしての知見なら最も広いだろうメメトハの意見を求める。
歌声を聞くものの心を励まし、折れかけた戦意を取り戻したこと。
また、歌声の聞こえる範囲の仲間の知覚を、ある程度共有させることが出来るというのも。
他の魔法とは明らかに効果の及ぼし方が違う。
「あれは共感の魔法かの」
メメトハは既に答えを持っていたらしい。
ルゥナの質問に対してあっさりと答えてから、ふむと頷く。
「妾も気になっておったのじゃ」
「共感……氷巫女の能力ですか」
メメトハのような一部の清廊族に伝わる特殊な能力。
姉神の魔法、真なる清廊の魔法を継ぎ足すように使っていたのだとか、そんな話を聞いた。
他者の能力との共感。
言われてみれば納得だ。
メメトハもクジャでの戦いの中で、アヴィとの共感魔法という形で天を貫く雷を使っていた。意図してやったわけではなく、もう一度は出来なかったけれど。
「では、メメトハは使えるのですか?」
「意地悪を言うでない。あれはその、どうも性分にも左右されるようじゃからな」
既に試していたらしい。自分ではうまく使えなくて、だからルゥナにも言わなかった。
聞いたところで使えないのなら仕方がないのだから、言わなかったことを責めるつもりはないけれど。
「なぜユウラが、共感の魔法を?」
「それこそ妾が聞きたいくらいじゃが……南部にも、そういう者がおったのかもしれん」
「まあ、そうですね」
人間に支配される前には南部にも清廊族の村があった。似たような力を持つ誰かがいたとしても不思議はない。
そういう血がユウラに流れていて、皆を守りたいという彼女の気持ちに応えて能力が発現したのか。
「アヴィといい、エシュメノといい。おぬしらは本当に変わった集まりじゃ」
メメトハの視線が先を行くセサーカを捕え、頬が赤らむ。
「?」
変わった集団。
セサーカはメメトハに一杯食わせたこともあったから、それを思い出して恥ずかしく感じたのだろう。
「気にしなくても、セサーカはわだかまりなど感じていないかと」
「わかっておるわ! な、なにも、何も思うところなどないっ」
急に声を荒げたメメトハに周囲の皆が驚く。
かなり気にしているようで、ルゥナは悪いことを言ってしまった。
思った以上に負けず嫌いな性分なのだろう。
「ごめんなさい、メメトハ。あの……」
「いや、構わん。そういう意味ではなく、つまり……おぬしらは、色々と変わっておると」
セサーカが振り向いて、にこりと笑って頷く。
「……」
メメトハが赤くなり、俯いた。
「……何か、ありましたか? その、問題が?」
「問題などない、のじゃ」
身を守るようにぎゅっと魔術杖を抱え込むメメトハは、何かあったという態度が明らかなのだけれど。
「そう、ですか」
決して悪感情ではなさそうだ。だとすれば、今ここで掘り返す必要はない。
ルゥナは気にしないことにした。
何かあったのかというのであれば、前方にもっと気になる姿もある。
決して大柄ではないミアデに背負われるティアッテの姿が。
力で言えば問題はない。ミアデの今の力であれば、誰かを背負っていたところで大きな負担ではないだろう。
問題は、そのティアッテの様子。
なりふり構わずというわけでもないにしても、背負われることに甘んじているようでもある。
見るからに明らかな負傷をしているのだから、誰が見てもそれ自体は理解するはず。
戦場で戦斧を振り回す彼女とは、かなり印象が違うというだけで。
甘えているようで。
ぎゅっと、幼子が親にしがみつくように、強くミアデの背中に張り付いていた。
そうした方が安定してミアデは歩きやすいのかも。
「……心を変えてしまうのも仕方があるまい」
「そうですね」
ひどく悲惨な目に遭って性格が変わってしまうこともある。
アヴィは、どうだったろうか。
酷い過去を背負い、やはり彼女もその性格を大きく歪めてしまっている。
別の何かでアヴィの心を変えることは出来ないのだろうか。取り戻すことは出来ないだろうか。
暗い方向に変わってしまったものを、明るい方へ。幸せな陽だまりに向かうように。
ルゥナには、アヴィを変えることは出来ないのだろうか。
「サジュのことじゃが」
メメトハが話題を変えた。
「地形が違って今回のような奇策は通じぬ。敵の戦力はわからんが、今回より易いとは思えんぞ」
「ええ」
サジュの周辺は見通しが良い。
溜腑峠のような沼地もない。敵に飛竜騎士のような戦力がなくとも、この砦を落とした時のように奇襲が成功するとは思えない。
正攻法で、ということになれば戦力差が如実に出てしまう。
それを打ち破ることが可能だったろうティアッテは、頼ることが出来ない。
今回、砦を奇襲して混乱した人間どもを多く殺すことが出来た。
それでもこちらの戦士にも犠牲はあった。助け出した捕虜を加えて補ってはいるけれど。
数を比べるのなら確実に劣る。倍という数では収まらないほど。
いかに個の戦闘力では勝っても、数倍の敵に飲まれてしまえば勝ち目などない。
アヴィのような強者がいるにしても、敵にはそれを上回るだろう英雄がいる。女傑コロンバ。
「……」
打つ手というのなら、溜腑峠の方が多かった。
そもそもサジュを攻める予定などなかったのだ。そこにいるはずの戦士たちと合流して、その上での南下作戦の予定だったのに。
「泣き言を言っていても仕方がありませんから」
ユウラの歌声の魔法も、今回はあまり有効にはならない。
このような戦場であればラッケルタやユキリンの活躍が望まれるが、それも一頭ずつでは限界がある。
「長引かせるわけにはいかぬぞ」
「そうですね」
反撃はもちろん予想されているだろうが、アヴィを含めた今の戦力については想定されていないはず。虚を突くのであれば時間はかけられない。
「少数なら、サジュ内部に密かに入る道もあるようですが……」
数で劣るのなら、密かに中から攪乱をという企みもしたい。
けれどサジュの町は広く、多くの清廊族が囚われているはずだ。
内部工作などで長引けば、それらが盾に使われるかもしれない。見せしめに殺すことも。
悪ければ、ミアデが言っていたように、彼らに呪枷で命じてこちらを襲わせるという手段もあり得る。
正直なところ、八方塞がりだ。
一番まともに思えるのが正面からの決戦など、皆を率いる立場の自分が考えることではない。思考放棄でしかない。
戦力で明確に勝るのならともかく、そうでない以上は。
「……」
「ルゥナ様、いいかい?」
声を掛けたのはニーレだった。隣にはユウラの姿もある。
さすがに今は手を繋いではいないが、最近は彼女らの距離が近いことを知っている。
ニーレの性分から、特定の誰かと親密な姿を他者に見せるとは思わなかったのだが、その辺はルゥナの見立て違いだったのだろう。
こういうのも、環境の変化が性格を変えたのかもしれない。甘く。
「どうしました?」
「たぶんルゥナ様は勘違いをしているって、ユウラが」
「ちょと、ニーレちゃんってば……もう」
「?」
何の話なのか。
やや慌てるユウラが愛想笑いを浮かべ、ルゥナはメメトハと顔を合わせて首を傾けた。
「呪術を使う人間は――」
※ ※ ※