第8話 戦いの前 (挿絵)
黒涎山という山がある。――あった。
魔境と呼ばれる魔物の巣窟で、神話の時代に女神と魔神が戦ったと清廊族に伝わる場所。
カナンラダ大陸中央からやや東南に位置し、その北のニアミカルム山脈麓から続く森林の中に聳え立っていた。
その黒涎山が崩れ去ったのは二十日ほど前のことになる。
大陸西部で名を上げたシフィークという若者がいた。
二十代半ばという年齢で、英雄に届くのではないかと言われる実力を囁かれた彼は、カナンラダ大陸の若き勇者と呼ばれるトップクラスの冒険者である。
そんな彼が、西部から南部に移動したのは、季節が冬だったからなのかもしれない。
西部よりは南部の方が暖かい。
彼は南部を渡り歩き、春先にレカンの町の近くの村から黒涎山に向かったという。
闘僧侶ラザム。強襲斥候イリア。天才魔法使いマルセナ。
勇者シフィークを含めた四人の冒険者パーティで。
そこに人として数えられない奴隷もいたという話は、特に誰も気に留めなかった。
その直後に崩れた山と彼らが無関係だったと考えるのも難しいが、さすがの勇者も山を一つ壊すなどという力はない。
彼らが黒涎山に向かったと知る者も、その後に周辺で発生した災厄により命を落としたり、それどころではなくなっていたりと。
勇者一行の消息は、人々の記憶から消えていくことになりつつあった。
「……う、ぼふっがはっ」
天高く槍のように突き出していた峰や内部の空洞が崩れただけなので、黒涎山を形作っていた岩塊がなくなったわけではない。
崩れた土砂と瓦礫の積み上がるそこから這い出す者があった。
泥まみれであちこちに傷を負い、服もぼろぼろの状態で地の底から這い出てくる者。
その瞳は血走り、怒りに濁ったまま。
「あ、の……クソ女……」
ぎりりと歯軋りしながら絞り出した後に、口の中の砂利をべっと吐き出す。
血も混じった唾を吐き捨て、日の光を仰ぐ。
何日かわからないほどの間、地中を這いずり、這い出してきた。
地上に降った雨が染み込んできた水を、泥と共に飲み命を繋いで。
当然、排泄物もそのまま垂れ流しだ。泥水のせいで腹も下して悲惨な状態だった。
その表情が負の感情に歪んでいなければ、額から鼻筋にかけて抉ったような傷痕がなければ、気の良い好青年という印象だっただろう。
「絶対に……絶対、殺す……」
恨む相手が誰であるのか、それが生きているのかどうか。
そういった状況を彼が理解していたのかどうかわからない。
ただとにかく、許さないという意志だけを言葉に詰め込んで吐き捨てた。
「必ず、僕が殺す……」
※ ※ ※
月明かりの下で、アヴィが手元を眺めている。
白く照らされた掌に、黒い小さな塊が二つ。
黒い小石に見えるそれは、アヴィの母である魔物が死の際に最後に残った欠片だった。
魔石とは違う。ただの石ころだと言われればそうとしか見えない。
それを見つめるアヴィの瞳は、優しさと、切なさと、消えない怒りが見え隠れしていた。
「……眠らないのですか?」
川沿いを南下しながらの森の中での野宿。
火を焚くと何かに見つかるかもしれないので、春のやや肌寒い気温を過ごさねばならない。
寒さに強い清廊族だと言っても、眠るときは少しは暖かい方がいい。
村から持ってきた毛布を広げてルゥナが声を掛けると、アヴィは手にしていた小石を黒布に包み、丹念に織り込んだ。
黒い欠片は、普段は彼女の首回りに、黒布の中に大切に包み込まれている。
落とさないようにちゃんとしまったことを確認すると、アヴィは上着を脱いだ。
彼女は眠るときに衣服を身に着けるのが嫌いらしい。
ルゥナにもそう求めるので、それについてはアヴィに倣っている。
肌と肌が触れ合い、温度を交換するひと時。
アヴィの体温と柔らかさを感じながら、一枚の毛布にくるまった。
「……ルゥナ」
「はい」
眠る前におやすみの口づけを。
アヴィのそれは挨拶代わりとしてはかなり入念で、無表情なのにその舌の動きは妙に情熱的で。
つい、ルゥナもそれに応えてしまう。
「ん……あ、むぁ……ふぁ、ぅ……」
アヴィの艶めかしい舌がルゥナを侵食する。
不安を埋める為の行為だとわかっているが、アヴィにそれが必要ならルゥナに否やはない。
ルゥナの舌をひとしきり堪能すると満足したのか、胸に顔を埋めてきた。
甘えん坊というか、アヴィの心はとても幼い。
精神的に成熟する機会もないまま、過酷な環境に置かれた。
そんな彼女を、粘液状の魔物が庇護し、文字通り彼女を包み込んで暮らしてきた。
だから、包み込まれることに慣れてしまっていて、それがないと不安を抑えきれない。
「おやすみなさい、アヴィ」
「うん……」
ルゥナの体と毛布に包まれて漏らす吐息は、少しルゥナにとってはくすぐったいのだけれど、とても穏やかだった。
※ ※ ※
「……んむ、ぅ……セサーカ、ちょ……」
少し離れた場所で、息を潜める二人。
木を背にしたミアデの唇にセサーカの吐息がかかる。
ミアデの唇と無遠慮に味わった後に、戸惑うような言葉を受けて。
「……最初は、ミアデからだったじゃないですか」
「そうだけど……ひぅっ!? んんぅっ……」
責めるような発言に口籠ったミアデに、再びセサーカのねっとりとした責めが襲い掛かった。
少し抵抗しようと力が入りかけたミアデの体が、諦めたようにくたりと抜けてしまう。
セサーカの手がミアデの臍の辺りをなぞると、ミアデの手がセサーカの背中に回されて、そのまま身を任せるように寄りかかった。
「ん、っと……」
そのまま尻から地面に倒れるセサーカと重なるミアデ。
胸に晒し帯とショートパンツスタイルのミアデと違って、セサーカはゆったりとした服を着ている。
締め上げているからという理由とは別に、セサーカの方が大きく柔らかい。胸の部分が。
「アヴィ様たちを見てたら、つい……」
折り重なって見つめ合ってから、照れ隠しのようにセサーカが言った。
「う、ん……わかるけど」
清廊族は夜目が利く。
見ていたら、つい見入ってしまって、見惚れてしまった。
彼女らは綺麗だ。
綺麗で神秘的で、とても強い。
憧れるし、恋焦がれてしまう。
「わかるけど……だってセサーカ……」
「?」
ミアデの口が不満げに結ばれて、セサーカは言葉を待つ。
言い淀んだミアデだったが、今度はミアデがセサーカを責めるような目で軽く睨んだ。
「だって、セサーカはアヴィ様のことが……好きなんじゃん」
「……?」
それはもちろんのことだったので、否定はしない。それを言うならミアデだってそうだろうと。
「あたしじゃなくて……」
「え……あ、あぁ……」
そこまで言われて、セサーカが安堵の混じった吐息と、少し艶のある笑みを浮かべた。
ミアデの不満を聞いて、お姉さんのような優しい声で。
「私、ミアデのことが好きですよ」
「……」
「本当です。信じて下さい」
「……本当に?」
「ええ」
可愛いですから、という言葉と共に口づけをすると、ミアデは結んでいた唇を解いてそれを受け入れる。
「……でも、アヴィ様のことも好きでしょ?」
「当然です。それはミアデだって同じじゃないですか?」
「……うん」
勝気な昼間と違って、今夜のミアデは少し弱々しく映る。
自分が、アヴィの代わりに求められていると思って不安だったのか。
そういう姿も可愛いと思ってしまうのは、セサーカのどこか意地悪な性分かもしれない。
「ルゥナ様は……」
ミアデは言葉を選ぶように少し考えてから、しかし適切な言葉が浮かばなかったのかそのまま続ける。
「ちょっと、怖い。よね」
苦手意識というのか、ミアデの中では怖いお姉さんの分類になっているらしい。
それは当然セサーカにもわかるし、ルゥナの態度がそう感じさせているのも事実だ。
(わざとそうして距離を作っているんだと思うけど)
時折、必要以上に冷たく突き放すような言い方をするルゥナの心中がどういうものなのか。
まだ少し不安げなミアデの様子に、セサーカは噛みついた。
「あっ、うぅっ……」
耳を甘く噛んだ。
びくっと体を強張らせたミアデ。
彼女の髪は短くて、その耳たぶがよく見えてしまうので、つい。
「可愛いです、ミアデ」
「ふぁ、うぅ……もう、セサーカのばか……」
耳元で囁かれたミアデが肩を震わせ、甘えるような声でセサーカを責めた。
「ばかぁ……」
もう一度軽く頬に唇の熱を残してから、首を振る。
「ルゥナ様は、本当に心からアヴィ様を愛していらっしゃるだけですよ」
「そう……だろうけど」
でも怖いものは怖い。そういうミアデの気持ちもわかるのだが。
「厳しいことや冷たいことを言わなければならない。時に恨まれることも」
「……」
「恨みを買うなら、アヴィ様ではなくて自分に、と。ルゥナ様はそう思っているんだと」
そう理解していれば、彼女の言動が理に適っていると思える。
ルゥナにとってアヴィは特別に大事で、それ以外のものは全て二の次だと。
自分自身が他にどう思われるかさえ、二の次のこととして割り切って。
「戦い、ですから」
「……」
「いつもうまくいくわけじゃない。非情なこともあるし、選ばないといけないことも出てくる」
「そう……だね」
「ルゥナ様は、それを自分の役割にしているだけです。たぶん、あの方は」
その優しさの全てを、アヴィに捧げている。
だから、他の者には冷たく映るだけだ。
本当ならその優しさを、わずかにでも自分に向けてあげてもいいだろうに。
自分に甘えを許さない姿勢を貫くことで、アヴィを守ろうとしている。
(……まあ、その分のご褒美はあるみたいですけど)
滅私の気構えでいるルゥナにだから、アヴィはその身を委ねるのか。
知り合って日が浅いことや力が足りないことを除いても、彼女らの間に入るにはそれだけの覚悟も必要だと。
「私は、ミアデにとってのルゥナ様になれたらいいです」
「な……んで?」
意味がわからなかったのか、ミアデが困惑のまま少し涙目になるのを見て、意地悪な気持ちが湧き上がる。
わざわざ苦手な相手になりたがる、と。
「なんでも、です」
ミアデの胸の晒し帯の中に手を差し込んでみたら、可愛い悲鳴が聞かせてもらえた。
※ ※ ※
イラスト:いなり様
※ ※ ※
レカンの町。
数万人が暮らす、この地域では大きめの都市。
ここはルラバダール王国の影響下の町で、レカンの南にある港町もそうだった。
川沿いに北から、黒涎山、レカン、港町ゴディ。
それらよりも西に、ルラバダール王国がカナンラダに置く最大の都市があった。エトセンと言う。
レカンの町には三千人の兵士がいるということは前述した。
エトセンは、町の規模はレカンの三倍ほどだが、一般の兵士は同じほどしかいない。
兵士とは別に、戦闘に特化した集団が別にあった。
エトセン騎士団。
カナンラダ大陸では最大の武力を誇る。戦闘を専業とする集団で、青と赤の二色に色分けされた二本柱の騎士団。
その中には冒険者上がりの者もいるし、代々の家柄という者もいる。
雑多な集まりの為、ロッザロンド大陸のルラバダール本国では、二等騎士団などと呼ばれることも。
騎士とは言うより戦士団という方が実態に合っているが、とにかく呼び名はエトセン騎士団。
重視されるのは強さ。
家柄が良くとも、弱い者は所属できない。
エトセン騎士団は、赤青合わせて千五百人から成る戦士たちの集まりだった。
「っとに、どうなってんだかなぁ」
レカンの町でぼやく男。
年齢は三十代前半で、その体躯は成人男性の平均と比べて大きい。極端にではないが。
「隊長が来るって聞いて逃げ出したんじゃないですか?」
「そんな可愛げのある奴だとは聞いてねえんだが」
答えた若い青年にぼやきつつ、頭を掻く。
「噂の若い勇者様ってやつを見てやろうかと思ってきたんだが、何が起きてんだか」
「それに振り回される僕を労わって下さいよ」
せっかくの休暇だったのにと口を尖らせる青年に、悪いな、と心にもない様子で口先だけで言って、遠くの空を見た。
北方。黒涎山があったという方角を。
「俺は洞窟探索は嫌いだからわからんが、何十日も潜るもんなのかね」
「崩落したんだったら死んだんじゃないですか?」
「そういうので死ぬかぁ?」
心から不思議そうに訊ねる上司に、青年は深く息を吐いた。
何を言っているのだろうか、この上司は。
洞窟探索が嫌いだと言っても、常識で考えてほしいと思うのだが。
常識が通用しないのは知っているけれど、多くの人々は常識の範囲内で生きているので。
「普通はね、死ぬんですよ。知りませんでしたか?」
「お前、隊長を馬鹿にしてるだろ。ツァリセ」
「尊敬していますよ。ビムベルク隊長の非常識さは大陸一ですから」
このやろ、と小突かれそうになったところを避ける。
何しろ、大陸一の拳だ。軽い調子でどんな力が込められているかわからない。
レカンの町の入り口に、血塗れの脳漿をぶちまけてしまうわけにもいかないだろう。その脳漿はツァリセの命と同義だ。
「避けんな、バカ」
「やですよ。そうやってこないだ新人を気絶させたじゃないですか」
「お前は新人じゃねえ」
「余計に嫌です。それよりも……どうします?」
目的の相手がいない腹いせにじゃれ合おうとするビムベルクの意識を、再度北方に向けさせた。
気にしていたのは黒涎山や若い勇者のことばかりではなかろう。
「どうするっても、なぁ。休暇で来てるんだが」
面倒くさそうに見やってから、すぐに気分が変わったのか、にやりと口元を歪めた。
「面白そうじゃねえか」
「……いいえ」
上司と意見が合わない。いつものことだが。
ツァリセは常識があるから副官をしている。エトセンで隊長の不在を預かっている副隊長も、常識のある人だ。
非常識な上官であり、エトセン騎士団赤の一番隊長ビムベルクを支える者として。
「っていうか、休暇なら僕は行きませんよ。拒否します」
「ルラバダール王国所属領で異変があったら、どういう状況でも対応するのが騎士の役割だろうが」
「こんな時ばっかり規則を持ち出さないで下さいよ!」
「バカ野郎。俺が隊長なんだから俺の言うことがルールなんだよ」
転職したいと思わないでもないツァリセだった。騎士団入団を喜んでくれた祖母には申し訳ないが。
一人の戦士としては絶大な尊敬をしているし、人間的にも裏表のない性格で嫌いではない。
上司としては、横暴で気まぐれで突拍子もないという、およそ最悪な部類ではあるにしても。
「それによ、放っておけねえじゃねえか。なあ」
語尾を上げて声を掛けた。
その対象はツァリセではない。
その後ろで黙って控える――
「は、はいっ。閣下」
灰色がかった黒髪に、茜色の瞳をした少女だった。
(少女……と言っても僕の倍くらい生きてるはずですけど)
寿命が違う。
だが見た目は人間と変わりはない。
こうして普通の服装でいれば、気づかない人も多いだろう。
首輪もなく、まるで人間のような服を着て付き従っているのであれば。
「清廊族が関わっているってんなら、放っておけねえだろ。スーリリャ」
「はいっ」
元気な返事をする。
影陋族の娘がこんなに元気に返事をすることはない。
少なくとも、ツァリセは知らない。
「よぉし、どういう事情かわからんが、俺が隊長としてしっかり調査してやろう」
「行ってらっしゃいませ」
「お前も行くんだよ、ツァリセ」
渋い顔のツァリセに、スーリリャと呼ばれる影陋族がくすくすと笑う。
(笑う、か)
それだって他で見ることはない。彼女の同族は陰鬱な表情ばかりなのが普通。
笑顔のまま、腰に下げていた木板の間に挟んだ紙に何事かを書き込んでいた。
記録係。
休暇の最中でも、隊長の言葉を記録しながら追従している。
奴隷でありながら、奴隷として扱われていない。
(本当に、非常識な人なんだよな)
別にツァリセは虐待趣味があるわけではないので、どんな生き物に対しても加虐的な行いに喜びを抱くことはない。
世の中的に、ビムベルクのやっていることは非常識ではあるが、このスーリリャの扱いについては別に不満には思わない。
「どこでもついていきます。閣下」
書き終わったのか、そう言ってビムベルクに笑いかけるスーリリャの頭が撫でられる。
恥ずかしそうに、だが逆らわずに頭を撫でられる姿は嬉しそうで。
隊長の言葉を書き記し、いつか影陋族――彼女らの言う清廊族と人間との関係を変える日が来るのだと、スーリリャはそう言うのだが。
(甘い考えだ)
ビムベルクとスーリリャの個人的な関係で、世界全体が変化するなど有り得ない。
おそらくこの先もずっと、人間と影陋族の関係は変わらない。変えられない。
(……甘いとは思うけど、嫌いになれないんだよね)
迷惑な上司の非常識な行動にいつも困らされるツァリセだが、ビムベルクのことを嫌いだと思ったことはなかった。
気持ちのいい男で、頼れる上司。そして――
「英雄ビムベルクの戦いに、供の一人もいないんじゃ恰好がつかないでしょう」
人類の、英雄。
この大陸で現存する三名のうちの一人。
そんな英雄の副官であることは、ツァリセにとっては誇りと言えなくもない。
「よぉし、じゃあ出発だ」
「駄目です。待ってください」
意気揚々と出立の掛け声を上げた英雄にダメ出しをするのが仕事だが。
あぁ、と胡乱な目を向けるビムベルクと、目をきょろきょろさせているスーリリャ。
何も考えていない二人に溜息交じりに言った。
「闇雲に行ってもわかりませんから。ちゃんと襲撃のあった場所を調べて、相手の行動の予測を立ててからです」
「はぁ、そうですかぁ」
頷くスーリリャと、子供のように口を尖らせるビムベルク。
「そういうのはお前の仕事だ。さっさと調べろ」
「はいはい」
別に頭を撫でてほしいとは思わないが、少しは労ってほしいと思うこともあった。
※ ※ ※